1947(昭和22)年2月1日、戦後初めての旧制立命館中学校新聞「清和」が発刊されました。
1.戦後の世相と新制中学校・高等学校
発刊された当時は、戦後の激動まっただなかの時代で、敗戦後の価値観の変動、民主化への試行、国民生活の疲弊と猛烈なインフレなど、どれ一つをとっても大変な時代でした。
1946(昭和21)年11月に公布された「日本国憲法」に基づいて、教育界でも制度の改革が進み、1947年3月31日に「教育基本法」と「学校教育法」が公布され、4月1日から新制中学校が、翌1948年4月からは新制の高等学校が誕生します。
新制の中学校・高等学校になると、多くの学校で生徒が主体となった新聞が発行されるようになりますが(注1)、立命館中学校ではまだ旧制であった1947年2月に、はやくも生徒主体の学校新聞「清和」が発行されたのでした。
生徒有志による「清和」の発行は、第1号だけしか確認されていませんが、終戦から1年半で発行された「清和」の記事には当時の民主化・言論の自由化の雰囲気のなかでの生徒たちの熱い思いが凝縮されていました。
2.1947(昭和22)年の旧制立命館中学校の姿
学徒勤労動員で長く学校を離れていた生徒たちが終戦後に学校へ戻りましたが(注2)、教科書も十分に揃わず(写真1)、授業も何を教えてよいのかわからないような手探り状態のなかで授業は再開されました。今までの価値規範が崩壊し、生徒たちは自分たちを支配していた政治の間違いを知り、これからどう生きるかを模索していました。このなかに、戦後の民主主義国家建設に向けて、自分たちが主役となるのだという大きな希望に胸膨らませている生徒もいました。
写真1 当時の教科書(1946年5月発行の「中等数学三」) 史資料センター蔵
3.生徒たちの熱い思い
このような生徒たちによって、立命館中学校で初めての学校新聞が、1947(昭和22)年2月1日に発行されたのでした。
紙名の「清和」は、中学校商業学校の同窓会「清和会」の機関誌と同じ名前でした。題字は当時の部長(6つの付属校を統括する役職名)羽栗賢孝(注3)によって書かれていました(写真2)
奥付には編集人として「立一中 山本弘之、則松郁人、大村茂雄」(3名は共に立命館第一中学校4年生)。そして、大津市の印刷所の名が記されています。
この第1号はB5版16頁にわたる大作で、記事のタイトルと内容には、当時 の生徒たちの民主主義への熱い思いで満ち溢れています。
新聞の顔である第1頁を飾ったのは中学4年生の編集人大村茂雄(注4)による『発刊に際して』でした。戦前の学校誌の順序からすれば、「立命館禁衛隊」(注5)などのように学校長の祝辞や訓示、訓話が掲載されているところが、生徒による文章がトップに位置し、レイアウトや体裁は未熟ながらも、その内容には敗戦後の日本や学校を自分たち若者が中心となって建設していかねばならないという大きな希望と強い使命感が湧き出ているのです。自分たちの生活は政治と密着していると考え、国家を論じています。これこそ新時代の息吹といえるものでした。
写真2(「清和」第1号 1頁)
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大村茂雄の投稿は次のような内容でした。
「敗戦、此の苛酷なる現状より立上り、一刻も早く民主的學園を建設し、幸福な住みよき社会を構成するのは、我等に課せられた、最も重大な使命でなくて何であらうか。
敗戦此の方、一年有半、超国家主義と、軍国主義打破に伴ふ、學園民主化の叫びは、我等立命館學徒を、如何程自主的にし、又向學心を奮起せしめ、且又進取的ならしめたか。渾沌たる社会の荒波にもまれつくした、我等の中には、遂にとるべき方向を誤り、自覚の念を失ひ、自由と放縦とを履き違へ、學徒にあるまじき行為さへも敢てし、世人の顔を背ける様な態度に出ずるものが多々あるのは、否み難き事実である。斯くの如き実情を放置すれば、我學園の存続は、最早憂慮すべき状態となるであらう。だが、一學園の興亡と云ふことより、もっと留意し、真面目になって考へなければならない問題は、我等青少年學徒の精神遅緩によって、此の乱れた社会が益々乱れ、頽廃せる道義が益々頽廢し、果ては、我民族の滅亡を招くと云ふことである。此處に我等は、大いに反省し、大なる理想を持って、世界人類の幸福發展のために進まねばならぬ。それとともに、一時の迷いに踏込んだ人々を善導するのも我等の仕事の一であらう。
學校生徒自治會が發足し、學徒の自治機関は構成されはしたが、果して、其の活動振りは如何であったらうか。上辺に走り、末端にとらはれ、學徒の本分を忘れ去った様な状態が伺はれるのは遺憾なことである。勿論、戦争中軍国主義によって教育され、上司の云ふがままに動かざるを得なかった我々に早急に自主的たれと要求するのは無理である。しかしそうかと云って、いつまでもその状態でよからうか。否、一刻も早く、真の自由に目覚め、民主學園の建設に努力しなければならない。しかるに今の學徒が全般的に思想が貧困であることは大いに憂慮すべきことである。
今回、有志者による月刊紙を発行することになったが、勿論未完成な我々の編集による、拙い一紙ではあるが、少しでも立命館學徒の啓蒙運動に貢献することが出来得れば編集人として最も幸甚とするところである。
経済的、内容的に最も困難多き、此の事業に敢て当らんとする、我々の志を諒として、其の目的達成の為に校友諸君の絶大なる御後援を切望する次第である。」
また、『新聞発刊へ望む』と題して投稿した第三中学校三年の船越力は「……此の新聞が校内民主化の重要部門となり得るものであり、校内の重要発展を全生徒に知らしめて学園民主化の先駆たる事を確信する次第である。」と、学校新聞の意義と役割を説いています。
匿名で生徒が投稿している『学園の民主化について』と題した記事では「学園の民主化の道に立塞っている怪物とは何か。軍国主義、封建主義、超国家主義である。而もこの怪物の多くは鎧を巧みに民主化の衣の下に隠しているのが常である。……先生と生徒との関係をより緊密にし、真理の探求への道を互いに手を執って愉快に進ましめるものである。」と述べています。大人以上に鋭く社会の裏側を見抜いていました。
4.教員たちからのエール
これら生徒たちの投稿に対して、大人たちは若者の力に期待と賞賛のエールを送っていますが、裏を返せば、戦後社会に希望を見出せずにいたのかもしれません。
第1頁の生徒の文章に続いたのは、卒業生で母校の立命館第一中学校の教諭となっていた小山五郎(注6)の『生徒諸君の自主的な月刊紙の創刊を祝して』でした。立命館の生徒が自主的に新聞を発行することが、これからの日本の再建にとって欠かせない力となっていくはずだと絶賛しています。母校が成長する姿に感慨もひとしおだったのかもしれません。
「……敗戦後、本学園に於ける生徒諸君の自主活動のうち、極めて意義ある企であるのみならず、中等学生として全国的にみて極めて進歩的、建設的、且つ画期的な試みであると信じ、ここに満腔の賛意を表すると誠に慶賀に堪えません。……諸君等の中から盛り上がる自覚自治の態度の確立こそ、将来に於ける日本の再建を一日も早からしめる重大な鍵でなければならないと信じるものであります。……諸君等による学園新聞の刊行が極めて意義ある企であると共に従来の種々の自主活動に対して画竜点睛的な意味を有つものとして絶大の賛辞と敬意を感ずるのであります。……」
校長平口正雄(注7)は『井蛙論』と題した文章のなかで、田沼父子を例に出して、客観的に物事を見ることの大切さ、科学的であり合理的な物の考え方がこれからの日本人にとって必要であることを強く述べています。そして、最後には生徒たちに井戸から出て、希望多い新しい世界への第一歩を踏み出そうと強く呼びかけています。
社会科教諭の柳田暹瑛(注8)は『若さと言ふこと』と題して、祖国日本を新しく再建し、明日の日本を建設するのは、高い教養を身につけ、いかなる障碍をも越えて真実を追求して生きる情熱の青年でなくてはならないと述べています。
5.「清和」から見える当時の学校生活
学校新聞「清和」からは、当時の学校生活の様子も知ることができます。
則松郁人(編集人)は、当時の狭い運動場とクラブ活動の様子を「競技には勝ちたい、ガラスは割らないようにしたいと思ったところで、猫の額ほどの狭い運動場で生徒たちが休み時間に球技で遊び、放課後も運動部の練習に励んでいる。その結果、校舎の窓ガラスが何十枚と割られることになってしまっているが、修繕が追い付かないでいる。猫の額ほどの運動場では野球、庭球、陸上競技が練習していて、その上にラグビー、ホッケー、サッカー等の部を設置したいという声があがっている。部員たちは猛練習をして試合に臨んでいるが、応援席は閑散としている。」と嘆いています。
後に新制の学校として生まれ変わっても、北大路学舎の狭隘な環境のなかで育つ生徒の姿は最後まで変わることはありませんでした。
また則松は、「読書雑感」で学生にとっての読書が重要であると述べながら、学校設備の不十分さを「次号からは書評なども掲載していく予定である。….ただ残念なことに、本校には図書室もなければ読書研究会も蔵書交換会などもない。図書室の設備のないような中等学校は自慢にもならず全国でもそうザラにはない」と訴えています。
このことに関しては、学校側もその現状打開のために努力していました。勤めて2年目の教諭上田勝彦(注9)は「講堂を自習室として開放し、図書部を早急に講堂横に設け、生徒より部員を募りその活動により生徒の読書、自習の便に供せんとの計画を立案する。そこで図書を整理したところ、予想以上に多くの図書が欠本していることが判明した。これは長期間責任の係がなく、教員が自由に図書を持ち出したからである。教員の教育を通しての祖国復帰への熱意の薄さを憂う。一冊でも多く回収して漸く芽生えてきた学園の文化的向上の意欲にそうべく貧弱極まる図書室を充実したい」と悲惨な現状と教育者としてなすべきことを振り返っています。
部活動では野球部、卓球部、庭球部、陸上競技部などの名が並んでいます。文化部では弁論部の活動が抜きんでていました。戦後、まだ学校新聞が民主化へ十分な活躍のできていなかったころ、啓蒙のための最高の手段は弁論(言論)でした。そのため、弁論部は全国的も花形クラブで、立命館でも然りでした。
文化部では他に生物班、美術部などに加えて特筆すべきは聖書研究会でした。部員は約20名で、校内では月水の朝8時からの活動で聖書を読み、英語を通じて世界の文化を研究していました。また進駐軍牧師大尉が来校して講演したり、日曜礼拝も行ったりしていました。研究会の創設から活動を指導していたのは、英語科教諭鈴木七郎(注10)でした。終戦後2年も経たないなか、男子校にあってこのような活動が続けられていたことに驚かされます。
コラム欄には、生徒の生の声が紹介されています。既述の「立命館禁衛隊」(注5)にはなかったもので、自由な時代の息吹が感じられます。そのいくつかを紹介すると、「つまらない方がいいのは煙管と煙突だけ」「『ゲタハキモノ』を『下駄は着物』と思ったら『下駄履物』だト。漢字制限の悩み」「桃色雑誌の発刊停止は学生、生徒へコーヒーをより多く飲ませる為の警視庁の非常措置となるのでは。真に憂ふべき事であろう」(写真3)
6.新制立命館中学校高等学校「立命館タイムス」の誕生
「清和」発行当時は、紙不足が全国的に深刻で、大手の新聞社でさえGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)からの圧力によって教科書作成のために発行を縮小し、紙を教科書に充当しなければならないような時代にあって、どのようにして生徒たちは費用を捻出し紙を確保したのでしょうか。GHQによる「学園の民主化と言論の自由化」の一環として全国の学校新聞の発行のために何らかの特別措置があったのではないかと考えられますが、これは1948年の新制高校誕生以降のことです。
学校新聞発行にはこのような厳しい状況がありましたが、それでも「編集後記」(写真4)には第1号発行までの経過と反省、そして次号予告が次のようにまとめられています。
「新聞の発刊は、よほど以前から羽栗先生たちで企画されていたが、第1号は計画と発表があまりに急で、準備が十分にできなかった。写真やカットがなく、紙面にも活気が感じられない。次号からは父兄欄、読者欄、映画欄などを設置して多くの記事が編集室の机上に山積するほど集めたい。先生の書かれたことであろうと間違っている、自分の方が正しいと信じる人は忌憚なく堂々と書いてください。匿名は守ります」
写真3(「清和」第1号16頁)
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第2号への期待と抱負はしっかりと書かれていました。しかし、残念ながらその第2号は確認されていません。
第1号発刊から2ヵ月後、「教育基本法」・「学校教育法」が公布され、4月1日に新制中学校が発足されます。立命館中等部新聞部によって学校新聞「立命館タイムス」第1号(注11)が発刊されたのは11月27日のことでした。「清和」創刊から僅か9ヵ月にして、一般紙と比較しても見劣りしないほどレイアウトや体裁は大きく技術を進歩させています(写真4)。こうした特徴は新制高校で全国的にも見られるようになり、新しい時代の学校新聞として本格的な展開が行われていくことになるのでした。
この「立命館タイムス」については、改めて紹介することにします。
写真4「立命館タイムス」第1号1頁
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2018年6月14日 立命館 史資料センター調査研究員 西田俊博
注1:「立命館タイムス」(立命館中等部新聞部)第5号1948年3月11日付記事から作表
注2:学徒勤労令廃止 (1945年10月10日)
注3:羽栗賢孝は、1940年に立命館中学校・商業学校夜間部社会科教諭として奉職。1942年3月から44年3月まで第一中学校・第一中学校夜間・商業学校の校長を務め、1945年1月から48年5月までを中学部長として各付属校を統括した。
注4:大村茂雄は昭和23年立命館第一中学校卒業。「脚に障害をもちながらも野球部に所属し、速球投手として活躍していた」と2学年後輩の卒業生が語っている(新制高校第1回卒業生S.I氏談)。1961(昭和36)年から1970(昭和45)年まで立命館高等学校で数学の非常勤講師を勤めた。
注5:「専ら立命館中学校並びに立命館商業学校の人心の統制、学術の奨励を目的として発行された月刊誌で、この機関誌には生徒の詩編や随筆文も掲載され、生徒と父母への学園広報誌としての意義を持っていたが、(中略)、学園の教育理念を徹底する啓蒙的役割を果たしていた」(立命館百年史 通史1 p462)
注6:小山五郎は旧制立命館中学校1932(昭和7)年卒業。1939(昭和14)年から1974(昭和49)年まで立命館中学校高等学校で社会科教諭として在職。新聞部や社会研究部などの顧問を務める。立命館中高創立50年の時には校史のまとめに尽力した。
注7:平口正雄は異色の学歴と役職をもつ。戦前に京都帝国大学動物学科と東京帝国大学獣医学科卒業の学歴をもつ。1945年10月に立命館第一中学校に奉職。47年から第一中学校校長、48年に高校校長となるも、2ヶ月足らずで退職。京都府教育委員会に入り学校教育部長を務めた。その後、56年に再び立命館中高教諭となり、60年から63年までの間、中学校校長と高校校長代理の職についた。
注8:大津の三井寺の僧侶でもあった柳田暹瑛は、弁論部の顧問を務め、全国弁論大会で優勝する生徒まで育てている。この頃の柳田は、よく生徒たちを「裸木」と例え、若者たちが教育によって育ち未来に羽ばたくことを常に授業でも熱く語り続けていたと、当時、柳田が学級担任をしたクラスの卒業生は語っている。この時の生徒たちは、卒業後、毎年「裸木会」という名のクラス会を開催していて、現在は学年同窓会の名に拡大して継続している。柳田の教えが今でも卒業生たちに行き続けている(1953年高校卒Y.S氏談)。
注9:上田勝彦著「昭和をあゆむ野の小径」 p21「図書部の創設に就て昭和22年5月」
上田は東京帝国大学国史学科卒業。陸軍に入隊し中尉で終戦を迎えた。28歳で立命
館中学校に奉職。立命館中高の教育発展のため多大な努力を惜しみなく続け、当時の
末川博総長からの信頼も厚く、1963年から66年には現在のような一貫教育校として
初めての中高校長となった。
注10:鈴木七郎は1937年に商業学校英語教諭として奉職。新制中学校高等学校の教諭を勤めながら、立命館大学の英語講師も兼務。1961年から63年まで高等学校補導部長の役職に就いた。英会話が堪能で、GHQが北大路学舎に乗り込んできた時に一人で対応されたというエピソードは、当時を知る卒業生たちの有名な思い出話である(新制高校第1回卒業生S.I氏談)。
注11:生徒の公式の活動として新聞部が設けられ発行された学校新聞。1947年11月27日に第1号以来、1976(昭和51)年12月15日の第126号まで29年間にわって刊行し続けられてきた。発行所は1号から5号までが「立命館中等部新聞部」、6号から10号までが「立命館高等校中学校新聞部」、11号以降は「立命館高等学校新聞局」となっている。