史資料センターは、学園の歴史にまつわる様々な事歴を保存・利活用しています。
また、様々な学園の事歴の調査研究もしています。
今回は、立命館学園史に取り上げられた「火災」について、詳しく調べてみました。
『立命館百年史通史一』では、立命館学園における1908(明治41)年の火災が取り上げられています。この火災により立命館は学園史に残るほどの多大なる損失を被ったわけですが、一体その原因は何であったのか、この事件を掘り下げてみたいと思います。
(1)1908(明治41)年12月16日の火災
『立命館百年史通史一』(186-187頁)では次のように記載されています。
「1908年12月16日未明、大講堂より出火した。『会館及ひ事務所』を残してすべてが烏有に帰し、1905年に西園寺から寄贈されていた『立命館』の扁額もこの時に焼失した。『立命館創立五十年史』によれば、この時の被害額は『大学部教室及大講堂七八坪、中学部教室一〇四坪、同理化学及博物教室三三坪、同器械標本室十坪が全焼してその損害一万七千円、半焼したのは事務所生徒控室、倉庫廂―損害約七十円、書具額一千八百円、器械標本額約八百円、書籍(法政大学講義録)約二千円など計四千六百七十円、総計では二万千六百七十円』に上っている。」
この火災は、私立京都法政大学として草創して間もなくの大事件であり、あわやその後の教育事業を断念せざるを得ないほどの大規模で致命的なものでした。「明治時代の1円は現在の2万円くらいの重みがあった」(野村ホールディングス・日本経済新聞社運営「お金の歴史雑学コラム」より)とする資料をもとに計算してみると、損失総額は21,670×20,000=433,400,000円となり4億円を超える損失額となります。
とりあえず授業の対応としては、隣接寺院を借りて翌年1月から授業を再開し、学校再建のための寄付を募るなど、関係者の様々な努力の末、現在の立命館大学に歴史が繋がっているのです。
私立京都法政大学及私立清和中学校設立者末広威麿が文部大臣小松原英太郎宛に報告した内容は、「本日午前二時教室ノ一隅ヨリ出火シ大学部中学部共校舎ノ大部焼失致候ニ付此段御届候也」(「立命館百年史資料一」242ページ)とあり、深夜二時に教室の一隅から出火したということです。末広威麿から中川小十郎宛の書簡(書留)では、出火場所(大講堂)で最後に授業を行った講師、後始末を行った小使、事務員を特定しているが、最後に事務員が校内を巡回すべきところを行っていなかったと伝えています。さらに中学生が実に乱暴で、新聞にも掲載された下宿屋女将絞殺事件の従犯として中学三年生と五年生が検事局へ送られたことを挙げ、焼失もあるいは中学生が試験妨害を行おうとしたものではないかとの疑いを述べています。(『立命館百年史資料一』244~246頁)
何やら不穏な雰囲気になってきましたが、当時の新聞記事によりこの火災原因について検証してみましょう。
京都日出新聞より
〇「其の原因は目下川端署にて取調中なるも聞く處に依れば同大学三年級教室内には平素紙屑入代用の火鉢臺ある由なれば或は火鉢の火仕舞悪く火が右の紙屑に燃え移りたる為ならんと云う」(「京都日出新聞」1908(明治41)年12月17日)
〇「其後所轄川端署にて出火原因取調の結果全く同夜火鉢の始末悪しかりし為なること判明せし」(「京都日出新聞」1908(明治41)年12月23日)
以上、所轄の川端署の調査結果記事によれば、教室にあった火鉢の火の後始末が悪く、紙屑に火が燃え移って出火したということでした。とりあえず、学生による放火事案ではなかったことに安堵しました。
ちなみに学園史に大きな影響を与えた火災は、1942(昭和17)年にも発生しています。その時の状況も資料から見てみましょう。
(2)1942(昭和17)年6月24日の火災
『立命館百年史通史一』(621頁)では衣笠校地の一隅(現存心館時計台付近)に設置していた日本刀鍛錬所が1942年6月24日未明、火災により大半を焼失すると記されています。こちらも「未明」の不審火であり気になったので当時の京都の新聞にあたってみましたが、あいにくこの火災に関する報道は見つかりませんでした。
『立命館百年史紀要』第5号には「立命館日本刀鍛錬所の記録」が掲載(293~326頁)されており、この火災についても記述があります。それによれば、「立命館の鍛錬所が、古式鍛錬所の『傘笠亭(さんりゅうてい)』一棟だけを残して火事にあい焼失してしまった。」とあり、当時の責任者が警察からくわしく事情を聞かれたが、結局屋根裏の梁に堆積した炭塵が、自然発火したものと推定されました。
この火災について中川小十郎は「先日あの小火を出したことは甚だ不祥事でありましてこれは唯私の責任であります。色々調べて見ますと漏電でもありませぬ。全く不完全なる設備の下に力を入れた為であります。工学科の専門家の玄人がうようよして居るにも拘らず全くえらい失策でした。全く私の責任であります。今後はさう云ふことのないやうに十分手を尽くして完全にやるつもりであります。」と自分の責任であることを表明していました。
しかしその後、中川総長の子息で当時鍛錬所助手として研ぎや鞘作りなどの製作に関わっていた流政之が、軍隊からの米・油の接収や軍刀の増産命令等に嫌気がさし、自分たち(流政之、刀匠・所長の桜井正幸の直弟子である横田正光技士、技工の隅谷正峰)3人が放火したことを自白しており、3人の刀工による放火であったことが判明しました。(『立命館百年史通史一』(707-709頁))
2024年7月2日 立命館 史資料センター 調査研究員 佐々木浩二