日本全体が戦後改革を進めようとするなか、立命館も戦前の学園運営と決別し新生立命館へと歩みを進めましたが、その歩みは末川博の名と不可分でありました。その存在がなければ立命館はまた違った歩みをしていたでしょう。
敗戦直後の1945(昭和20)年11月6日、立命館理事会は戦後学園改革をスタートするため、法学博士末川博を学長に推薦することを決定、10日には文部大臣の認可により末川博学長が正式に誕生し、1948(昭和23)年には立命館学園の総長に就任します。
末川博は1892(明治25)年、山口県玖珂村(現岩国市)に生まれ、第三高等学校、京都帝国大学法科大学を卒業しています。
末川と立命館の関係は大正時代に遡り、京都帝国大学の講師となる1年前の1918(大正7)年10月から立命館大学の講師を務め、1933(昭和8)年の京大事件で京都帝国大学を辞任した後は大阪商科大学の教授となりましたが、戦後立命館大学学長として迎えられたのです。
その後、戦後の学園運営をめぐり総長就任直後の1948(昭和23)年11月に辞任していますが、翌49年立命館は総長公選制を布いて再び末川を総長に選出しています。以降1969(昭和44)年4月1日に任期を終えるまで、5期20年にわたって総長を務め戦後の学園改革に力を注ぎました。立命館学園の「平和と民主主義」という教学理念や学生とともに立命館の将来を討議するという「全学協議会」制度も末川総長の時代に確立されたのです。
1970(昭和45)年4月2日、末川博は立命館名誉総長となり、その後も立命館の発展のため力を尽くし、1977(昭和52)年2月16日84歳で逝去しています。
末川総長の言葉「未来を信じ 未来に生きる」を刻んだ碑は今も衣笠キャンパスのバスプールに立ち、往時の姿や歩みは「末川記念会館」に展示されています。
末川博総長(1953年当時)