立命館には演習林があります。貴船演習林といいます。
所在地は京都市左京区鞍馬貴船町と鞍馬本町で、貴船神社の北、京都府道361号上黒田貴船線沿いに1号地から5号地まであります。
面積は合計232,829㎡で、衣笠キャンパスが125,720.88㎡(2017年3月現在)ですから、そのおよそ2倍の面積となります。
≪演習林の取得≫
市街地から離れた貴船演習林は、いつどのような目的で取得したのでしょうか。
史資料センターに取得当時の土地登記簿謄本が所蔵されています。
買主は財団法人立命館、売主は無限責任摩気信用購買利用組合で、昭和18(1943)年12月28日に売買契約をし、昭和19(1944)年4月17日に登記したことがわかります。摩気信用購買利用組合は当時京都府船井郡摩気村にあった組合で、現在の地名では南丹市園部町摩気地区にあたります。現在組合は無く、売買の経緯は不明です。
取得時と現在(1992年の土地登記簿謄本)では、所在地名が変わっていますが、場所は同じです。地目が山林から保安林に変更されていますが、変更は昭和32(1957)年9月17日の京都府による保安林指定によります。面積は、取得時が71,195坪(㎡に換算すると234,943.5㎡)、現在は232,829㎡(坪に換算すると70,554.24坪)ですから若干減少しています。この減少は、昭和22年に府道を整備するために京都府に寄附したことなどによります。
≪取得の経過と利用≫
(1)取得後の寄附行為と背景
演習林を取得した目的は、財団法人立命館寄附行為に書かれていることにあると考えます。
取得後の昭和19(1944)年5月31日に改正認可された「財団法人立命館寄附行為」は、
第10条 本財団ニ於テハ将来其ノ資力ノ充実ヲ保チテ左ノ事項ノ実行ヲ期スルモノトス
そしてその六に、本財団ニ於テ山林及農場等ヲ経営シ生徒ノ勤労鍛錬ノ道場ト為シ土地ニ親シム勤労鍛錬ヲ以テ学園訓育ノ基本的施設ト為スコト
とあります。それ以前の寄附行為には上記の条文は見当たらないことから、立命館は山林や農場等を経営し生徒の勤労鍛錬、訓育の施設としたことが窺えます。
時代背景を考えると、戦況の悪化により学校に関係する戦時非常措置だけでも
昭和16(1941).10.16 「大学学部等ノ在学年限又ㇵ修業年限ノ臨時短縮ニ関スル件」
〃 11.22 「国民勤労報国協力令」
昭和18(1943). 6.25 「学徒戦時動員体制確立要綱」
〃 10.12 「教育ニ関スル戦時非常措置方策」
昭和19(1944). 1.18 「緊急学徒勤労動員方策要綱」
などの勅令公布や閣議決定が次々と打ち出されました。
また京都府は、「大東亜戦争記念林設置要綱」を制定し、昭和17(1942)年11月20日に「大東亜戦争記念造林設置奨励ニ関スル件」を市町村長、中等学校長、国民学校長に宛て通牒しました。
通牒は「今次事変勃発以来木材木炭ノ需要俄ニ増大シ……造林ヲ促進スルハ焦眉ノ急……全国的ニ大造林運動ヲ展開シ併セテ学徒青少年等ガ造林作業ノ実践ヲ通ジテ心身ノ鍛錬ヲ行ヒ広ク国民ニ国土愛護ノ精神ヲ昂揚セシムル事……」(「京都府広報」昭和17年11月20日)と、学校林および団体林の設置を奨励しました。
さらに昭和18年7月16日には、「大東亜戦争記念学校林造成奨励金交付ノ件」を通牒し、学校林造成実施について格段の配慮をするよう通牒しています(「京都府広報」昭和18年7月16日)。
こうした戦時の国策や行政の施策が実施されるなか、勤労動員先は企業の工場以外にも木材や食糧等の物資の調達のため山林や農場を確保することとなり、生徒の勤労・訓育の場となりました。
演習林取得とその後の寄附行為の改正は、そうした戦時の状況を反映しているのではないでしょうか。
(2)「督学報告」の勤労動員先
それでは立命館において、演習林が実際にどのように利用されていたのでしょうか。
昭和19(1944)年4月立命館では督学制度が始まります(注1)。中川総長が「督学」を任命し、督学は総長に毎月大学や中学校の学徒勤労動員など学校の状況を報告しています。
その「督学報告」のなかの立命館農林部作業学徒勤労動員出動表の昭和19年6月分には、衣笠農場(注2)に一中・三中・商業の生徒が勤労動員に出動、貴船山林に一中502人、商業672人が出動していることが記録されています。中学生はほかにも小倉村などへ麦の取入れや祝園部隊に軍需品の製造搬出作業などに行っています。
同年7月にもやはり衣笠農場と貴船山林に出動し、貴船では一中の219人が樹枝伐採、木材引下しの作業を行っています。
さらに、11月10日には二中の生徒が貴船山の作業に出動しています。
督学報告からは、農林部が衣笠農場や貴船演習林の作業を手配していたと思われます。
なお、一中は立命館第一中学校、三中は立命館第三中学校、商業は立命館商業学校で、北大路学舎(現在立命館小学校のある場所)にありました。また二中は立命館第二中学校で上賀茂神山校舎にありました。
(3)農林課
督学報告には農林部の存在が知られますが、同じ昭和19(1944)年12月29日、理事会は立命館基本機構および各部機構の設定を実施します。これは中川総長が10月7日に逝去した後の学園体制づくりですが、法人の事務部門を総務部・財務部・事業部・医務部とし、事業部のもとに農林課・企画課を設置しました。
この機構改革は、翌昭和20年1月6日の理事会で「立命館内規」として制定され、農林課は農林経営事務を統括し、教職員、学生、生徒の給食、学園に必要な用材、薪炭の補給等をその担当としました。
そして戦後、昭和21(1946)年1月6日の理事会で内規が改正され「立命館館則」に改められ財団の機構整備が図られます。法人事務部門として総務部・財務部・医務部が置かれ、総務部のなかに庶務課・人事課・農林課・校友課が設置されました。農林課は農林の経営企画を統括しました。
昭和23(1948)年2月現在の「立命館専任職員名簿」には、農林課長、農林技手の職名が見られますが、昭和23年5月31日の改正館則では農林課の課名は見当たらず、財務部経理課が不動産管理業務を担当していることから、農林部・農林課は戦中からこの時期にかけて演習林の経営を担っていた部門・部署であったと言ってよいでしょう。
(4)戦後の演習林
①演習林立木の利用と土地一部処分
昭和22年12月19日、評議員会は「基本財産貴船演習林立木及び土地一部処分」を決定しました。
新制大学への移行をはかるこの時期、学舎の狭隘と新学制の実施に対応するため、研究所、図書閲覧室、学友会館を建築するものとし、その用材を貴船演習林の立木三千石を伐採して充当すること。また京都府が黒田京都間の道路を拡築するについて道路敷として寄附をすることとなりました。道路が完成すれば著しく利便が増すとの判断でした。
評議員会の決定により、同月22日に文部大臣宛「基本財産処分について」により処分の承認を申請しています。
その内容は、貴船山林の松杉立木三千石を校舎増築のため処分すること、および府道敷のため鞍馬長ユリ7番地のうち419.025坪と貴船長ユリ5番地のうち321.825坪、計740.85坪を京都府に寄附するというものでした。
②間伐樹木の売却
昭和26年には演習林の間伐樹木2,791本(見込材積1,136.18石)および風害木約400本を356,582円で売却の契約をしています(注3)。ジェーン台風により被害を受けたことが契機となったようです。
(注1) 督学は戦時下の立命館財団一般事務の整備ならびに学園全般の教授、訓育、修錬勤労作業および保健等の振興について査察、督励をし、戦時国家の緊喫要請に応えることを目的とした制度(昭和19年「立命館督学規程」より)で、4名の督学が任命され実施されたものです。なお、当時文部省は、「文部省教学官規程」を制定していました。
(注2) 衣笠農場は、現在の衣笠キャンパスの一角に、当時は等持院校地と言われましたが、昭和23年頃までありました。農林部や農林課があったので、食料の生産、自給活動が実施されたと思われます。
(注3) 現在とは材木価格の比較が困難ですが、同年(昭和26年)の立命館大学一部文系
学部の授業料は年額9,500円でした。
以上、貴船演習林取得の経過と戦時期の利用、戦後の立木の利用・処分について概観しました。その後、山林・立木の鑑定評価も行っていますが、維持管理は委託により今日まで継続してきています。
2018年8月1日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次