京都大学キャンパスに織田萬先生(以下、織田萬)の寿像があります。
この寿像は、「昭和12年に織田博士の古稀を祝しその功徳を伝えるため、京都帝国大学の門人等が大学構内に建立した」(注1)ものです。
織田萬は、立命館大学とも極めて深い関係をもっていました。
今回は、織田萬の寿像を通して「織田萬と立命館」について紹介します。
1.織田萬と立命館の関係の始まり
そもそも織田萬と立命館の関係は、西園寺公望文部大臣に始まります。
明治28年の秋、外国留学を考えていた織田萬は留学生に選定されたいと大森不入斗(いりやまず)の西園寺公望邸に本野一郎博士(注2)とともに訪問します。織田萬は設立を予定していた京都帝国大学の教官を希望しており、そのために外国留学が必要だったのです。
西園寺は、織田萬の訪問の前に本野一郎博士の話から織田を留学させようとしていたといいます。(注3)
織田萬は3年間のフランス・ドイツ留学を終え、明治32年に開設された京都帝国大学法科大学の教授となります。
京都帝国大学が設立されたのは、明治30年ですが、その最初の書記官(初代事務局長)は中川小十郎でした。織田萬と中川は帝国大学の同期生でした。中川小十郎は、明治33年に立命館大学の前身である私立京都法政学校を創立しますが、織田萬はその当初から京都法政学校の教育や運営に携わりました。
2.織田萬の立命館での経歴
織田萬は、講師となり講義をしました。夜間の校内生の講義は講述でしたが、明治35年からは校外生制度も始まり、校内生の講義を校外生用の講義録として作成し、『法学通論』と『行政法講義』を発行しています。
大正2年の財団法人立命館設立にあたっては協議員となり、また翌年4月から昭和2年8月まで教頭、昭和6年7月から昭和20年5月に逝去するまで名誉総長、昭和11年3月から昭和15年4月までは学長事務取扱となっています。織田萬は佐々木惣一学長の辞任に伴い学長事務取扱となったのですが、学長とならなかったのは、住所が東京にあって、大学の所在地に住所がなかったためとなっています。また学長事務取扱の辞任は、田中昌太郎が学長に就任したことによるものです。
このように織田萬は、終生立命館で教学を担いまた役職を続けました。学園の経営の責任者は中川小十郎でしたが、織田萬は学園の教学の運営に関して最も力を尽くしたと言えると思います。
3.織田萬の国内外の経歴
織田萬は、慶応4(1868)年、佐賀県生まれ。明治25年に帝国大学を卒業し、大学院で行政法を専攻しました。そしてフランス・ドイツに留学し帰国。明治32年9月、京都帝国大学法科大学の設置とともに教授となり、行政法講座を担当しました。明治34年1月から明治40年5月まで法科大学長に就任します。
関西大学(関西法律学校)では、明治33年に講師となり、41年に教頭、大正6年から11年まで学長を務め、以後顧問となっています。
大正10年には常設国際司法裁判所裁判官に当選、昭和5年までハーグに赴任しました。昭和6年、帰国後京都帝国大学を退官しています。そして貴族院議員に勅選され、終身在任しました。昭和20年5月東京大空襲により戦没しています。
4.織田萬の立命館に対する思い
織田萬は、著書『法と人』の「嗚呼陶庵公」で次のように語っています。(注4)
「公の人生観、信条は「殀壽不貳、修身以俟之、所以立命也」であった。その公の人生観の表象である立命館は、中川小十郎と私ども二三の僚友と語り合って京都法政学校を創りさらに立命館の名称を継承することを許された。私は微力ながら学校(立命館)の学事上の施設にたづさわり……公の精神を生かしていくのが学園の今後の仕事であると、(中川君と)互いに激励し老後の余力を傾注してこれに当たりたいと思っている。これが公の恩顧に酬ゆる唯一の道であろう」
また織田萬は、学報(新聞)「立命館」の記事「學生諸君に與ふ」のなかで「立命の文字の典拠は公爵の文中にも見る如く、孟子の中の一節に「殀壽不貳、修身以俟之、所以立命也」とあるのがそれであって、誠に千古不磨の金言であります。……要するに各自がその持って生まれた才能のありたけを磨き上げ、自分の人格を完成することを得れば、それで一個の人間としての務は果たされるのであって、成敗利鈍は顧みるところでないと云ふことであります。」と訴えています。(注5)
(注1) 吉岡達太郎著『須古村片影』1980年
須古村は織田萬の出身地。現在の佐賀県杵島郡白石町(1955年に編入)
(注2) 本野一郎は西園寺公望が外務大臣を兼任した時の秘書官で、明治・大正期の外交官・政治家。立命館日満高等工科学校などで校長を務めた本野亨の兄。
(注3) 織田萬『法と人』所収「嗚呼陶庵公」 春秋社松柏館 昭和18年
(注4) (注3)に同じ
(注5) 学報(新聞)「立命館」昭和14年7月10日
なお、「殀壽不貳……」の一文はいくつかの読みと解釈がありますが、ここでは織田萬の考えを紹介しました。
【参考資料】
『立命館法学』第262号「織田萬年譜・著作目録」1998年
『立命館百年史』通史一 1999年
『京都帝国大学史』昭和18年
『関西大学百年史』人物偏 昭和61年
2023年4月11日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次