立命館 史資料センターには、校友の方からのご相談や資料のご提供の話が日々寄せられます。
亡くなられた祖父の学生時代を調べているという方、家人の所持品を整理していたら学生時代の思い出の品が出てきたので寄贈したいという方、それぞれの思い出が詰まったお話やご相談ばかりです。
このような中で、以前にお電話をいただいていた姉妹の方が、フィリピンで戦死されたお兄様の数少ない遺品写真2枚を史資料センターへ持参されました。このうちの1枚には手書きメモで「昭和拾年五月拾壱日於愛宕神社 立命館中学校第三学年 一組生徒(級長ノ時)写ス」と記されていました。史資料センターに保存されている資料を調べたところ、1935(昭和10)年5月発行の「立命館禁衛隊 第53号」にその行事記録が前後の行事と共に掲載されていました(一部抜粋)。
五月五日 節句の御祝の式挙行
五月十日 中商(注1)四年愛宕神社正式参拝、後馬路村に向ひ一泊、
十一日午後帰還
五月十一日 中商三年愛宕神社参拝
五月十三日 中商二年愛宕神社参拝
五月十四日 中商一年愛宕神社参拝
五月廿日 中商五年東京方面終学(原文ママ)旅行に出発
同日身體検査開始
五月廿六日 中商五年修学旅行より帰還
【1935(昭和10)年5月の立命館中学校3年クラス集合写真】
担任と一緒に撮影されたクラス集合写真で、全員の顔や服装が明確に確認できます。もう一枚は小さいサイズで、同時期に校外で撮影した一人だけの制服姿のスナップ写真です。
兄とはかなりの年齢差があったため、姉妹に兄の記憶はなく、戦後に父親から写真を見せられ「お前たちの兄さんは立命館に通っていた」と聞かされたそうでした。家族や親戚が世代交代をしていくなか、その話と写真を頼りに、実の兄が生きていた証が何か知れないだろうかというご相談でした。
お兄様が立命館中学校に入学された1933(昭和8)年は、中川小十郎総長が付属校の中学校・商業学校の校長を兼任した年(注2)でした。この頃は志願者全員を入学させる建て前をとっていて(注3)、1933年の入学者数は中学校が110名(注3)、商業学校が162名となっていました。お兄様の入学年から入学者名簿を探し出すことができましたが、卒業生名簿にお兄様のお名前を見つけ出すことができませんでした。更に調査した結果、4年生の11月末で退学されていたことが判明しました。当時にあって、5年間の学業を続けることは容易ではなく、様々な事情によって中退していく生徒が多かったようです。この学年で卒業したのは46名で、学年定員の不足分は編入による追加募集や飛び級によって調整していました。
お兄様が立命館中学校を中退されたのは15歳。後に志願兵として入隊され、戦死されたのは1941(昭和16)年で20歳。あまりにも短すぎる人生でした。
一枚の集合写真から在学当時の学校の様子を知っていただくことができて、姉妹には「兄のことを少しでも知ることができてよかった」と喜んでいただけました。
写真は、史資料センターに寄贈いただくことになりました。戦前の資料収集が困難になってきています。こうしてご遺族からの貴重な写真・資料を寄贈や紹介いただくことによって、学園史の史実を固めていくことができますので、これからも皆さんからのご協力をお願いいたします。
2020年2月26日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博
注1:中学校・商業学校の略。中学校は1928(昭和3)年私立立命館中学から立命館中学校に改称。 商業学校は1929(昭和4)年に設立。
注2:この時が2度目の校長兼任であった(1941年7月まで)。最初は、創立者中川小十郎が1928(昭和3)年4月に館長となった時で、この時も兼任であった(1929年2月まで)。
注3:1929年に始まる世界恐慌が日本へも大きく影響して、入学者減は私学にとって深刻な問題となっていた。立命館では中川総長のリーダーシップによる学園挙げての取り組みが行われていた。