はじめに
戦前、『受験旬報』という受験雑誌が発行されていました。昭和7(1932)年から歐文社が発行、主に旧制高校や旧制専門学校、大学予科への受験生に向けて旬刊(月3回)で発行していました。歐文社は昭和17(1942)年に旺文社と改称されますが、『受験旬報』もその前年に『蛍雪時代』と改題され、大学受験のための月刊誌となります。
本稿は、『受験旬報』の昭和15(1940)年3月下旬号に掲載された「立命館日満高等工科学校」の受験案内を紹介します。
なお、掲載された受験案内を□内に引用(要約)し、若干の解説を付します。もとの受験案内には旧字体が使用されていますが、一部を新字体にしました。
立命館日満高工を語る 日満高工 採鉱科生
序
採鉱科生というのは、立命館日満高等工科学校に設置された採鉱冶金学科の生徒です。
立命館日満高等工科学校は、昭和13(1938)年4月に開設した立命館高等工科学校を翌14年に改組して開設されました。この採鉱科生は立命館日満高等工科学校の第1期生となります。
戦前日本は中国大陸に進出していました。昭和6(1931)年には満州事変を起こし、翌年3月に満洲国を建国しています。昭和12(1937)年には盧溝橋事件に端を発し支那事変を起こしています。
こうした時代の状況下、満洲国では工業技術者の養成・確保が急務であり、日本国内また満洲国に技術者養成の学校が数多く設置され、このような中で立命館日満高等工科学校も設置されました。
沿 革
西園寺公望と中川小十郎の出会いは、そもそも戊辰戦争の際に中川小十郎の実父・養父・叔父などが西園寺の旗下に参じたことがきっかけです。中川小十郎は、のちに帝国大学卒業後文部省に入省し、翌年(明治27年)に西園寺公望が文部大臣になります。西園寺文相は京都帝国大学の設立を図り、中川小十郎は明治30(1897)年設立とともに京都帝国大学書記官(初代事務局長)となります。
そもそも立命館学園は、明治2(1869)年に西園寺公望が創設した私塾立命館に由来します。現在の立命館の前身は中川小十郎が明治33(1900)年に創立した京都法政学校ですが、学校はその後京都法政専門学校、京都法政大学と改組し、中川小十郎は西園寺公望から立命館の名を継承することの許諾を明治38(1905)年に受け、大正2(1913)年に立命館大学・立命館中学に改称します。創立者中川小十郎は館長のち総長として立命館の経営にあたり、大学・中学(旧制)を時代の状況に応じて改革してきました。
昭和10年代、満洲国における産業技術者の養成が高まる中、立命館は昭和12(1937)年夏から秋にかけて満洲国における産業開発のための人材養成機関を設置しようと関係者と協議を始め、昭和13(1938)年に立命館高等工科学校を設置します。
そして同年、さらに満洲国政府、陸軍関係者、満洲国協和会などと協議を重ね、満洲国から技術者養成の委託を受けることになりました。これが、昭和14(1939)年に改組された立命館日満高等工科学校です。中川総長の、時代に応える技術者養成を学園の一つの柱に据えた政策であったと言えます。
満洲国政府からの補助金は、昭和14年3月16日付の陸軍省軍務局長の名で通知がされています。日満高等工科学校が認可をされるのは同年の3月30日ですが、「立命館日満高等工科学校に対する満州国政府補助金に関する件」となっています。
一、設立設備に対する補助(二ヵ年継続)
昭和十四年度 三〇万円
昭和十五年度 二〇万円
計 五〇万円
二、委託生徒に対する給費 一人当 月額 三〇円
三、学校に対し支給すべき委託費(五カ年限) 一人当 月額 二〇円
註、右二、及三を併せ本年度支給額は七万五千円とす
教育方針
立命館高等工科学校は、京都帝国大学工学部内にあった私立電気工学講習所を継承して設置されました。学科は昼間部に電気科・応用化学科・機械科・建築科・土木科の5科、夜間部に電気科・機械科が設置されました。修業年限は3年でした。高等工科学校の設置は満洲国における鉱工業の発展に寄与する人材養成機関として設置されたものでした。
一方満洲国政府により技術者養成機関として更に高等な教育機関が求められていました。立命館高等工科学校は翌年改組して、機械工学科・自動車工学科・航空発動機科・電気工学科・応用化学科・採鉱冶金学科・建設工学科の7学科を開設し、立命館日満高等工科学校となります。機械工学科・電気工学科は2部も開設されます。
修業年限は学則上は3年でしたが、時局の要請で特例として2年に短縮しました。暑中休暇の廃止や特別時間割の編成により、3か年の授業を2年間に圧縮して実施したのです。
立命館高等工科学校、立命館日満高等工科学校は旧制中学のある北大路校舎で開設されましたが、中学校・商業学校との併設で狭隘だったため、等持院(衣笠)の地に移転することになりました。立命館日満高等工科学校が北大路校舎から等持院の地に移転・開設したのは、昭和14(1939)年11月です。
校地については順次拡張し、昭和16(1941)年8月には敷地約13,022坪、校舎建物延べ3,267坪となりました。
教授の体制については、もともと中川小十郎総長が京都帝国大学書記官(初代事務局長)の際に、木下広次初代総長との間で立命館の講師には京都帝国大学の教授・助教授を充てるとしたこと、また立命館高等工科学校が京都帝国大学工学部内の私立電気工学講習所を継承したため、引き続き工学部の教授・助教授等が講師を務めることになりました。
職員は校長・本野亨(京都帝国大学)、顧問に隈部一雄(東京帝国大学)など19名(講師を兼務した者を含む)、教授・助教授・講師など49名でした。
生徒は満洲国の委託生徒と普通生徒があり、委託生徒は満洲に就職することが義務づけられ、学費は満洲国政府の補助金により免除されています。
入学試験
入学試験の募集人員は上記の通りでしたが、各学科の志望者・合格者は以下の通りです。
機械工学科 委託生志望131、合格者25、普通生志望60、合格者25
自動車工学科 委託生志望90、合格者25、普通生志望14、合格者25
航空発動機科 委託生志望145、合格者25、普通生志望22、合格者25
電気工学科 委託生志望71、合格者25、普通生志望31、合格者25
応用化学科 委託生志望23、合格者10、普通生志望41、合格者40
採鉱冶金学科 委託生志望46、合格者15、普通生志望28、合格者33
建設工学科 ― ― 普通生志望28、合格者35
入学志望者 730 うち委託生志望者506、普通生志望者224
試験合格者 333 うち委託生125、普通生208
(注:学科内の志望者と合格者数に逆の差異があるのは学科間の調整があったため)
なお、従来在学の生徒(高等工科学校在学生)で日満高等工科学校の1年に普通生徒
として入学した者が151名おりました。
入学試験場は本校(京都)のほか、秋田の日満技術工業養成所、東京の満洲国留日学生会館、高松の県立図書館、松江の島根県立工業学校、福岡の福岡県立工業学校、全国6か所でした。
受験地別の志願者数は、京都458名、秋田12名、東京132名、高松24名、松江10名、福岡94名 計730名で、うち委託生希望が506名、普通生希望が224名でした。
入学試験は昭和14年4月6日・7日に実施されていますが、物理の一部と国語の試験問題をあげておきます。
「物理」(1)次の語を説明せよ。
(イ)露点 (ロ)屈折率 (ハ)音の唸り
(ニ)比重及密度 (ホ)電気の導体及不導体
「国語」(作文課題) 勤労
満洲国委託生徒
委託生125名の出身地(原籍)は、41都道府県と朝鮮・台湾に及びました。最多の京都府でも11名で、全国各地から入学してきました。
委託生は、「満州国政府委託生徒学費特別規定」と「満州国委託生徒学費貸与規定」により学校生活を送ります。
委託生の学費は学費特別規定により免除されていましたが、学費貸与規定では、品行方正、学術優等なる者は、教科書・製図並実習用具・制服代などが貸与されました。
寄宿舎については、等持院校地に建設を計画しましたが間に合わず、当分の間、出町(河原町今出川上ル)の立命館の寄宿舎と等持院の庫裏などを借りて寄宿舎としました。
京都市内居住者で自宅通学を許可された15名を除き、110名の委託生が寄宿舎で生活し通学しました。等持院寄宿舎には機械工学科20名、電気工学科22名の計42名の生徒が、出町の立命館寄宿舎には航空発動機科20名、自動車工学科23名、応用化学科10名、採鉱冶金学科15名の計68名でしたが、応用化学科は寄宿舎増築の間、隣接の民家を借入れました。
寄宿舎の日課については『立命館日満高等工科学校報告(第一回)』と少し異なるところもあります。同報告では次のようになっています。
寄宿舎の日課
平日 休日
起床 午前6時 午前6時
点呼 6時5分 6時5分
禊 6時10分 6時10分
朝食 6時30分 6時30分
登校 7時10分(宿舎出発) 大掃除 7時10分
帰舎 午後4時30分(学校出発) 昼食 正午
夕食 5時30分 5時30分
点呼 7時 7時
消灯 9時30分 9時30分
登校・帰舎は指揮者の引率によります。
休日は午前中全員等持院に集合し修養講話を聴聞、或いは京都市並びに近郊の
御陵並びに神社参拝をし、精神訓育に資します。
学校では以下の状況が伝えられています。
委託生徒の昭和14年5月の出席状況が報告されています。学科により95.2%から100%と高い出席率となっています。前月に比しやや低下しているとのことですが、一時的な疾病者の増加によるものとしています。また5月には委託生徒3名が中途退学していますが、それぞれ補充しています。
また5月16日・19日に教授会が開かれ、夏季の特別行事が決定しています。
⑴ 7月15日までの普通授業に続き、7月17日より8月19日まで特別時間割による普通授業を行う。
⑵ 7月17日より7月22日、7月31日より8月3日、8月3日・4日と特別講義を行う。
⑶ 7月31日より8月5日まで採鉱冶金学科は大阪精錬所並びに別子銅山を見学。
⑷ 昨年度入学し特別規定により本年度再び1学年に編入した生徒は、7月24日より8月19日まで3週間、校外学習をする。内地、満鮮支方面の工場鉱山等にて。
⑸ 幕営訓練。8月21日より8月31日まで全員舞鶴海岸にて幕営訓練を実施する。
結び
立命館日満高等工科学校の第1回卒業生の卒業生数および就職状況は以下の通りです。
学科は、第3年度(昭和16年度)の改組によって自動車工学科と航空発動機科が機械工学科に合併となっています。このためか『報告(第三回)』では、自動車工学科と航空発動機科の卒業生は機械工学科にまとめています。また委託生は定員遵守のため学科内・学科間調整のほか、建設工学科にも配置されたため入学時には委託生はありませんでしたが、卒業時には委託生として卒業した生徒がいます。
<卒業生数>
機械工学科 委託生 68名 普通生 69名 計 137名
電気工学科 委託生 25名 普通生 38名 計 63名
応用化学科 委託生 15名 普通生 47名 計 62名
採鉱冶金学科 委託生 16名 普通生 14名 計 30名
建設工学科 委託生 12名 普通生 32名 計 44名
計 委託生 136名 普通生 200名 計 336名
<就職先所在地>
就職先所在地は、便宜上満洲、満洲以外の中国・朝鮮・台湾・樺太、内地に分けると
機械工学科 委託生 満洲66、 ― 内地2
普通生 満洲24、中国朝鮮等18、内地27
電気工学科 委託生 満洲25 ― ―
普通生 満洲5、 中国朝鮮等11、内地22
応用化学科 委託生 満洲13、中国朝鮮等2
普通生 満洲10、中国朝鮮等10、内地27
採鉱冶金学科 委託生 満洲15、 ― 内地1
普通生 満洲1、 中国朝鮮等1、 内地12
建設工学科 委託生 満洲12 ― ―
普通生 満洲13、中国朝鮮等3、 内地16
計 委託生 満洲131、中国朝鮮等2、内地3
普通生 満洲53、中国朝鮮等42、内地105
となります。委託生136名のうち131名が満洲に就職しました(5名は病気などで内地にとどまっています)。普通生も200名のうち53名が満洲に就職しています。満洲以外の中国朝鮮等を含めると95名となり半数近くが国外に就職しています。
立命館日満高等工科学校に入学し、卒業した多くの生徒が大陸に渡り、工業界の担い手となったことがうかがえます。就職先については会社の名称等も記録されていますが、ここでは割愛します。
立命館日満高等工科学校は、このように満洲また大陸で工業技術者として活躍する生徒を求め、またそうした時代に志をもつ多くの生徒が集い学んだのです。
『受験旬報』の「立命館日満高工を語る」は、立命館日満高等工科学校の生徒自身が、受験生に向けて立命館日満高等工科学校の紹介をし、そして満洲や大陸の工業技術者となるためのその志を訴えた記事と言えるでしょう。
資料 (1) 歐文社『受験旬報』昭和15年3月下旬号
(2) 『立命館日満高等工科学校報告』(第一回) 昭和14年5月現在
(3) 『立命館日満高等工科学校報告』昭和14年5月/康徳6年5月現在(同年7
月発行) 「立命館日満高等工科学校業務執行状況報告」および「満州国委託
生徒就学状況報告」を収載、(2)とは別冊
(4) 『立命館日満高等工科学校報告』(第三回) 昭和16年8月現在(同年9月発
行)
本稿の解説部分は、上記(2)(3)(4)の資料によった。
【写真・地図】
① 仮校舎(北大路) 昭和14年 『立命館日満高等工科学校報告』(第一回)より
② 仮校舎(北大路) 昭和14年 同上
③ 仮校舎教室(北大路) 昭和14年 同上
④ 仮校舎実験室(北大路) 昭和14年 同上
⑤ 校舎建築中(等持院) 昭和14年 同上
⑥ 校舎位置図(等持院) 昭和16年 『立命館日満高等工科学校入学案内』より
⑦ 教室・実験室・実習室(等持院) 昭和16年 同上
⑧ 校舎配置図(等持院) 昭和16年 『立命館日満高等工科学校報告』(第三回)より
2021年9月14日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次
① 立命館日満高等工科学校假校舎全景(京都市室町頭)
② 立命館日満高等工科学校假校舎全景(京都市室町頭)
③
④
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⑥ 学校付近地図
⑦
⑧