「不戦のつどい」は⽴命館の教学理念である「平和と⺠主主義」を体現し、未来を創造してゆく若者たちのために平和を守り続けることを約した重要な式典である。それは同時に学園アイデンティティ確⽴過程の振り返りの機会でもある。そしてその象徴が「わだつみ像」である。
本稿は、戦後⽇本の歴史の中で、これらが相互連関しながら現在の⽴命館の姿を創って来た事歴を振り返る。
詳しくは、前記事 <懐かしの立命館>「不戦のつどい」「わだつみ像」そして「教学理念」をご覧ください。
「わだつみ像」は、1931(昭和 6)年以降のアジア・太平洋戦争末期、ペンを銃に持ち替え戦場へとかり出されて、再び⽣きて帰ることのなかった戦没学⽣たちの「嘆き」「怒り」「苦悩」を象徴した像である。1950 年彫刻家 本郷新の作で戦没学⽣記念像として広く世に知られる。
この像製作の始まりは、1949 年 10 ⽉にさかのぼる。
当時東京⼤学協同組合出版部から『きけわだつみのこえー⽇本戦没学⽣の⼿記』が刊⾏され、⼤きな社会的反響を得て版を重ねていた。この刊⾏収⼊を基に「⽇本戦没学⽣記念会(わだつみ会)」が発⾜し、その最初の事業のひとつとして戦没学⽣記念像の制作が企画されたのである。
この書名の「わだつみ」は「わた(海)のかみ」を意味し、同誌刊⾏にあたって書名公募に応じた京都在住の歌⼈で学徒兵の経験を持つ藤⾕多喜雄の短歌から引⽤された。
なげけるか いかれるかはた もだせるか きけはてしなき わだつみのこえ
製作者である彫刻家本郷新は、「わだつみ像」の製作について「『わだつみのこえ』は、戦没した学生によって、語られ、叫ばれたのでありますが、その内容は、ひとり学生のみに関することではなく、多くの労働者、農民、市民をはじめ、女性によっても叫ばれた、人権の尊厳、生命の価値に関する問題であるという考えでした。それで『わだつみのこえ』を具象化するには、金ボタンの学生姿でなければならないという考え方にはどうしてもなれず、といって、ぼろぼろの軍服を着た、死に瀕する兵隊でも物足りない。そんなことから私は一人の美しい肉体を持った青年の裸体の中に、すべてを内包させようという考え方に落ちつきました。」と語っている。(1953年12月8日 立命館大学建立除幕式での挨拶 より)
「わだつみ像」は東京⼤学構内に設置することで、当時の東⼤総⻑南原繁の内諾を得ていた。台座も⼯学部丹下健三助教授(当時)がデザインし、12 ⽉ 8 ⽇の太平洋戦争開戦記念⽇の除幕に向けて準備されていたが、直前の 4 ⽇になって東⼤最⾼議決機関である評議員会において設置が否決されてしまう。
「わだつみ会」は設置を求める運動を起こしたが東⼤の拒否の姿勢はかわらず、他の⼤学も設置をひきうけず、像はそれから2年本郷のアトリエに眠り続けることとなった。
⼀⽅で「わだつみ会」の運動はマスコミを通じて報道され、⻘年学⽣に急速に波及し、全国の⼤学・⾼等学校などに「わだつみ会」の⽀部が⽣まれた。
敗戦から5年、未だ連合軍占領下にあり、戦⽕の記憶冷めやらず、⼆度と再び戦争を起こすまいと誓う世論の中で起こった朝鮮の惨禍に、多くの若者が起こした反戦平和の⾏動だった。
⽴命館においても「わだつみ会⽴命⽀部」が結成され、運動を進め、「わだつみ像」誘致が開始された。
こうした社会背景の中で、「わだつみ像」が製作されてから2年、ようやく⽴命館⼤学広⼩路学舎、研⼼館前に建⽴されることになったのである。 1953 年 12 ⽉ 8 ⽇、「わだつみ像」の建⽴除幕式が執り⾏われた。台座には、表側に「像とともに未来を守れ」の銘板が取り付けられ、裏側には末川総⻑が揮毫した「未来を信じ未来に⽣きる」で始まる⽂が取り付けられた。この銘板は、当時末川総⻑を筆頭に⽴命館が「わだつみ像」に託した
平和への誓いであり学園の在り様を⽰すものとなった。
建⽴除幕式で学⽣の代表により「不戦の誓い」が読み上げられた。戦争が終わってまだ8年、惨禍の記憶が強く残る中での誓いの⾔葉である。
不戦の誓い
わだつみ像よ
かつて私たちの先輩は、 愛する⼈々から引きさかれ偽りの祖国の光栄の名の下に、或いは南海の孤島に、或いは⼤陸の荒野に空しい屍をさらしました。
その悲しみのかたみであるあなたの前に私たちは誓います。再び銃をとらず、再び戦いの庭に⽴たぬことを。
わだつみ像よ
かつて私たちの先輩は、何の憎しみももたぬ他国の⻘年と偽りのアジア平和の名の下に、愚かな殺し合いの中で尊い⾎を流しました。 その嘆きのかたみであるあなたの前に私達は誓います。
再び他国の⻘年と戦わず、共に組んで世界の平和を守りぬくことを。
わだつみ像よ
かつて私たちの先輩は、魂のふるさとである学園で考える⾃由も学ぶ権利も奪われ、なつかしい校⾨から戦場へ送り出されました。 その苦しみのかたみであるあなたの前に私たちは誓います。
学問の⾃由と学園の⺠主々義の旗を最後まで⾼く⾼く掲げることを。 ⼀九五三年⼗⼆⽉⼋⽇
1954 年 12 ⽉ 8 ⽇、「わだつみ像」建⽴から⼀周年の⽇、第1回「不戦のつどい」が開催された。
それは、「わだつみ像」の前で反戦平和の誓いを胸に刻むつどいで、以来「⼤学紛争」の期間を含めて今⽇まで、⼀度も⽋かさず開催されている。 ⽴命館構成員参加の下で開催される「不戦のつどい」での誓いは、「わだつみ像」とその台⽯に刻まれた⾔葉とともに、後に教学理念「平和と⺠主主義」の確⽴に繋がっていくのである。
⽴命館⼤学での「⼤学紛争」は、1968 年 12 ⽉、⽴命館⼤学新聞社での暴⼒事件を直接のきっかけにして噴出したが、それまでの10数年の間に、「不戦のつどい」は⽴命館にしっかりと根を張っていた。それは台⽯の末川総⻑の「未来を信じ 未来に⽣きる」の⾔葉とともに、反戦平和の象徴だけでなく、⽴命館の在り様の象徴となっていた。
⽴命館での「⼤学紛争」はわずかなうちに激化し、建物の封鎖・破壊、暴⼒⾏為の常態化を経て講義も⼊試も卒業式も⼊学式すら開催できないまでに荒れ、学内の⺠主的討議では解決できず、ついに警察・機動隊の介⼊という事態に⾄った。「わだつみ像」は、その真只中の 1969 年 5 ⽉ 20 ⽇全共闘を名乗る者により破壊された。
頭は割られ、腕はもぎ取られ、引き倒された上にペンキで落書きをされている。⽴命館では、こうした⾏為を批判するとともに、わだつみ像再建の取組みを始めた。翌年の 1970 年 12 ⽉ 8 ⽇には⽴命館関係者や全国の⼈々の寄付により再建されたが、再破壊の危険から元の場所には設置することができなかった。
6.「⼤学紛争」から学ぶ、そして教学理念「平和と⺠主主義」の確⽴へ
わだつみ像に誓い、四半世紀も「平和」「⺠主主義」を標榜し実践していた⽴命館になぜ「⼤学紛争」が起こったのか?この時の⽴命館総⻑事務取扱(事実上の総⻑)であった武藤守⼀経済学部⻑は、「学園通信」(1969 年 10 ⽉ 5 ⽇)で保護者に向けてこのことを書いているので一部をここに抜粋する。
「--- 35年の安保改定以後、国内の⽭盾は拡⼤し、その反映として、それを受け⽌める学⽣の⽴場と⾏動に統⼀性が困難となり、さらに外部からの策動もあって、統⼀とは逆に対⽴と憎しみの度を加えることになりました。このために⽴命館⼤学においても、⺠主的体制をもちながら、⺠主的運営に重⼤な⽀障を来たすこととなり、数年間にわたって全学協議会を開くことができなくなりました。そのために、学⽣諸組織の間の摩擦が次第に激化し、昨年⼗⼆⽉中旬には学園新聞社問題をめぐって、ゲバ棒が公然と現れるに⾄り、総⻑選挙規定の改訂もできなくなりました。(中略) われわれは全共⽃を責め、政府を追求し反対するだけでなく、⾃ら顧みて改⾰すべきことは⼤胆に改⾰するという積極的な姿勢と具体的な⽅針をもたねばなりません。」
その後、全学での討議を経て「⽴命館⼤学の現状と課題について」(1970 年 10 ⽉ 24 ⽇ 学内理事会)が出された。その文書では、「平和と⺠主主義」の教学理念は憲法・教育基本法の理念であって、⽴命館の特⾊として写るのは、歴史の中で、どのようなことがあってもこれを忠実に護ろうと努⼒してきた結果にすぎない。とその原点を明⾔した。
以後、⽴命館の発行物、全学協確認等には必ず「平和と⺠主主義」が、⽴命館の原点として記載されるようになり、とりわけ⽴命館の教育の有り様(教学)を語るとき必ず「平和と⺠主主義」が教学理念として記述されるようになったのである。
また同時に強調されたのが、「学園の問題は、全学構成員の徹底した⺠主的討議によって解決する。暴⼒は絶対にゆるさない。」という姿勢であり、教学優先の原則であった。
7.⽴命館⼤学国際平和ミュージアムの設⽴と「わだつみ像」
教学理念「平和と⺠主主義」の具現化の要として設置されたのが、「⽴命館⼤学国際平和ミュージアム」であった。
「⽴命館⼤学国際平和ミュージアム」は、1992 年、⽴命館の教学理念「平和と⺠主主義」と平和教育・平和研究の実績を基礎に、戦争体験を語り継ぎ平和を願う市⺠に⽀えられて設⽴された。
他に類を⾒ない⼤学⽴の平和博物館は「平和と⺠主主義」を教学理念に掲げる⽴命館学園であるがこそのものである。学園の歴史を⾒つめてきた「わだつみ像」は、こうして「国際平和ミュージアム」に移設され、「不戦のつどい」もここで開催されることとなったのである。
2020 年 12 ⽉ 8 ⽇
⽴命館 史資料センター
平和ミュージアムに移設された「わだつみ像」