かつて立命館に陸上中長距離で名を馳せた髙木正平という若者がいました。
京都府の福知山に生まれた髙木正平は、中学生から大学卒業までを立命館で学び育ち、指導者もいない陸上部で一人黙々と走り続けました。中学生でその頭角を現しだすと、大学進学後に努力は開花し、関西の学生中長距離界NO1のランナーへと成長しました。立命館の駅伝チームを牽引し関西学生駅伝で悲願の初優勝を果たし、今も語り継がれる「駅伝の雄立命館」の伝統を築き上げた人物でした。
まだまだスポーツマンとしても未来のある青年は、大学卒業後二年目に応召され、兵士となって約一年半後、国境をめぐる日ソ最大の紛争であるノモンハンの激戦の中で戦死という最期を遂げたのでした。
本稿は、陸上競技に生涯をかけた髙木正平を追いかけたものです。
1.小学生時代
髙木正平は、1912(大正元)年12月16日に京都府天田郡福知山町(現京都府福知山市)で代々酒造業を営む髙木家の繁太郎と直夫妻の次男(五人兄弟)として誕生しました。正平という名は父親が「一存で名付けたもので、大正年間の平和の永続を壽き、本人をおだやかに壮健に永く齢を保つべく意味」(注1)をもって命名されました。正平の祖父半兵衛は地元では有名な大富豪で、家業のかたわら政治にも手腕を発揮し、郡内屈指の有力者として初代福知山市長にまでなった人物でした【写真1】(注2)。
【写真1】家族記念写真 1937(昭和12)年正月
右端が髙木正平、その前が母親直 、前列右が父親繁太郎
以下、写真はすべて「遺稿集」(国立国会図書館所蔵)のもの
裕福な家庭に生まれた髙木正平は、祖父母と両親に大切に育てられました。殊に祖父を慕い、地元の惇明尋常小学校に入学してからも一緒に相撲やキャッチボールの相手をよくしてもらったと学校で楽しそうに話していたそうです。外に出て走り回ることを好む少年で、周囲の友人や大人たちは、明朗快活で笑顔と優しさにあふれ、真面目で純真そのものだったと語っています(注3)。
2.中学生時代
髙木正平は尋常小学校卒業後、同小学校高等科へ入学しますが、一年を修了した後、地元の京都府立第三中学校(現福知山高校)ではなく、京都市内の立命館中学校へ入学したいと家族を説得し、1926(大正15)年4月立命館中学校へ入学しました。
福知山出身の人物が保証人となって京都下鴨の出町柳近くに住む小学校校長宅に下宿先が決まりました。入学した時から、彼は頑丈な軍人靴を履いて通学しました。彼にとって徒歩通学はトレーニングの一環だったのかもしれません。この下宿先は大家が転居後も継続し、大学を卒業する1936(昭和11)年3月までの十年間を同じ大家の元で過ごしたのでした。彼が真面目で意志堅固な性格であったといわれた一面です。
このような髙木も休暇期間になると帰郷し友人らと交流しています。当時の文章には、故郷福知山を愛する気持ちが強く表されています(注4)。
3.陸上競技との出会い
小学校の頃から運動好きだった髙木正平は、中学校に入ってから陸上部に所属しました。本格的に走るようになったのは4年生の頃で、5年生の代わりに出場した府下中等学校連合運動会の1500mで1着となっています。
最終の5年生になって全関西中等学校陸上競技大会に出場する機会がありました。ところが、他の部員たちには出場の意志がなく、学校側も押して出場させようとしなかったため、髙木一人が1500mに出場申し込みを行うことになりました。そのため、教員の引率はなく、仲間の付き添いも応援もないという状態でした。それでも髙木は、白木綿に立命館と書き込んだ部旗を自ら作成して持ち込みました。髙木は、四年間、一人で早朝練習までも続けてきた努力の成果を必ずや出し切って勝ち残るという強い決意で試合会場(甲子園運動場)へ一人で臨みました。彼のノートには「雄心溌剌!立命健兒の意気は迸り血湧き肉は踊る、自分は死んでも勝たねばならぬ」という覚悟だったと書かれてありました(注5)。
大会には各地から集まった実力者たち49名が出場。予選5組で各組2着までが決勝へ進出できることになっていました。このような孤軍奮闘の出場でしたが、髙木はレースで終始2位と健闘し、見事に予選を通過しました。
決勝のレースは翌日。それに臨むならば宿泊が必要でした。本人のなかでは実力を出し切っても予選通過は困難と考えていたようで、全額自費の交通費は一日分しか用意していませんでした。そのため、せっかく決勝進出を果たしながら棄権するしかなかったのでした。それでも心は勝者。ノート(前述)には「充実感いっぱいの帰路であった」と書かれていました【写真2】。
【写真2】立命館中学校時代の髙木正平
髙木正平の5年生時の活躍を掲載した記事と写真【写真3】が残されています。
「主将髙木正平君の涙ぐましきばかりの斯道への精進は兼ねてより衆人の感嘆するところなりしが、去る日全校生徒の前に於て校長先生より表彰せられ賞品を授与せられたり。かゝる栄誉を担ひ尚別項の如き好成績を獲得せるは偶然の事ならず、実に日頃の熱心の結果なり。」(注6)。
学校としても髙木の努力と活躍を評価するようになったことがわかります。
【写真3】最前列右から二人目が髙木、中央で背広帽子姿が塩崎校長
4.大学生時代
中学校5年生の頃から俄然走ることに目覚めた髙木は、1931(昭和6)年中学校を卒業して大学予科へ入学しました。この頃から陸上競技への興味は深まり、熱く競技に取り組むようになりました。そして、1933(昭和8)年4月に大学商科へ入学してからの髙木の活躍は目覚ましく、常に新聞紙上に氏名が掲載されるようになりました。
在学中の髙木は、「学業を怠るようなことは決してせず、毎朝1時限(午前8時から120分)の授業からいつも定刻前にキチンと登校し、笑顔で教授の入室を迎える最も勤勉な学生で、学園に在っては模範的な学生」であったと、当時の教授が振り返っています【写真4】(注7)。
【写真4】立命館大学時代の髙木正平
髙木は、2年生の夏に全国の大学生から選抜されて「満州国産業建設学徒研究団」の一員に選ばれて、約1か月をかけて満州の経済産業を観察見学しています。その膨大な手記(報告書)は立命館学誌と「山陰実業新聞」に連載されました。髙木の明朗快活な性格から広大な大陸満州に憧れをもっていたことから、この研修によってさらに強く満州への思いをもつこととなり、満州のために卒業後の人生を送りたいとまで考えていました。手記の最後を「真に満州国を愛し、東洋平和への希望と意気が無ければいかぬ。そして学問的は勿論、常識的にも深く深く関心を持つ責務が我等大和民族の負ふところではなかろうか」と結んでいます【写真5】(注8)。
【写真5】満州国学徒研修団一員の髙木正平
彼の意識が変わり、陸上競技生活にも一段と熱が入ったのはそれからでした。満州から帰ってからの髙木は、京都と関西での学生選手権大会で中距離を中心に活躍し何度も入賞し、ついには全日本学生対校選手権大会1500mに3位入賞するまでに至りました【写真6】。
【写真6】全日本学生対校選手権での髙木正平
関西の学生が上位入賞したことが高く評価されて、髙木のトレーニング方法が専門雑誌に同じ大学の後輩市原正雄(400mハードルで後にベルリン五輪出場)と共に掲載されることになったのでした。陸上競技への取り組みについての考え方や日常生活、練習内容などをまとめています。
「スポーツに親しむからには(勿論、人生は多事にして世路は険難であらうけれど)スポーツマンは須らく愉快な精神を以て何時も活き活きとした明朗な気分で居なければならぬと信じ、自分も出来る限り円満な心持になるよう努めています。(中略)心身の爽快は早起きにあり、晴雨を問わず実行しています。朝食前に散歩(腕を大きく振って速く歩くウォーキング)し、ラヂオ体操を行っています。食べ物にも充分関心を持ち、三度の食事中一度は必ずパン食にしています。(中略)過去数年間は、消極的戦法であったために実力を持ちながら勝てる試合も勝てず涙をのんだことが度々あったので、ペース配分をしっかりと研究し、スピードを調整しながらラストまで頑張れるようにしたい」(注9)。
陸上競技部の先輩は「どんなに天候が悪くとも、スパイクを履かない日がないほど練習熱心で、常に正々堂々のレース展開で試合に臨んでいました。どのような試合であっても、正々堂々と臨み、勝つことだけに拘泥しないその姿は、部員たちにとって最高の手本として映っていました」と語っています(注10)。
髙木は、陸上競技部の選手として、練習にも競技にも自らを追い込みながら、そのうえに主将として部員を統率し続けました。そして、仕上げとして目標にたてたのが京都と関西での学生駅伝優勝でした。それまで、多くの先輩たちが悲願として成しえることのできなかった優勝。髙木は、立命館長距離陣のエースとして、そして主将として見事にこの夢を実現して卒業していきました【写真7】。
【写真7】関西学生駅伝初優勝のアンカー髙木正平
5.社会人時代
大学卒業と同時に京都電燈株式会社(現関西電力)に入社し、宮津の火力発電所建設に従事し、その後、1937(昭和12)年3月には調度課へ配転となりました。「キビキビしていていかにも明朗な気質の持ち主であった。職場ではいつも元気よく朗らかで熱心で、同僚からの受けもよかった。青年社員の彼が兵隊靴を履いて、元気な足取りで歩くのが最もふさわしく感じられた。」と上司が語るように(注11)、髙木は社会人となってもその生き方と性格は変わらず、時間を見つけては走るための練習も怠ってはいませんでした。入社2年目に第9回明治神宮青年団対抗競技大会1500mで2位となった記録は自己最高記録でした【写真8】。その後も自己記録を更新して、髙木は未来のある社会人ランナーとしてその走姿を応援の人々に焼き付けたのでした。
【写真8】競技場での最後の髙木正平
6.兵士時代
社会人三年目を迎えようとしていた1938(昭和13)年1月、彼に応召の命が下りました。軍隊に入営して、国内にいたのは2週間ほどで、その後に、彼が生涯の地としていた満州に渡ることになりました。出征してからも、髙木は自分に関係のあった様々な人々に筆まめに便りを送り続けていました。戦地にいても母校の陸上競技部後輩たちの駅伝の成績を気になっていたようで
「駅伝に母校が敗けたことなどツイ最近知り涙の出る程気になりました」
【写真9】満州から便りを送っていた頃の髙木正平
正平の弟安治郎は、兄の戦死後、兄が寄稿した原稿を再掲載してくれた雑誌出版社に手紙を送っていて、その中で「人生僅か二十八春秋、然し立派なる最後を遂げた兄はさぞ本望でせう。『明朗なる精神と健康で戦へば必らず勝つと云ふ自信、即ち確固たる信念を以て努力してゐます』これが兄の戦地における絶筆でした。」(注13)
多くの人々から愛された髙木正平は、1939(昭和14)年8月29日、ノモンハンの大激戦で銃弾に倒れ帰らぬ人となりました。遺骨が福知山の両親の元へ戻ってきたのは、戦死から4か月後のことでした。翌年1月21日には福知山市葬が施行されたのでした【写真10】。
【写真10】 髙木正平遺影
葬儀から5か月を経て編集された遺稿集の奥付には「昭和十六年四月十日 京都憲兵分隊検閲済」と書かれてあります。遺稿集にも検閲が行われた時代でした。その裏には髙木正平の母親直(なお)直筆三首の歌が書かれてあります。この歌が、愛するわが子を戦争で失った母親の悲しみを静かに伝えています。
姿こそ変われど正平母はまつ
久方ぶりに奥の座敷に
ありし日の數ゝゝ偲ぶ親心
涙の泉とめどなかりき
散りてよりきのふけふと思ひしに
早一□□□夏は来にけり
2020年1月28日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博
注 1;遺稿集「髙木正平伍長:ノモンハン散華」(以後、遺稿集)
父 繁太郎「正平一生のことども」
注2;髙木半兵衛は、福知山町会議員に数回当選して以来、福知山町長、天田郡会議員、天田郡町村長会長などを歴任し、初代福知山市長(1937年5月~1940年6月)として水害で苦しむ由良川の大改修や経済産業の発展に尽力し、福知山市が京都府北部の中丹地方の中心となる大きな礎を築いた。京都銀行初代頭取や郡是製糸取締役としても知られる。また、1924(大正13)年に創設された福知山体育協会の初代会長として1940(昭和15)年まで在任していた。
注3;遺稿集「髙木正平君を偲ぶ」髙木正雄。
小学校在学当時の恩師。執筆時は福知山市昭和小学校校長であった。
注4; 「八月十四日 晴
宣伝にあふられた福知山は全町挙げて朝来踊気分が充満してゐる。音無川から吹上げる夕風も涼しく、夕陽が漸く長安寺山に没する頃、町内は早くもざわめきたった。踊子が橋から落ちて、橋下から音頭をとるまで踊り狂はん計画で豫て準備中の猪崎ではまだ電燈もつきやらぬ五時半と云ふに、早くも揃ひの浴衣に黒のシス帯、桃色の襟も艶かしい紅裙六十名一隊を繰出し、福知山情緒を代表する音無瀬橋を手ぶり、足どり美しく、ドッコイシャウドッコイシャウと踊り狂ひ、それより広小路公園を中心に老若男女一斉に踊り出し、黒山の如き人出に附近はむせ返るやうな賑ひを呈した。斯くて世界第一のダンス福知山踊の第一日は白熱的人気裡に終った。」
立命館禁衛隊 第2号 1929(昭和4)年11月発行
注 5;遺稿集「関西中等学校陸上競技選手権大会出場記」髙木正平
注 6:立命館禁衛隊 第14号 1931(昭和6)年1月発行
注7:遺稿集「髙木正平君を偲ぶ」立命館大学教授井上次郎。経済学担当で庭球部部長。
注 8:立命館学誌 第177号 1935(昭和10)年1月発行
注 9:月刊誌「陸上競技」 1935(昭和10)年7月号
「私の千五百米練習法」 立命大競技部 髙木正平
注 10:遺稿集「正義の士正平君」陸上競技部先輩西野佐吉。
注 11:遺稿集「髙木正平君を想ふ」京都電燈株式会社 庶務課長 湯川龍三
注 12:遺稿集「君の消息」立命館大学教授磯崎辰五郎。政治学担当。髙木の一年後輩で立命館初のオリンピアンである市原正雄などが在籍していた時代の陸上競技部部長。学生主事や文庫長(現在の図書館長)、大学禁衛隊参謀などを歴任。
注13:遺稿集「あとがき」 弟 髙木泰三