明治41年7月初め、西園寺公望は総理大臣の職を辞し、政界から離れた。その秋、京都に滞在して病気の静養に努め、京や江州で俳諧に励んだ。
「不讀」とは西園寺の俳号で、明治20年代後期から30年代初めにかけて東京大森の不入斗(いりやまず)に住んでおり、不入斗が不入讀(いりよまず)から転訛したといわれることから不讀と名乗ったという。
公望は9月9日、静養のため上洛した。前日、日本女子大学校の成瀬仁蔵あてに駿河台邸から手紙を出している。
「拝啓 ‥‥実ハ明朝より暫時京都ニ転地候企ニ有之。就ては又々拝芝之期を失し候段、不悪御諒恕可被下候。月末には帰京之積ニ候間、其上寛々拝眉と楽申候。‥‥」(1)
上洛した西園寺公望は、木屋町三条を上がった大可楼(2)で京の日々を送った。これまでも上洛の際には大可楼に滞在をした。明治36年12月の生母末弘斐子が逝去した際に弟の末弘威麿や住友吉左衛門(春翠)と弔事を諮ったのも大可楼であった。
公望が田中の清風荘を使うようになったのは、大正2年になってからである。それまで清風荘は清風館といわれ徳大寺家の別邸であったが、住友吉左衛門が兄西園寺公望の京都滞在時の邸として徳大寺家から譲り受け改装したのである。
さて、京都滞在は神経痛の療養ということであったが、上洛の日、大可楼に入った。翌10日、春翠住友吉左衛門は大可楼に公望を見舞った。時あたかも中秋の明月で、2階の座敷で観月の宴を開いた。祇園の歌妓8名が席宴に侍したという。(3)
【地図:粟津の松原、茶店走井餅、義仲寺】
9月14日の大阪朝日新聞は、京の宿に入った西園寺侯が俳諧三昧に過ごしたことを報じている。
その記事「陶庵侯の俳味」によれば、名古屋の老宗匠松浦羽州翁を京に呼び、翁が大可楼に着くやそのまま堺町の藤井培屋宗匠と共に俥を連ねて粟津の松原に赴いた。
粟津への道すがら走り餅(走井餅)で休憩した。不讀侯爵の近作「鶯はまだ音を入れず箱根山」を竪句として、また「夕立や山一ぱいの青すゝき」と吟じた。羽州宗匠の「臥し待ちや雲を蒲団の東山」に就いて、上の句を「十六夜や」とも吟じたが、侯爵が「臥し待ちと蒲団は道具が過ぎるのでは」と評し、培屋宗匠も舌を巻いたとのこと。
粟津の松原は、旧東海道沿いに松並木があり、近江八景のひとつ粟津の晴嵐でその風景が知られていた。
また走井餅は逢坂山の追分にあった茶店の名物で、茶店の跡は現在は月心寺となっている。
【粟津の松原の名残】 【走井餅】
そこで粟津の御即興をと侯爵にせがんだが、いや転宅騒ぎで気が落ち着かぬと気が乗らないようであった。昨日は大可楼より八坂の自楽居(4)に引移りの混雑、ということで13日(あるいは12日か)に自楽居に移った。(5)(6)
9月18日には春翠が再び公望を訪れ、翌19日に人力車を連ねて大津に至り琵琶湖に舟を浮かべて遊んだ。(7)
9月22日の京都日出新聞は、八坂塔畔の自楽居における「陶庵侯の風流」について記事にしている。
陶庵侯は秋浅い京洛や江州の風光を探勝し、名古屋から招いた俳諧の宗匠羽州老人と、東京から呼んだ峰岸淺水、京都の藤井培屋の三宗匠と俳句三昧にひたった。
侯が自楽居に移る際の句、「引越の宵から聞くや秋の聲」、また「一集ひ京に居待のかひありて」。そして句集の刊行についてあれこれと相談をしている。
また、侯の近詠に 島原
畑中やくるわをぬけて京の人
義仲寺にて
芋くれる隣もありてけふの月
【義仲寺】
義仲寺は、粟津で最期を遂げた木曽義仲の墓所で、また松尾芭蕉の墓もある。境内には句碑が20基ほどあり、羽州の「身のほどをかへり見る日ぞ初しぐれ」の句碑も建つ。
このように侯は俳句三昧に遊び、祇園の名妓と緑酒紅燈の豪興を極め、悠然として東山三十六峰の山々と鴨川の清流を嘯傲したと伝えている。(8)(9)
病客も肌寒からず今日の月
10月5日には、春翠と近江馬場の山で茸狩をした。このとき公望は自楽居に滞在していたが、大可楼の女将なども茸狩に従った。(10)
そして10月9日の東京朝日新聞は、「洛東自楽居に静養せし西園寺侯爵は、8日午前9時25分、帰東せり。途中名古屋に一泊」と報じた。
不讀西園寺公望は、明治41年秋の一カ月を政治向きから離れ、京洛で俳句三昧の日々を過ごしたようである。
さて、明治41年のことではないが、今少し西園寺公望と大可楼、自楽居のことにふれておきたい。
【大可楼】
(1)大可楼で公直属の仲居として仕えた松田きぬさんは、昭和15年11月24日に公爵が薨去した際に公の思い出を新聞で語っている。
絹こしの豆腐すゞしき夕かな 不讀
明治38年の頃でしたか、時期は忘れましたが、山城へ殿様(西園寺公のこと)と住友吉左衛門さんと私共を加えて雉狩に参りました。その折九谷の窯元に立寄り、公手作りの湯呑にこの句を書いていただきました。絹こしはきぬさんに因んだ句なそうな。
また公は明治29年頃文部大臣在任中に大可楼にお越しいただき、以降入洛の度に可愛がっていただきました。最後にお会いしたのは昭和2年頃でしたか。日本酒はあまり召し上がらず、洋酒を少しずつお呑みになっていました。(11)
(2)東京国立文化財研究所の三輪英夫氏はその論文「黒田清輝と構想画」で次のように述べている。
明治28年、当時文部大臣であった西園寺公望は、フランス滞在中に親交をもった画家黒田清輝に何度か書簡を送っているが、5月13日付けの葉書で、西園寺の宿所大可楼に出向くように伝えている。
黒田清輝はこの年内国勧業博覧会の審査官として京都に滞在していたが、西園寺は黒田の作品を住友家に蒐集するため労をとっている。この頃西園寺は京都滞在の際には大可楼を宿所としていたことが窺える。(12)
【自楽居】
松村謙三(13)は早稲田の学生の時、京都を訪れ友人と散策していると、清水の坂のわきに自楽居という閑雅な料亭があったので入ると2階に通された。ところが一見はお断りということで断られ、友人が通しておいて帰れとは何だと怒った。女将がどなたかの紹介があればというので、京都の叔父に電話をすると、「とんでもない。その家は普通の客をあげない。西園寺さんなどいう連中の行くところだ」とたしなめられ、叔父が迎えに来たので帰った、と。(14)
大可楼も自楽居も今は無い。
2021年5月24日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次
注(1)「(明治41年)9月8日成瀬仁蔵あて書簡」
立命館大学編『西園寺公望傳』別巻一所収 P193
(2) 大可楼:木屋町三条上ル(上大阪町526)
(3)「住友春翠」編纂委員会『住友春翠』(昭和30年) なお、明治41年の9月10日
は旧暦で8月15日にあたる。
(4) 自楽居:東山下河原八坂塔東(桝屋町365)
(5) 大阪朝日新聞 明治41年9月14日
(6) 安藤徳器『西園寺公望』白楊社 昭和13年3月
(7) 前掲『住友春翠』
(8) 京都日出新聞 明治41年9月22日
(9) 前掲 安藤徳器『西園寺公望』
(10) 前掲『住友春翠』
(11) 京都日出新聞 昭和15年11月24日、11月25日、11月26日、
昭和16年2月16日
(12) 三輪英夫「黒田清輝と構想画-「昔語り」を中心に」『美術研究』東京国立文化
財研究所 1991年
(13) 松村謙三は昭和期の政治家で、戦前・戦後にわたり衆議院議員を務め、戦後
厚生大臣・農林大臣・文部大臣を歴任している。
なお、早稲田大学卒業は1906(明治39)年。
(14) 松村謙三『三代回顧録』昭和39年9月