『立命館百年史 通史二』によると、「折しも京都では全学連が呼びかけた「全日本学園復興会議」が開催されていた。像を迎えた立命館大学の建立委員会は、11日に「わだつみ像歓迎」の市中パレードを、同夜には「学園復興会議文化祭」と共催で「わだつみ像歓迎大会」を開催する」予定だったようです。「11月11日、小型トラックに積み立てられた「わだつみ像」を先頭に、オープンカーに乗った末川博総長がこれに続き、学生約400名が河原町通り→五条通り→烏丸通りと、京都の中心街をパレードし、多くの市民の歓迎を受けた」と書かれています(※1)。
ここで、「荒神橋事件」「市警前事件」と呼ばれるようになる二つの大事件が起こりました。
私どもの学園では、別に皆さんにご覧いただくようなものはありませんが、ここの下に立っておる「わだつみ像」と呼んでおる像だけは、ある意味において唯一の誇りといっていいか、皆さんに見ていただくに値するものであろうかと、私は考えているのであります。あの像の裏に、私は、まずい言葉ではありますけでども、つぎのようなことを書きしるしているのであります。「未来を信じ未来に生きる、そこに青年の生命がある。その貴い未来と生命を聖戦という美名のもとに奪い去られた青年学徒のなげきと怒りともだえを象徴するのがこの像である。」…ところが、あの像を京都に運んでまいりましてから、やっかいな事件が起こりました。あの像をトラックに乗せまして、私はそのあとをオープンの自動車に乗って、目ぬきの通りをまわり、あれを京都の市民諸君に紹介したのであります。河原町通りから四条通りの方をまわって裁判所の前に来たときに、私の乗っておる車に学生たちがとびついてきて、「先生、たいへんだ、えらいことになりました。京都大学からわれわれ学生が百名あまりわだつみ像の行列に参加するために荒神橋を渡ろうとしたところを、警察隊がはばんで橋の上で大乱闘がはじまって、ランカンがこわれ、学生が橋の上から川の底にたたきつけられた。多勢の者がけがをしてたいへんです」とさけびました。私は、びっくりして、ここの校庭に帰ってみると、血にまみれた諸君が涙を流して訴えておるのであります。
11・11事件と呼ばれているものは、「和やかに大学の復興について話し合おう」ということで、全国70ばかりの学園から代表者約500名が集まって開かれた「全日本学園復興会議」にからまって起きた事件である。結果からいえば、京大当局が教室を貸していたら、学生たちは、おだやかに会議を進め、あんな不祥事も起こらないですんだろうに、というふうに考えられるわけである。現に、私は、第2日目には同志社大学で開かれていた法学部会にでて法律を学ぶことの意味を説き、第4日目には立命館大学における統一会議文化祭で、教育基本法にいうところの「人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび」青年学徒の貴い未来と生命を守りぬくように、自重すべきことを講演したのであるが、いずれの場合にも、学生はきわめて真面目で真剣な態度であった。これを頭ごなしに危険視したり敵視したりするごときは、教育者の態度として許さるべきではない。[学生の教室利用の願い出に対して]学長は面会を拒み、事務当局は規程をタテに不許可の方針を堅持して譲らず、遂に学生は学長室前の廊下に座り込むというようなことになってしまった。学校当局は、川端署に警察隊の出動を要請すること、3回に及んだ。私は、昭和の初めごろ治安維持法適用の最初の事件といわれている学連事件で、京大の寄宿舎に手入れがあったとき、学園内の秩序は大学で保持するから、警察の侵入はけしからぬといって強く抗議したことを思い出し、今昔の感にたえぬものがある。学園復興会議4日目11月11日にも午後1時半から京大時計台下に約150人の学生が集まって、教室使用についての抗議集会を行っていたが、4時半過ぎ立命館大学で開催中の学園復興会議に合流するため京大を出発した。4時45分、学生の先頭が東方から荒神橋中央部を渡ったとき、市警中立売署員約20名が不法デモを理由として学生たちを阻止しにかかった。実力で阻止しようとする警察隊は、もみあううち、学生たちを木製ランカンに強く押しつけ、腐朽したランカンが折損し、十数名が約5米下の河原に折り重なって墜落、流血の惨事をひきおこした。学園復興会議統一文化祭で右の荒神橋事件が報告されると、学生たちは、憤慨興奮して、市警に抗議することとなり、夜10時半ごろ市警前に終結した。[そこに]約200名の武装警官が一大喚声をあげながら、コン棒をふるって静粛に集結している学生に襲いかかった。私は、一生、法律のことを学び、法律のことを究め、法律のことを教えて暮らしている。法というのは一片の紙上に書かれたものではなくて、人を生かし世を益するための生きた法を意味すると解しているから、京大の学内集会規程や京都市の公安条例のごときについても、これをタテにして人を傷つけ世を害するような方向に適用することについては断固反対せざるを得ない。未来を信じ未来に生きようとする青年学徒が純真な気持で健やかに伸びようとするのを、納得もさせずに警告もせずに、ただ一片の規定や条例をタテにとって抑圧しようとするごときは、法を守らしめるゆえんでもなければ、人を生かすゆえんでもない。
翌日の朝日新聞朝刊では、「学生、警官隊と衝突 鴨川河原へ転落 学生十人が負傷」の見出しのもとに、「催涙弾、コン棒の雨 流血、悲鳴の路上、散乱する角帽」など、学生の痛々しい姿を伝え、「血だらけになって抗議するデモ隊の学生」の写真や、「負傷者も助けぬ警官」という学生のコメントを掲載しています。また「市警前事件」に居合わせた本学学生部長の蔦田先生の、警官側がいきなり襲撃してきたという主旨の談話も掲載しています。
その中でも、末川先生の言説はあくまでも学生の側に立って、学生の主張と行動の正当性を擁護しています。学生もそれが分かっているから、事件が起こったときに末川先生に駆け寄って「先生、たいへんだ」と訴え出たのでしょう。
学費値上げ反対闘争を中心とする学内闘争、「反レッドパージ闘争」や「単独講和反対運動」をはじめとする全国的な民主主義擁護闘争の高揚のなかで、立命館における学生運動の態勢は次第に整えられていった。53年には立命館大学にわだつみ像を建立する取組みが、広範な学生・教職員の支持と活動の下で成功する(第三章第二節二)。その過程で起こった「荒神橋事件」や「市警前事件」などの弾圧事件、あるいはその翌年12月8日の第1回「全京都戦没学徒追悼不戦の集い」における警察によるスパイ事件などは、民主主義を守ろうとする学生運動の結束をいっそう固めさせた。
と記しています(※5)。
不戦の誓い
わだつみ像よ
かつて私たちの先輩は、愛する人々から引きさかれ偽りの祖国の光栄の名の下に、或いは南海の孤島に、或いは大陸の荒野に空しい屍をさらしました。その悲しみのかたみであるあなたの前に私たちは誓います。再び銃をとらず、再び戦いの庭に立たぬことを。わだつみ像よ
かつて私たちの先輩は、何の憎しみもたぬ他国の青年と偽りのアジア平和の名の下に、愚かな殺し合いの中で尊い血を流しました。その嘆きのかたみであるあなたの前に私達は誓います。再び他国の青年と戦わず、共に組んで世界の平和を守りぬくことを。わだつみ像よ
かつて私たちの先輩は、魂のふるさとである学園で考える自由も学ぶ権利も奪われ、なつかしい校門から戦場へ送り出されました。その苦しみのかたみであるあなたの前に私たちは誓います。学問の自由と学園の民主々義の旗を最後まで高く高く掲げることを。一九五三年十二月八日
平和であるべき学生生活でさえも常に死と隣り合わせにあった時代の記憶が生々しいころは、わだつみ像から発せられる戦没学生の無念と嘆きを、多くの学生が自分に関係することとして感じとることができたはずです。しかし、いまの多くの学生にとっては、戦争の記憶は遠い過去のものとなり、戦争の悲劇は遠い世界のものとなって、それらを身近なものとして理解することが難しくなっているのではないかとも思います。わだつみ像を見て、それが、南海の孤島に、大陸の荒野に、空しくさらされた屍の悲しみのかたみであることを、もういちど考える。せめて11月8日だけでもそんな1日にしたいものです。
※1 『立命館百年史 通史二』第三章 「大学紛争」と立命館学園の課題, 第二節 立命館における「大学紛争」とその克服, 二 「わだつみ像」の破壊と再建, pp.953-954
※2 1958年8月22日に立命館大学で開かれた歴史教育協議会全国大会における、あいさつを兼ねた講演の速記。『末川博随想全集 第6集』に「教育と政治」という題で掲載されたものから、要約しながら引用。
※3 『中央公論』1954年1月. 『末川博随想全集 第6集』に「大学と警察と学生」という題で転載されたものから、要約しながら引用。[ ]内は筆者補記。
※4 京都地判昭和33年2月12日下級裁判所民事裁判例集9巻2号192頁、判例時報153号28頁、判例タイムズ80号110頁
※5 『立命館百年史 通史二』第一章 戦後の再出発と「立命館民主主義」への模索, 第三節 戦後学園体制の基盤形成, 五 学生自治活動・課外活動の展開, p.345
※6 『立命館百年史 通史二』第三章 「大学紛争」と立命館学園の課題, 第二節 立命館における「大学紛争」とその克服, 二 「わだつみ像」の破壊と再建, pp.955-956
※ この像の台座には「わだつみ像」と記されていますが、一般的に「わだつみの像」という名称も広く使われています。