史資料センターは、学園の歴史にまつわる様々な事歴を保存・利活用しています。
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文豪夏目漱石(以下「漱石」という)と中川小十郎(以下「小十郎」という)は「東京府第一中学」、英学塾「成立学舎」、「予備門(後に第一高等中学校)」、「帝国大学」の学生生活を通してどのような交友関係があったのかを調べてみました。
(1)「東京府第一中学」時代
夏目漱石の「落第」(『定本漱石全集』第二十五巻別冊上181~186頁、岩波書店2018年版)では、冒頭部分に「其頃東京には中学と云うものが一つしか無かった。…学校は正則と変則とに別れて居て、正則の方は一般の普通学をやり、変則の方では英語を重にやった。其頃変則の方には今度京都の文科大学の学長になった狩野だの、岡田良平なども居って、僕は正則の方に居たのだが、柳谷卯三郎、中川小十郎なども一緒だった。」と小十郎が級友であったことを述べています。その後の部分では学生生活や先生へのいたずら、腹膜炎罹患、落第などが述べられ、米山という学生に「文学をやれ」と力説されて「僕は文学をやることに定めた」という話になっています。
また小十郎の名前は出てきませんが、漱石は自分の学生時代について「私の学生時代を回顧して見ると、殆んど勉強という勉強はせずに過した方である。」と「一貫したる不勉強―私の経過した学生時代」(『定本漱石全集』第二十五巻別冊上337~345頁、岩波書店2018年版)に述べています。
(2)英学塾「成立学舎」時代
小十郎が漱石等と学んでいた「成立学舎」について、漱石は「満韓ところどころ」(『定本漱石全集』第十二巻小品275~277頁、岩波書店2017年版)において佐藤友熊という学友の思い出として語っています。
「始めて彼を知ったのは駿河台の成立学舎という汚ない学校で、その学校へは佐藤も余も予備門に這入る準備のために通学したのであるからよほど古い事になる。佐藤はその頃筒袖に、脛の出る袴を穿いてやって来た。余のごとく東京に生れたものの眼には、この姿がすこぶる異様に感ぜられた。ちょうど白虎隊の一人が、腹を切り損なって、入学試験を受けに東京に出たとしか思われなかった。教場へは無論下駄を穿いたまま上った。もっともこれは佐藤ばかりじゃない。我等もことごとく下駄のままあがった。上草履や素足で歩くような学校じゃないのだから仕方がない。床に穴が開いていて、気をつけないと、縁の下へ落ちる拍子に、向脛を摺剥くだけが、普通の往来より悪いぐらいのものである。」
なかなかの劣悪な教室条件ですが、予備門に入るために一生懸命に学んだ懐かしい学舎を回想しています。ここには小十郎の名前は登場しませんが、予備門に入学後にこの「成立学舎」で学んでいた学友を中心に、夏目漱石、中川小十郎、太田達人、佐藤友熊、橋本左五郎、斎藤英夫、小城斎、中村是公等で「十人会」が組織されました。
(3)「予備門」時代
漱石との関係を小十郎は「我輩の中学生時代」(『立命館百年史』資料一18~24頁、学校法人立命館)の中で次のように回想しています。二人は学校終わりに遊んでいた友人でした。「…神田の裏神保町に末廣という下宿屋があって、そこに漱石や中村是公などが下宿していたので、我輩等は学校の帰りにそこで立ち寄って漫談をやるのが例であった。漫談と云ってもこの頃能くある雑誌の原稿にでもなるのとは全く異って本当の無駄話しをやって時日を徒消するのが本領であった。その仲間に漱石こと塩原金之助、中村是公こと柴野是公、太田達人、佐藤友熊、土井軍平、白浜重敬、綿貫吉秋こと堤喜代吉、それに我輩であった。…漱石は何時も室の片隅に寝転んでいて、点々として仲間の所謂漫談を聞いているのであった。」とあります。
また、後年になって漱石は、「『極北日本 樺太踏査日録』への序」(『定本漱石全集』第十六巻評論ほか558~560頁、岩波書店2019年版)において、「蟹堂君が親しく大経営の方針を聴いたといふ平岡長官や、それから君が世話になつたといふ中川第一部長は、二人共豫備門時代における余の同窓である。平岡君とは夫程親しくはなかつたが、中川君とは別懇の間柄であつた。たしか學校を卒業した時の話だと記憶してゐるが、知り合ひの某々等がある序で顔を合はした折り、座上を見廻して此うちで誰が一番先に馬車に乗るだらうといつたものは此中川君であつた。誰も答へない先に、まあ己だらうなと云つたのも此中川君であった。其時居合はした五六の卒業生のうちで出入りに馬車を驅つてゐるものが今あるかないか、まだ調べて見ない余の知らう筈もないが、少なくとも中川君丈は、慥かに橇に乗つて樺太を横行してゐるに違ひない。その時の一人であつた某理學士も近々樺太へ轉任するといふから、これも中川君と前後して橇に乗る事だらう。」と述べています。このように「別懇の間柄」である中川との思い出を漱石が懐かしく語っています。
他に、実際の書簡は残されていませんが、漱石による「中川小十郎宛夏目漱石英文書簡下書き」(『漱石全集』第二十六巻492~493頁、岩波書店1996年版)に英文書簡の下書きが残っています。
「先週土曜日に君を訪ねて聞いたところでは、だいぶ回復に向かっているとのことだったから、2、3日うちには学校でお目にかかりたいものと切に願っている。土曜日に言ったように、君の代わりに学校へ斎藤君に会いに行った。だが残念ながら、きょう斎藤君は休んでいた。君を病床に見舞って、斎藤君からのお見舞いを伝えることもできず、やむなく帰宅した。赦してくれ給え。明日、あるいは明後日、また病床の君を訪ねて、君の気が紛れればとも想う。御快復を心から祈りつつ、親愛なる中川の忠実なる友 塩原金之助 中川小十郎様」。病床の中川小十郎を気遣う漱石の様子がよく表われています。
さらに、龍口了信著「予備門の頃」(十川信介編『漱石追想』30~35頁、岩波文庫2022年版)では、大学に入学するための予備門での学生生活を描いていて、「私は病気のために学校を休んだので、…中川小十郎君等より一年おくれて明治二十三年に第一高等中学校を卒業した。第一高等学校の同窓会名簿を見ると、中村、夏目、正岡(子規)君等は私と同じく二十三年の卒業になっているから、これらの人々も何等かの理由で一年おくれたのだろう。」とそれぞれ学友の名前を挙げて述べています。
また太田達人「予備門時代の漱石」(『定本漱石全集』別巻漱石言行録15~26頁、岩波書店2018年版)には上述の「十人会」について書かれています。「…佐藤友熊だの、橋本左五郎だの、それから西園寺公に附いてゐる中川小十郎だのと云つたやうな、成立学舎から来た連中ばかりが集まつて『十人会』といふのを組織しました。勿論、その中には夏目君も私も加はつてゐました。中村是公は成立学舎出身ではないが、ああいふ気性だから、やはり気が合つたものと見え、『十人会』の一人になつてゐました。正岡子規はその時分は未だ別の仲間でした。」この後には、「十人会」のメンバーが一人十銭の予算でほとんど歩いて江の島に一泊旅行に行ったことが描かれています。
(4)「東京帝国大学」時代
小十郎と漱石が親しい交友であったことを示す帝国大学卒業記念写真があります。明治26(1893)年7月、小十郎が帝国大学を卒業する際に撮影した同級生との記念写真(『立命館創立者生誕150年記念 中川小十郎研究論文・図録集』62頁、学校法人立命館史資料センター)があります。この写真では小十郎と漱石が正装で写っています。
*左から、太田達人、中川小十郎、夏目漱石、佐藤友熊
これまで見てきましたように、漱石と小十郎の交友関係は、漱石が「別懇の間柄」というくらい親しかったことが分かりました。大学卒業後にはそれぞれ進む道が違いましたが、どこかで影響を受け合っていたかも知れないと想像するのも楽しいですね。
【参考】「立命館創立者生誕150年記念 中川小十郎研究論文・図録集」
2024年6月7日 立命館 史資料センター 調査研究員 佐々木浩二