この漫画は、かわぐちかいじ著『ジパング』に出てくるシーンで、石原莞爾予備役陸軍中将が、立命館大学で「国防論」の講義をする場面です。(注1)
石原莞爾は、関東軍参謀として柳条湖事件、満州事変の首謀者でした。東條英機との確執から1938(昭和13)年舞鶴要塞司令官、1939(昭和14)年京都16師団長を経て1941(昭和16)年3月予備役編入(事実上の退役)されます。
その直後、立命館大学は石原を講師として招聘し、「国防学研究所」を設置、カリキュラムに国防学講座を開設して石原の研究・教育の場を提供しています。(注2)
国防学講座の講義は、講義録としてまとめられ、立命館出版部から『国防論』(注3)として発刊しました。
ところが、石原を予備役に追いやった東條英機は、石原が立命館大学講師になってからも憲兵隊による監視を続け、この『国防論』を危険思想として発禁処分とします。
この発禁処分を事前に知ることになった立命館出版部では、総長の中川小十郎と相談の上、自主廃棄処分としてしまうのです。初版一万部が、石原の所有した「著者用」の印がある分を除いて市場に出ることなく消えてしまいました。
今回、この1冊を所蔵する「鶴岡市郷土資料館」(石原莞爾資料を保存している)より実物をお借りし、レプリカを作成しています。
<立命館出版部から発刊された『国防論』左側が実物、右側がレプリカ>
立命館史資料センターでは、かつて存在した立命館出版部の発行誌の収集をしていますが、『国防論』だけは、件の事情から実物がありませんでした。
レプリカは、単なるコピーではなく、古文書や歴史史料などの文化財をコピー技術を使って復元する富士フィルムビジネスイノベーションジャパン株式会社京都支社の協力で行っています。
レプリカでは、表紙の紙質の再現や経年劣化(破れは再現不要としています)、紙のシミ、裏面へのインクの透けまで再現しており、実物とほぼ同じものに仕上がっています。
学園史資料の収集・保存は、展示などの利活用を想定したものであるため、再現度は非常に重要な要素です。とはいえこれまでの再現技術は、時間もコストも相当にかかる貴重な手法でした。近年発達してきたコピー技術は、時間もコストも低減でき、かつ再現度も実用に耐える仕上がりになってきています。
立命館 史資料センターでは、こうした現代の汎用技術も使いながら学園史資料の保存につとめています。
2022年3月8日 立命館 史資料センター 奈良英久
(注1)かわぐちかいじ著『ジパング』KCコミック 講談社(株)2022年2月18日許諾済
描かれているのは、1941(昭和16)年6月頃の公開講座のシーン
昭和16年の『立命館要覧』には、「5月12日立命館大学国防学研究所創設並ニ本学国防学講座開講(略)6月8日ヨリ国防学公開講座ヲ本学ニ於テ開講ス」とある。
なお、公開講座であるから、漫画には学生以外の市民も参加している描写があり、教室の後ろ(左下の一コマ)には民間人に変装した憲兵も描かれている。
当時実際に授業を受けた森尾正氏(1942年法卒 元校友会東京支部長)は、石原の講義を「中国やロシアに出るべきでなく南進論者だった。当時は勇ましいことを言うのが評価されたが、石原は平和・安定を願っていた。戦争ができない時代が来ることを見通していた。」「石原は満州を安定させることを望んでいた。」と受け取っている。石原の人物に関しては「遠慮をする人ではない。思ったことは何でも言う。それが学生に受けた。日本陸軍を批判した。中国や太平洋戦争についてもそうだった。」と評する。(「石原莞爾将軍」に関するインタビュー:2010年11月5日 立命館史資料センター所蔵資料)
(注2)「国防学研究所」と「国防学講座」
1941(昭和16)年の大学概要を掲載した『立命館要覧』には、国防学研究所、同講座を新設した理由が明記されている。
「全国の諸大学に率先して国防論、戦争史、国防経済論の三講座を新設した。(中略)国防学に関する知識を広く一般国民に普及するは、大学の一使命であらねばならぬ。国防が軍人の専任であるというが如き旧時代の観念を清算して、国民が国防に関する正確なる知識を把握することは、刻下の最大急務である」として、石原莞爾を「国防学研究所」長、国防学講座の責任者に迎えた。(『立命館百年史 通史一』p684)
また、石原莞爾は、立命館大学理工学部の前身である「日満高等工科学校」設置とも深いかかわりがある。
1937年、立命館総長中川小十郎は、満州国が技術者養成を目的とする学校の設置を目論んでいる情報を入手する。1938年4月 京都帝大内に設置されていた「私立電気工学講習所」を継承発展させた「立命館高等工科学校」を開設していた中川は、この機会を活用して理工系のさらなる発展を考える。その際、満州国と繋がりが深い石原莞爾の協力を求めた。1938年当時石原は、舞鶴要塞司令官として事実上の閑職であったが、満州国や関東軍などにはまだまだ信望者が多くおり、威光があった。石原と中川は、理工系学問が今後満州の発展や日本の将来に重要であることで一致したようで、支援を約束される。かくて、満州国からの補助金を得、「立命館日満高等工科学校」が誕生することになる。
この時の縁が、1941(昭和16)年の講師招聘に結びついたのである。
『立命館百年史 通史一』p687、倉橋勇蔵『酒徒まんだら』私家本2006
(注3)『国防論』
石原は、立命館の国防学研究所の所長として、国防論の講義を学内のみならず一般国民への公開講座としても講演している。
その講義(1941年5月12日から1週間)を講義録としてまとめたものが『国防論』であった。
しかし、当時少年店員として立命館出版部で働いていた井上重信氏(元法律文化社社長)によれば、憲兵隊による版木の差し押さえの前に印刷を完了して、菰につつんで隠したものの、ついに発行できなかった。自主的に発禁処置をしたのである。この間の中川総長は大変お疲れの様子であったという。
井上重信「昭和十六年夏の立命館出版部―石原莞爾『国防論』発売禁止事件―」『立命館百年史紀要』第7号1999
『国防論』の「序」には、石原による発刊の経過が記載されている
「立命館大学中川総長から国防学の講義を要求せられた。学問の素養のない私は残念ながらその力なくこれを辞退せざるを得ない。しかし、永年大学に戦争学講座を設くべしと主張して来た身として中川総長が世に先んじてこれを決行せらるる熱意に感激し、遂に身の程を顧みず三十年の軍隊生活の体験に基き、5月12日から1週間国防論の講義を試みた。本書は田中直吉教授外立命館大学国防学研究所所員の手により右講義の速記を整理せられたものである(後略)」