愛媛県の今治市河野美術館に、西園寺公望資料が所蔵されています。美術館には今治市出身の河野信一氏の収集による資料およそ1万点が収蔵されています。河野信一氏は大正9年に帝国判例法規出版社を創業し、傍ら古今の筆墨典籍類を収集していました。そして昭和43(1968)年に今治市に一括寄付をしています。
その中に西園寺公望の書幅・書翰・俳句短冊など9点があります。
このほど美術館を訪問しましたので、今回は、そのうちの俳句短冊1点と書幅1点を紹介します。
書幅の翻刻と、詩意註解の出典紹介については、立命館 史資料センターの職員によります。
【写真 左:不讀俳句短冊、右:木内老兄宛書幅 今治市河野美術館提供】
≪不讀俳句短冊≫
大磯にて
花水を渡て来たか春嵐 不讀
不讀は西園寺公望の俳号です。大森不入斗の望緑山荘時代(明治26年頃~)から使っていた俳号ですが、この句は大磯にて詠んでいます。
神奈川県の大磯は、歴代の内閣総理大臣が8人も邸宅(別邸)を構えた地ですが、西園寺は明治32年末から明治45年頃まで住んでいました。伊藤博文の別荘滄浪閣の隣にあったことから「隣荘」と呼んでいました。
西園寺公望は俳句にも並々ならぬ才能を発揮していましたが、この句は、のちの『陶庵公影譜』(昭和12年審美書院)の「公の俳句」にも公の代表的な十数句のなかに取り上げられています。
≪木内老兄宛書幅≫
翻刻: 清風定何物可愛不可名所至如君子
草木有嘉聲我行本無事孤舟任
斜横挙杯属浩渺楽此両無情帰
来雨携渓間雲水夜自明 中流自偃仰適与風相迎
木内老兄 属 大正戊午■日 公望書
詩意:
清風と云うものは定んで何物である、但是れ愛すべくして何物と名くることは出来ない、至る所嫋嫋と吹いて君子の如く人に快感を覚えしむ、又風の為に草木も嘉聲を発する、我が一行は本より無事の人である、孤舟に乗じて舟の斜横に一任する、而して中流に於いて上下を偃仰する、適ま風と相迎へて、杯を挙げて以て浩渺に属する、此を楽んで人も境も共に無情である、両渓の間を帰り来れば、雲も水も夜自然と晴明である
岩垂憲徳・久保天隨・釈清潭註解『蘇東坡全詩集』第三巻
この書幅は、「木内老兄」に依頼されて揮毫したものです。木内老兄とは、木内重四郎と思われます。木内は明治30年代は農商務省で局長の任にあり、第一次西園寺内閣の年(明治39年)には朝鮮の統監府農商工務総長として赴任していました。そして大正5年4月から大正7年6月まで京都府知事を務めています。
この書幅は大正7年に書かれていますが、4月に木内知事は京都府の先賢慰霊祭を行い、山縣有朋とともに西園寺公望も参列しています。
前年には大京都市計画を立て、秋には京都の清風荘に西園寺公望を訪問しその計画について話しています。この大京都計画は、7年4月1日に周辺の十数町村全域と数村の一部を編入して面積2倍以上となる新京都市が発足しました。
木内知事はその6月に事件に巻き込まれ京都府知事を免官になりますが、その際にも清風荘に滞在していた西園寺公望に挨拶に行っています。
この書幅が揮毫されたのが、木内知事在任時のものか、その後かは不明ですが、木内重四郎に依頼され贈ったものであると言えるでしょう。
(木内重四郎の履歴については、一部、馬場恒吾『木内重四郎傳』(昭和12年ヘラルド社)によった。)
2024年1月24日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次