1.戦前の日本のスポーツとオリンピック
明治になって欧米から輸入されたスポーツは、学校教育の一環として取り組まれて徐々に普及していきました。団体競技はもちろんのこと陸上競技や水泳などの個人競技でも応援合戦と共にわかりやすい学校対校戦形式に人気がありましたが、スポーツそのものの普及率はまだまだ低かったのでした。社会人がスポーツをするという環境や意識も低く、スポーツ施設・設備を備えているのが主に大学であったため、卒業後も競技を続ける選手は少なく、ほとんどは母校に練習環境を求めるという状況でした。
競技レベルの低い日本が、国家の代表として選手を国際大会へ最初に送り出したのは、1912(大正元)年のオリンピック・ストックホルム大会でした(注1)。その後、5回のオリンピックで選手団の数を増やし【資料1】、1928(昭和3)年のアムステルダム大会で男子三段跳の織田幹雄が金メダル、女性初参加の人見絹枝が陸上800mで銀メダルを獲得しました。この頃から日本にとってのオリンピックは、国家の威信をかける場となったのでした。
【資料1】 戦前のオリンピックにおける日本選手団
(「近代オリンピック 100年の歩み」財団法人日本オリンピック委員会)
日本のスポーツ界を牽引したのは大学、それも関東を中心とする帝国大学や有名私立大学が主流で、関西の大学からのオリンピック出場第1号は、1924(大正14)年パリ大会の1名でした(注2)。
2.関西に立命館の市原正雄あり
立命館の学生で初めてオリンピック代表となったのは、1936(昭和11)年の第11回ベルリン大会陸上競技男子400m障碍(注3)に出場した市原正雄選手(法経学部法律学科3年)でした。
【写真1】立命館大学時代の市原正雄選手
市原正雄選手は、1913(大正2)年11月7日に京都府南桑田郡篠村(現在の京都府亀岡市篠町)で市原鶴之助の長男として誕生しました。地元の亀岡尋常小学校を卒業後、京都府立亀岡農学校(現在の京都府立亀岡高等学校)へ進み、1931(昭和6)年立命館大学専門部2部法学部に入学しました。
市原正雄選手は、入学した年の9月に開催された第11回関西学生対校選手権大会(甲子園南運動場)400m障碍に出場し、早くも優勝(記録1分1秒0)しています(注4)。当時は、学校対校の形式をとって順位重視であったため、計時・計測は1位だけとされ、多くの個人記録は残されていません。農学校時代の記録も見つかっていません。市原選手は試合で短距離や跳躍種目など多種目に出場し、優れた運動能力を発揮していました(注5 )。その後は400m障碍の種目に出場し、1933(昭和8)年には第6回日本学生対校選手権2位、第20回日本選手権でも第2位(56秒4)に入賞しました【写真2】。明治神宮体育大会では3位ながらも、前回オリンピック出場選手と日本ランキング1位選手との間で大接戦のレースを展開しました(注6)。大学専門部3年生の1月には第7回京都学生駅伝にも出場して健闘しました【写真3】(注7)。
市原正雄選手は、1934(昭和9)年に立命館大学1部法経学部法律学科に入学し、その後も練習を積み重ね、日本ではトップレベルのハードラーとして「関西に立命館の市原あり」と、その存在を知られるようになりました。
【写真2】1933(昭和8)年京都学生対校選手権優勝
(前列右から3人目が市原選手)
【写真3】1931(昭和6)年 京都学生駅伝初メンバー
(前列左端が市原選手)
3.第10回極東選手権大会の出場を巡って
1934(昭和9)年5月にはフィリピンのマニラで第10回極東選手権大会(注8)の開催されることになっていました。市原選手は、前年の日本学生対校選手権と日本選手権の400m障碍で共に2位に入賞していたことが選考実績とされ、この種目での日本代表2名のうちの1名に選ばれました。いよいよ日本を代表するハードラーとして認められるようになり、2年後に迫ったオリンピック代表の座もしっかりと視野に入ってきたのでした。
市原選手にとって初の国際大会出場という機会をえたまでは順調でしたが、開催の年になってこの大会が俄然大きく注目されることになりました。
極東選手権大会は、それまで日本、フィリピン、中国の三カ国で開催していたのが、ここになって満州国が参加を求めてきたのでした。日本国内でも認可を巡って意見が分かれ、認められなければ大会をボイコットすべきだとする動きへと展開しました。関東の大学のなかには、混乱を避けようと学生に参加辞退を促すところまでありました(注9)。こうした状況下で市原選手は、新聞の誤報(注10)に振り回されながらも【写真4】、立命館関係者らの激励を受けて参加していくこととなりました(注11)。
【写真4】「市原選手も出場辞退か」と伝えられた新聞記事の見出し
(京都日出新聞 1934年4月26日)
1934(昭和9)年5月、大会は当初の三カ国によってマニラで開催されました。各競技は日本の予想通りに優勢で進み、陸上競技は42名の日本選手団で圧倒的勝利を収めました。市原正雄選手は、フィリピン選手に1位2位を奪われての3位ながらも当時の日本記録(54秒6)に迫る55秒1(自己新記録)のすばらしい記録でした。市原選手は、結果に満足しながらも課題と目標を次のようにまとめています(注12)。
「正々堂々最後迄自己の力以上ものを発揮し闘ったのだ」からどうして悔いることなどあるだろうか。「ハードルを始めて丸三年。日尚ほ浅い私が日本代表選手として此の度の大会に選抜されただけでも祝福すべきだのに、マニラの天地に於いて古武者の彼等を相手に戦ひ敗北せしも、入賞したことは本当に幸運児と言はねばなるまい」そして、「彼等も人間なら私も同じ人間なんだ。人間と人間との競技だ、闘いだ。」敗れた最大の原因は実力不足だったとして、「今後、苦練苦闘実力の養成に努め得て、何時かは彼等を倒し、来るべきベルリン大会に備へんとするものである」と、世界最高の大会であるオリンピック出場に向けて一層の努力を積み上げていく決意を新にしたのでした。
市原選手は報告書を「眞の憂国者は誰」と題していて、その文章の最後で今回の満州国出場問題を整理しています。
「それにしても想ひ出されるは参加に絡む出発当時の諸事件である。非国民、国賊とまで汚名を受け乍ら、我等はそれを押切ってやって来たのではないか、平洋丸にて帰国の途上にある今日其等のことも今では過去のよき想出と化し、満州国参加問題解決の一大土産を持って祖国に向ふ我等の喜びや如何程ならんや、今ぞ真に国を愛し国を憂ふる者は誰であったか」(注12)。
大会終了後、組織委員会からは大会組織を解体し、新たな組織結成のもとで満州国を参加させていくという決定が発表されました。市原選手をはじめ大会に出場した選手たちは、自分たちの選択に誇りを持っての帰国となったのでした。
【写真5】極東選手権前にスタート練習をする市原選手
4.亀岡出身の先輩ライバル
市原選手には、同じ京都府亀岡市出身で1歳上に原田正夫という先輩がいました。原田先輩は、学校は異なりましたが(注13)、200m障碍で全国優勝するなど旧制高等学校時代から名を知られ、京都帝国大学へ進学後は全国的に活躍をしていました。短距離からハードル、跳躍までをこなす万能選手で、市原選手と400m障碍の種目で対戦し勝利していました【資料2】。原田先輩は、後に市原選手と共にベルリンオリンピックへ出場し、三段跳で銀メダルを獲得しています。同郷で実力のある先輩とオリンピック出場を果たしたことはどれほど心強かったことでしょう。
【資料2】関西学生対校選手権における市原・原田対決
(資料から西田作成)
5.2度目の国際大会出場
市原選手は、極東選手権出場の年とその翌1935(昭和10)年に2年連続で日本学生対校選手権と日本選手権の400m障碍に優勝しています。名実共にこの種目での日本のトップハードラーへと成長しました。市原選手はこの優勝後、試合に臨むにあたってのメンタルコントロールを次のように書いています。
「何時、如何なる競技会に於いても私は必ず勝つという自信の意ではなくして敗けてはならないという闘志―ファイテイングスピリットをもって出場いたします。(中略)体のコンディション如何にかかわらず、今日は調子がよいものだ!!調子がよいぞ!!と自分で自分の心に誓います。調子のあまりよくない日においても、よいものと念頭においてグラウンドに出ます。今日の体の調子はどうだろうか?など、疑問の生じたり自分の心を疑ったりしたようなことはございません(中略)。競技会当日は、ただ軽く、気持ちよく、跳べさえすればそれで満足です。それに反して、脚がどうの手がこうのなど言われた日には腐ってしまいます」(注14)。
1935(昭和10)年の夏にはブタペスト(ハンガリー)で第6回国際学生陸上競技選手権の開催が決まっていて、市原選手はその最終予選会(6月)でも日本学生新記録で1位(55秒1)となり、日本代表の選手(15名)の一員に選ばれたのでした。
【写真6】国際学生国内最終予選会1位の市原選手
ところが、市原選手は決定直後に急病となり、代表を辞退するということになりました。その後、病気は快方へと向ったので、9月には関西学生対校選手権に出場していますが、400m障碍で5位という結果しか残せませんでした。それが11月の明治神宮大会では見事に優勝(55秒6)して復活を果たしたのでした。1934年から35年にかけての時間は、市原選手の競技生活に大きな試練の壁であったのでした。
6.立命館初のオリンピック選手に選出
大学での競技生活の最終年となった1936(昭和11)年は、ベルリンでのオリンピック開催の年でした。このオリンピック最終予選会は、5月23、24日の両日に神宮競技場で挙行されました。この予選会出場を前に、市原選手は次のように述べています。
「兎に角、若し幸いにして選抜されたならば、僕も立命男子の一人であるから、心の底に沸きたぎる禁衛隊精神を高揚して帝国スポーツのため、本学の名誉のためにこの一命を打つつける元気を以て大いにやるつもりです。」(注15)
第二日目の午前中は気温が低く、午後からは風雨激しく、土のトラックもフィールドも泥田のようなコンディションとなっていました。この400m障碍決勝で市原選手は、ラストの混戦で逆転されて0.1秒差の2位(55秒5)でフィニッシュをしました。その時の市原選手について「1位の選手と比べてハードリングの柔軟性に堅さがあり、踏切で体が上に浮き、そのため接地にもブレーキがかかっている。しかしながら、日本選手としては体格もあるほう(注16)なので、柔軟性が高まれば、記録も伸びるだろう」と分析されています(注17)。この時の2位までに入賞した選手が、オリンピック400m障碍出場選手に選ばれました。
【写真7】オリンピック出場が決定したころの市原選手のハードル練習
(慣れたサイン入りの写真は大学の後輩に贈られたもの)
この頃、中川小十郎立命館総長は中学校商業学校の校長を兼務していましたが、1935(昭和10)年9月に、その中学校生、商業学校生に向けて、学業への妨げとなるとして、野球や陸上などの西洋スポーツを断固実施しないと表明していました(注18)。大学生にはこうした考えを示していなかったものの、立命館初のオリンピック選手の誕生を学園あげて祝福することはなかったようです。当時の学園事情がわかる立命館学誌には僅かな記事が掲載されていただけでした(注19)。
7.第11回オリンピック・ベルリン大会
オリンピック日本選手団のうち陸上競技の一行は、6月7日に東京から下関へ向けて21時間の列車旅。下関からは連絡船で釜山へ。朝鮮半島、満州を縦断し、シベリア鉄道と船旅でヘルシンキまで。そこで3週間ほどの調整を経てベルリンへ到着するという行程でした。
途中の京城で、市原選手は立命館大学校友会朝鮮支部主催の大歓迎会に招かれ、校友の激励うけ、餞別をいただいたと深い感謝を母校への便りに記していました。
「今般不計も皆様方の絶大なる御声援に依り、第十一回万国オリムピック大会出場日本
代表派遣選手の一員として選抜されるの光栄に浴せしばは、不肖終生の名誉と存じます。
しかも此の度の出発に際しましては重ねての身に余る盛大なる送別の宴を御開催下され、御丁重なる数々の御言葉を頂戴し、尚ほ其の上結構なる御餞別に預かり深く深く感謝致して居ります。この上は皆様方の御厚志、御声援の万分の一にも報ゆるべく伯林に参りましては、正々堂々ベストを尽くし、死して後止むの覚悟を以て競技に出場する覚悟で御座います。先は略儀乍ら御礼まで。」(注20)
【写真8】1936年 第11回オリンピック・ベルリン大会のポスター
【写真9】 開会式で10万人の大観衆のなかを行進する日本選手団
ベルリンでのオリンピック開催は、1916(大正5)年に第6回大会として開催されることになっていましたが、1914(大正3)年7月に勃発した第一次世界大戦のため中止となりました。その後、第11回大会として1936(昭和11)年8月1日ヒトラー総統の開会宣言で開幕したのでした。メインスタジアムは、前回のロサンゼルスと同規模で10万人の観衆を収容し、競技施設器具・器材などが新しく、大会はナチス・ドイツの力を存分に世界へ誇示する絶好の機会となったのでした。
参加国は49カ国、参加選手は史上最高の3,956名。日本選手団は前回大会を大きく上回る179名が参加しました【前掲 資料1】。最多は陸上(47名)、次いで水泳(45名)でした。日本がこれだけの大選手団を派遣したのは、前回大会で世界の一等スポーツ国への仲間入りを果たしたことに加えて、次の第12回大会(1940年)に東京が立候補していたため、そのデモンストレーションの意味も込められていたからでした。その東京開催は開会式前日のIOC総会で決定されました。
陸上競技だけでみると、男子40名中で学生23名。うち関西の大学からは5名、そのなかの一人が立命館大学の市原正雄選手でした。
市原正雄選手は400m障碍と4×400mリレー(第2走者)の予選に出場しました。共に、4着という結果で、次の準決勝へと進むことができませんでした。予選で敗退すると、その記録も公式記録として公認されないルールになっていて、未公認ではありましたが、市原選手の記録は、自己最高記録の54秒7で、当時の日本記録にあと0.1秒と迫るものでした。市原選手としては全力を出し切ったレースだったといえるでしょう。
陸上競技だけでみれば、日本のオリンピック史上最多のメダルを獲得しました。選手の出身都道府県では京都府が最多の4名で、このうち2名がメダリストでした。
【資料3】ベルリン大会での京都府出身の陸上競技選手と結果
オリンピックを終えてからの市原選手は、10月10日に京都駅に到着して、多数の関係者たちからの歓迎をうけましたが、立命館大学では、10月19日に「市原正雄君のオリンピック見聞談及旅行談」を法学部第16号教室で開催したと学誌に報告されているだけです(注20)。オリンピック以後は競技会に出場せず、翌1937(昭和12)年3月、立命館大学を卒業しました。
【資料4】市原選手の日本ランキング
8.半生を北海道での陸上競技に捧げて
市原選手は、大学を卒業して、1937(昭和12)年4月、北海道の札幌鉄道(旧国鉄、現JR)に入社し管理局ヘ配属となっています。関東からも何人かの強い選手たちが札幌へと移っていました。社会人1年生となった市原選手は、北海道で一度だけ400m障碍の記録を残していますが、その後も、再びスパイクを履いて競技場のトラックに立っていました。
7月の大会では札幌鉄道局チームの一員として4×400mリレーに出場し、当時の北海道新記録を樹立しました。この記録は1961(昭和36)年までの24年間破られずに残されていました。また、8月の大会では特殊種目の300mに出場し、35秒6の「幻の日本新記録」を樹立したのです。これは、役員の手続き不備のために公認にはならなかったそうです。10月に東京で開催された第9回明治神宮大会の青年団競技(一般の部とは別で実施)400mで1位(51秒0)となっています。その翌年の1938(昭和13)年には400mで2年連続優勝を果たしましたが、記録に残された市原選手の名前は、これが最後となっています。
その後の詳しい記録は残されていませんが、戦時中に市原正雄は出征し、終戦で復員しています。
1964(昭和39)年に開催された東京オリンピックでは、京都から競技役員として参加していた立命館大学陸上競技部監督であった芝田徳造(現立命館大学名誉教授)と対面しています。母校を離れて28年、年齢には差がありながらも先輩後輩がオリンピックでつながったのでした。
故郷の京都へ戻るのではなく、第二の人生を北海道の地に求めた市原正雄は、広い北海道で11にも分かれている地域毎の陸上競技協会をまとめる北海道陸上競技協会の役員として奔走し、戦後の人生を北海道陸上競技界のために尽くした礎の人でした。その功績を称えて数々の栄章が贈られています。
最後にその輝かしい経歴とともにご紹介します。
【資料5】市原正雄の略歴と栄章 (陸協は陸上競技協会の略)
(「五十年誌 北海道陸上競技協会」から西田作成)
2019年6月19日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博
注1 陸上競技における金栗四三と三島弥彦の2名。
注2 石田恒信(関西学院大学) 水泳100m背泳ぎに出場
注3 当時の種目表記。中障碍とも表記。現在は400mハードルまたは400mHと表す。
注4 立命館での3位入賞者は市原選手以外では1500m2位で髙木正平選手の名が残されているのみ。立命館1年目でのこの記録は、1931年度の日本ランキング14位にはいるものであった。
注5 第2回立命館対彦根高商対校競技会(1931年6月14日 於彦根高商)
市原正雄選手の出場種目と結果 100m 2位記録不明、200mH 1位27秒3
走幅跳1位6m29、三段跳2位記録不明、4×200mリレー1位記録不明
(立命館学誌 第145号 1931年9月号)
注6 「市原は障碍に適した体格を備へているが、まだ生硬の点がある。洗練されるには幾分の時日を要するが、陸口に劣らぬ記録を作り得る人材である」
『大会短距離評 加賀一郎』 「陸上競技」1933(昭和8)年12月号
注7 第7回京都学生駅伝競走大会(1934年1月21日開催)
市原正雄選手 第9区(七条大宮の龍大前~大宮通~四条通~西院~
~三条通~嵐山)区間5位 36分29秒(参加10校)
(立命館学誌 第168号 1934年2月号)
注8 極東選手権大会は1913年から開催されたフィリピン(マニラ)、中国(上海)、日本(東京、大阪)の三カ国で持ち回り開催された大会。優勝回数は日本4回、フィリピン4回、中国1回。第6回大会から優勝国には日本の天皇杯が下賜されていた。
注9 最終的な辞退者は9名(うち2名は全く異なる理由)となった。
注10 「京都立命館大学では26日大会不参加の態度を決したので、同競走部はこれに従ひ市原正雄選手に帰校の指令を発したが、同選手は四百米障害では明大の陸口選手(明治大)と並ぶ強剛だけに相当の痛手である。」
読売新聞 1934(昭和9)年4月27日
注11「極東オリンピック派遣選手中満州国不参加問題に端を発した選手辞退問題は、俄然スポーツ界に一大センセーションを巻き起こし、京都陸上競技界の寵児中障碍の市原正雄君(立命館)にも種々のデマが飛び、一時不参加云々と伝えられたが、右は全く異なることが判明した。
電報は同日午後5時より河原町三条鳥初で開かれた同君の友人達の激励会に臨むためのもので、同君は即夜甲子園スポーツマンホテルに帰り、猛練習を続けることとなりデマを一掃した。尚、同君の選手辞退云々のデマは、25日のこの激励会のための「25ヒカヘレ」の電報が浮説湧出の折とてデマとなったらしい。」
京都日出新聞 1934(昭和9)年4月27日
注12 「マニラ遠征記」 日本陸上競技連盟編纂委員会編 1934年発行
注13 小学校は亀岡市稗田野小学校から京都市内の嵯峨野小学校へ転校。京都一中(現京都府立洛北高校)から第七高等学校(鹿児島)へと進んだ。
注14 『全日本学生陸上競技対校選手権大会 中障碍に優勝して』
「陸上競技」 1935(昭和10)年7月号
注15 立命館学誌 第190号 1936年5月号
注16 オリンピック出場時の登録資料では身長174cm、体重66kg。
注17 「市原、相原(3位)もその走法に速度が増大されてきたのは否定しないが、跨越技巧を福田(1位)と比較する時、一歩譲らねばならぬ。障碍の跨越技巧も次第に低く滑らか味を増してはいるが、まだ跨越に段がつき着陸に無理がある欠点が眼を惹いた。福田と殆んど類似の体形を持つ市原が、今一段と下半身の柔軟さが型に加えられたならば、この種目に実戦経験の豊富なだけに福田と併進しうる可能性は十分にあろう。」
『ベルリン五輪最終予選を顧みて 加賀一郎』 「陸上競技」昭和11年7月号
注18 立命館史資料センター HP<懐かしの立命館>
「立命館と中等学校野球(戦前・後編)」参照
注19 「海の彼方へスポーツ日本の代表として聖戦の途に上る我市原選手を送る為め六月三日午後六時半より四條小橋不二家に於いて体育会、教務、競技部、応援部、学生幹事、其他関係者多数の御来会ありて、盛会裏に送る会は終った」
立命館学誌 第191号 1936年6月号
注20 立命館学誌 第194号 1936年11月号