第一次世界大戦が1918(大正7)年11月1日に休戦した。アメリカ・イギリス・フランスなど連合国は講和会議を開催することとなり、1919年1月18日に第1回総会が開会された。
日本政府(原内閣)は、西園寺公望を全権大使(全権委員)とすることを11月27日に決定し、講和会議出席者が12月3日に裁可された。
首席全権として西園寺公望のほか、次席全権に牧野伸顕、その他全権として珍田捨巳(駐英大使)、松井慶四郎(駐仏大使)、伊集院彦吉(駐伊大使)が選ばれ、随員として永井松三、長岡春一、佐分利貞男、松岡洋右、吉田茂など、また西園寺全権の随員として侍医・三浦謹之助、西園寺八郎、公爵・近衛文麿、西園寺八郎夫人・新子、医学博士・勝沼精蔵などが随行した。
牧野全権は12月10日に東京を発って海路アメリカ、ロンドンを経由し、1月18日にパリに到着した。
西園寺全権一行はパリへの往路・帰路に客船を利用しているが、本稿は、その航路に使われた西園寺公望のキャビン・トランクの紹介である。
【写真:西園寺公望のキャビン・トランク】
キャビン・トランクは、現在エース株式会社の「世界のカバン博物館」に所蔵されている。1998年5月、西園寺公友氏より寄贈された。経緯は、立命館が1990年に創立90周年を迎えるにあたって『西園寺公望傳』刊行を計画、その際西園寺家に所蔵されていたことが判明し、寄贈するに至ったとのことである。
近衛文麿は、随行した往路で日記を残している。
近衛の日記によると、西園寺全権大使一行は、以下のような行程でパリに向かった。
1919(大正8)年1月11日、西園寺公望は東京駅を出発、原総理が国府津駅まで同乗し、侯爵は三ノ宮駅に到着した。1月12・13日は神戸にて静養した。
1月14日 曇 日本郵船会社の丹波丸(注1)に乗船し、出帆
1月15日 曇 門司入港、下関の山陽ホテルに投宿
1月16日 晴 山陽ホテル出発、門司港出帆 玄海洋上
1月18日 雨 揚子江口通過、上海着 アストアハウスに投宿 荷物の着否を取調べ
1月20日 快晴 本船に帰船、出帆 揚子江口を出てボナム海峡通過
1月23日 曇 香港入港
1月24日 半晴半曇 香港出帆
1月26日 晴 安南沖通過
1月29日 曇 新嘉坡投錨
2月1日 晴 ペナン入港
2月2日 快晴 ぺラック島通過
2月3日 快晴 スマトラ通過
2月5日 晴 セイロン島南東端通過
2月6日 快晴 コロンボ入港
2月8日 快晴 コロンボ出帆
2月13日 曇 ソコトラ島到達
2月15日 晴 アデン沖
2月18日 快晴 セントジョーンズ島を見る
2月20日 晴 スエズ運河 ポートセッドに入港、ホテル投宿
2月21日 晴 ポートセッド出帆
2月22日 晴 地中海に入る
2月25日 晴 ストロンボリ―島通過
2月27日 曇 マルセーユ入港
3月1日 晴 巴里に出発 列車にて
3月2日 晴 巴里着
会議は、五大国(米・英・仏・伊・日)首脳者会議や五大国の十人会議など議題に応じて開催されたが、西園寺全権は五大国首脳者会議に出席、その他の会議は牧野全権や、珍田全権、松井全権が出席した。
西園寺公望は3月15日に五大国首脳者会議に出席したのをはじめ、3月17日、3月19日、3月21日、3月22日、3月24日と五大国首脳者会議、4月11日に平和会議第四回総会、4月28日の平和会議第五回総会、5月6日平和会議第六回総会などに出席し、6月28日にはヴェルサイユ宮殿にて平和条約調印式に出席し五大国全権委員として調印した。調印式には、敗戦国ドイツ、連合国側は日・英・米・仏・伊の五大国をはじめ、ベルギー、ブラジル、キューバなど21か国が調印した。
西園寺公望は講和会議を終え、7月8日にロンドンに行き、10日にイギリス皇帝に拝謁した。近衛文麿とは7月8日に別れ、近衛はヨーロッパ各国、アメリカを訪問して帰国した。
西園寺公望は7月13日には荷物の整理を行い、17日に仏国外務大臣と大使館に暇乞いをし、19日に熱田丸(注2)に乗船した。
1919(大正8)年8月23日に神戸港に帰着、翌24日に東京に帰った。
東京からパリまでの往路は51日、復路は37日であった。
〔ちなみに、現在、東京(成田)からパリまで飛行機で平均12.5時間ほどである。〕
この歴史的な第1次世界大戦のパリ講和会議の往路・帰路の移動に、このキャビン・トランクも常に随行したのである。
キャビン・トランクには所有者を、K.SAIONJI と朱書きされている(注3)。
パリ講和会議の資料や、西園寺侯爵の身の回りのものを運んだのであろう。ちなみにパリでは、何度となく洋服屋に足を運んでいる。
西園寺公望は、パリ講和会議に全権委員として出張するにあたり大勲位に叙され、菊花大綬章が授与された。
帰国の翌年、大正9年9月には、勲功により公爵に叙せられた。
(注1・2) 丹波丸は明治30年に建造で6102トン、熱田丸は明治42年建造で8523トン。ともに日本郵船の船で、欧州航路に就航した。丹波丸は昭和9年売却、熱田丸は昭和17年に戦争により沈没。
(注3) 西園寺公望自身は、明治38年に「ローマ字ひろめ会」の初代会頭になっているが、SAIONNZI と表記した。パリ講和会議での署名もSaionzi である。
付記:参議院事務局『立法と調査』2011年12月No.323に、宇佐美正行氏の「パリ講和会議と日本外交」の記事が掲載され、憲政記念館開催の「大正デモクラシー期の政治特別展」でこのキャビン・トランクが展示されたことを記している。
2023年6月6日 立命館 史資料センター 久保田謙次