今年もすべての入学試験・合格発表が終了し、4月の入学式を迎える時期となりました。
2014年度の新入生を募集する立命館大学・立命館アジア太平洋大学の一般入学試験は、全国31会場で実施されました。
今では、全国各地に入学試験会場を設置して入学試験を実施するのは定番と言えることかもしれませんが、かつて「出張入試」と呼ばれた地方試験の実施は、いつ頃から、どのくらいの試験会場数で始まったものなのでしょうか。
古くは、1939年5月の『立命館日満高等工科学校(注)報告(第1回)』に、「生徒ノ募集ハ全国ニ於テ左記六ケ所ノ試験場ヲ設置シ、専任教授二名宛出張ノ上ソノ試験ヲ行ヘリ」とあり、京都以外に、秋田、東京、高松、松江、福岡の5会場で試験が行われていて、これが「出張入試」の先駆けとされています(『立命館百年史 通史二』491頁)。
また、1942年に同校が立命館大学専門学部工学科に昇格したときも、京都、東京、福岡で試験が実施されています。
現在につながる出張入試の実施は、1956(昭和31)年度(1956年2月)から新たに始められたとみることができます。
初年度は、札幌(北海道大学一般教養部)、名古屋(名古屋大学教養部)、広島(広島大学理学部および文学部)、福岡(九州大学第一分校)の4会場で実施され、翌57年度には高松(香川大学経済学部)試験場が追加されました。
当時、他大学に先駆けて出張入試を行った背景として、当時の校友会報誌『立命』には、次のように書かれています。
「わが学園は、入学志願者を主として京都府下を中心とした近隣諸府県、就中(なかんずく)、学園経営の短期大学部、専門学校別科、高等学校から得ていたが、いまではそれらの比重が相対的には大幅に縮小し、その基盤を全国各地にひろげ、しかもそれは年を逐うて拡大している」
(『立命』4号、立命館大学校友会、1953年7月)
加えて、1951年から、高等学校の教諭を招いた「進学懇談会」を全国各地で実施し、末川博総長も積極的に出席し、好評だったことも出張入試を実施する大きな要因となったようです。
1950年代の志願者数の推移をみてみると、確かに出張入試が行われて以降、志願者数も増えてきたようです。
年度 |
1951 |
1952 |
1953 |
1954 |
1955 |
1956 |
1957 |
1958 |
1959 |
1960 |
志願者数 |
3,439 |
5,900 |
6,314 |
7,820 |
8,337 |
6,176 |
9,077 |
8,917 |
10,045 |
12,858 |
注:一部(昼間部)・二部(夜間部)の合計
出典:『立命館百年史 資料編二』20頁
では当時の出張の体制、入学試験の実施体制はどのようなものだったのでしょうか。
『通史二』の記載(501頁)には、「教員2名と学部事務職員2~3名が、入試問題の入った重いジュラルミン・ケースを抱えて汽車に乗り込む風景が1962年度まで毎年繰り返されることになる。」「1963年度入試からは、答案の輸送は業者委託に切り替えられた」ことが説明されています。
当時、各試験会場の担当者が携帯して出張したと思われる、「出張試験関係書類」「○○出張試験資料綴」などの資料が、古くは1957(昭和32)年、つまり、出張入試が行われて2年目の資料から、史資料センターに残されています。
<1957(昭和32)年出張試験関係書類(広島)>
<1965(昭和40)年出張入試実施要項>
(この年度の京都以外の会場は、札幌、東京、金沢、名古屋、広島、高松、福岡、熊本の8会場)
<仮受験票発行の記録は大学の便箋に手書きで>
現在の地方入試の出張の体制は、4名以上の職員を班編成して実施しており、各試験会場の担当者は試験執行にかかわるマニュアルを携帯して出張していますが、出張入試が導入された当初から資料として残る、綿密な内容やスケジュールが記された資料綴は、現在にまでそうした業務が継続されていることを意味するのではないでしょうか。
当時と現在との実施の仕方の違いにも目が留まります。
例えば、1965(昭和40)年度の入試で受験生に配付された「受験に関する注意書」をみると、現在の入試とは異なり、「本鈴から60分経過後」の退出が認められていたようです。
<1965(昭和40)年度入試「受験に関する注意書」>※画像をクリックすると、別ウィンドウで拡大画像を見て頂けます。
<当時は学部数も限られており、学部ごとに試験会場が割り振られています>
(現在は、文系、理系などの区分です)
1964(昭和39)年、1965(昭和40)年の福岡試験会場の様子の写真が残されていますので、そのいくつかを紹介します。
<試験会場となった九州大学教養部と試験会場内の様子>
(地図は、出張者の「業務計画書」裏面に書かれていたもの)
<掲示で試験教室などを確認する受験生の様子>
(現在の「受験案内所」と思われます)
<入試本部で作成が必要な掲示物の確認とその作業の様子>
その後、1980年代後半になり、立命館大学の志望層の受験機会を保障するという観点から、全国各地で受験できることを目的に、1989年度からそれまでの地方入試を全国的に本格化させていきます。
1990年前後から段階的に拡大していった地方入試は、以降、2月から3月にわたり、立命館の独自入試として全国20前後の試験会場で実施することになりました。
今では試験会場の全国化はめずらしいものではなくなっていますが、全国の大学の中では立命館大学の取り組みがその端緒であったのです。
そして時代が経ても、入学試験の実施にかかわる業務は改善を繰り返しながら継承され、毎年の厳正な入試執行につながっています。
(注)立命館日満高等工科学校:「満州国」における技術者不足からこれを養成するため、「満州国政府委託生」を受け入れる機関として、立命館は1939年3月、立命館高等工科学校を立命館日満高等工科学校に改組。北大路に校舎があったが、衣笠に新校舎を建設し、同年11月、衣笠に移転した。