【写真1】創部者で顧問の野崎教諭と創部2年目の生徒たち
(1968年3月卒業アルバム)
1.ワンダーフォーゲルとは
現代のスポーツには、健康維持を目的として楽しむスタイルが増えてきています。しかし、学校の運動部といえば、団体や個人ともに勝敗を決定する競技が一般的で、勝利に固執するあまりに指導がエスカレートして問題化する場合もあります。
そうしたなかにあって、異色の存在であったのがワンダーフォーゲル部で、ワンダーフォーゲルは、「渡り鳥」という意味をもつドイツ語で、野山を旅し、自然のなかで独立の精神を育むことを趣旨として始められたとされています。歴史的には、国民の身体を鍛えながら団体行動を身につけるという目的でドイツのワイマール時代に普及させたものでした。
ワンダーフォーゲルはドイツから始まり、その後、世界各国に伝わり盛んとなりました。日本では昔から「行脚」という語で山々を歩く旅行が親しまれていましたが、これが山岳や登山の活動と共に広がり、1960年代になってからは各地の学校にもワンダーフォーゲル部が創設されるようになりました。
2.立命館中学校ワンダーフォーゲル部の誕生
1966(昭和41)年、立命館中学校にもワンダーフォーゲル部(以下、ワンゲル部)が美術科教諭の野崎龍吉【注1】によって創部されました。野崎教諭は、学生時代にワンゲル部に所属して山行を好んでいて、風景画の作品にはその特徴をもつものがありました。後に中高の美術部顧問となってからは、部員たちと山々を歩いて作品を描いていました。
まだ男子校であった立命館中学校の1966年当時のクラブ数は、文化部の方が多く(文化部8つ、運動部が6つ)、部員数(全校生徒数532名)は文化部170名で運動部180名とほぼ同数という状況でした。運動部では野球部(部員数32名)、庭球部(56名)、卓球部(31名)、排球部(18名)、陸上部(13名)で、創部1年目のワンゲル部には31名の部員が所属していました【注2】
3.ワンゲル部の活動内容
ワンゲル部では、ユニフォームとしてやまぶき色の登山帽とエンジの登山シャツを着用していました。初期は部員数が多かったため、5つの班に分けて、各班には班長と副班長が決められました。活動は、週3日のトレーニングで体力づくりを行い、時々はハイクに必要な知識を学科と称する学習会を生徒たちで開いて学んでいました。
月1回行われるハイクは、全員参加の総会で希望が聞かれ、それを生徒幹部会の役員たちで検討し、コースの行程や装備を決定しました。資料は、部員たちの手でガリ版印刷したものを配布されました。
当時の立命館中学校のクラブ規定では、合宿を伴う宿泊が禁じられていたため、ワンゲル部の活動も日帰り可能な距離での行程でした。初期は10㎞程度だったのが、徐々に距離を伸ばして25㎞ほどになっていました。その達成感を生徒のリーダーは次のように述べています。
「キャンプができず、一日で歩ける距離にコースが限られる。それでも、一日という時間を有効に使って京都のあちこちを歩いて見た。京都の郊外に、こんなにすばらしい所があるのかと言うほどの所があることを知った」【注3】
こうした自主的で地道な活動が学校から評価され、創部の翌1967(昭和42)年には宿泊(キャンプ)が許可されることになり、ワンゲル部の年間計画の中に宿泊コースが加えられるようになりました。
記念すべき第1回の1泊2日のコースは、
比良~(安曇川上流)~ヒノコ~大見(キャンプ)~杉山峠~花背峠~三条京阪(解散)
でした。この時の取り組みを文集で次のように振り返っています。
「まず先立って日時は、皆の都合を計り、天候なども考えて決定しなければならない。次にキャンプで水の便利な場所を考えてコースを決定した。費用なども相談して、買い物にあたったが、これも僕らの勉強で、分量やカロリーを考え体力のつくものを選ばねばならなかった。実際の行動ではテントやリュックサックの荷が重く、ようやくキャンプ地にたどり着いてもテントの組み立てと夕食の準備に時間がかかり、やっと8時頃になって飯ごうの飯の匂いをかぐことができた。後片付けを終えて寝る準備をした時はもう10時前だった。眠ったと思ったらもう朝で、すぐに朝食の準備にかからねばならなかった。(以下略)」【注4】
野崎教諭の経験と指導が生徒たちにしっかりと伝わっていたことが想像できます。
その後、顧問は変わり、1971(昭和46)年からの5年間は国語科で中学校副校長であった橋本二三男教諭が顧問となっています。この頃の部員数は15,16名でしたが、「北山」「比良」「湖南アルプス」などとコースを拡大し、1975(昭和50)年夏には大山縦走を実現させています。この大山では、「思わぬハプニングで不成功に終わるかと思わせた縦走をきり抜けた実績は、ワンゲル部員だれもが経験した輝かしいことであった」と、生徒たちの記憶に熱く刻まれています【注5】。
【写真2】生徒と肩を組む橋本顧問(1973年3月の卒業アルバム)
その後の主なものをあげると、
1977(昭和52)年春には3年生を送り出すための1泊2日合宿。
1979(昭和54)年夏季合宿として大山縦走実施。
1980(昭和55)年夏季合宿で立山合宿(4泊5日)。
この年の文化祭から運動部として展示参加開始
1983(昭和58)年夏季合宿で芦生の京大演習林(2泊3日)。
その後には、白山(2泊3日)や白馬岳(2泊3日)、槍ヶ岳(3泊4日)と3年周期で夏合宿を実施し、冬には雪中の山行などと山岳部のような行程へと変化していっています。
生徒たちは、道に迷ったりしながらも、ワンゲル部の活動を通じて自然と親しみ、仲間との団結や協力の大切さを学んでいったのでした。
【写真3】山岳経験豊かな西脇顧問と(1984年3月 卒業アルバム)
このように山岳部的な活動内容になった理由としては、1984年からワンゲル部の顧問として10年間を西脇終教諭(それまで高校山岳部の顧問であった)が、その後も高校山岳部顧問の前澤俊介教諭が担当したことがあげられます。
【写真4】信州育ちの前沢顧問と(1987年3月 卒業アルバム)
4.ワンゲル部の残したもの
1988(昭和63)年には男女共学、深草キャンパス移転と変わっていきましたが、女子部員の入部はなく、部員数も減少傾向となり、ついに1998(平成10)年3月をもってその歴史を閉じることになりました。
立命館中学校ワンダーフォーゲル部は、勝敗のない運動部として異色で貴重な存在でした。これからの部活動のあり方を考えるうえでも参考になるのではないでしょうか。
【写真5】最後の槍ヶ岳合宿(1998年3月 卒業アルバム)
2024年4月12日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博
【注1】 京都市立絵画専門学校本科(後の京都市立芸術大学)卒業。1943年に立命館第二中学校教諭として入職。1971年からは中高校長を務めた。
【注2】 1966年度学校要覧。
【注3】 立命館中学校生徒文集「清流」第13号 (1967年3月発行)
【注4】 立命館中学校生徒文集「清流」第14号 (1968年3月発行)
【注5】 立命館中学校生徒文集「清流」第24号 (1976年3月発行)