現在衣笠キャンパスでは新図書館を建設中で、それに伴い現図書館周辺の整備が計画されています。
その整備計画にあたり、先日図書館前の「立命館大学理工学部発祥の地」の碑の移設場所について相談がありました。碑は近くの理工学部発祥にふさわしい場所に移設されることになると思いますが、ここではその機会に、発祥の地の碑を建てた「相訪会」、合わせてかつて衣笠キャンパス(等持院学舎)にあった「相訪会館」およびその名の由来となった創立者中川小十郎が残した「形影相訪」について紹介します。
1.相訪会とは
碑は1993年11月23日、理工学部が翌年のBKC拡充移転を迎えるにあたり「理工学部衣笠学舎さよならの集い」を開催し、その記念として「相訪会(理工学部校友の会)」によって建立されたものです。
相訪会は理工学部校友の会ですが、現在理工学部は学科毎の同窓会組織が基本となっており(注1)、相訪会の名を知る人は残念ながら少なくなっています。
(1) 相訪会の始まり
「相訪会」という組織は、そもそも理工学部の前身である立命館高等工科学校、立命館日満高等工科学校の時代に遡ります。
立命館高等工科学校は、1938(昭和13)年に北大路学舎に設立され、翌年立命館日満高等工科学校と改称し、その11月に衣笠学舎(当時は等持院学舎といった)に移転しました。しかし実は、立命館高等工科学校は更にその前身といえる学校があり、1914(大正3)年に京都帝国大学理工科大学内に設置された私立電気工学講習所を継承しています。
したがって現在の理工学部・生命科学部などは、1938年から数えて77年、1914年から数えると100年を超えた学部なのです。
さて「相訪会」です。
① 相訪会の名称が初めて資料に見えるのは、1940(昭和15)年4月10日の新聞「立命館」です。「高工新卒業生等送別宴を開催」の記事に、本年度卒業の高工生同窓会が3月10日に相訪会京都支部の主催により京大楽友会館で開催されたとあります。
出席者は本野会長、関野、松尾ほか諸先生方、新卒業生合わせて37名でした。この席上で本野会長が相訪会の由来を語っています。「諸君が御卒業になれば日満高工の校友会であり同窓会である所の此「相訪会」に入会されるのであります。「相訪会」とは電気工学講習所の経営が立命館財団に移管された際に講習所の卒業生を以て組織してをる所の同窓会をも立命館高工が継承するといふ意味に於て中川総長先生が新に附けられた名前であります。形影相訪といふ禅語からとられたものでありまして「形」と「影」とはいつでも途づれになってあるくといふ意味であります。……最初中川総長先生が筆を執って「形影相訪」といふ四字を認めて私に渡されたときの御言葉によれば、電気工学講習所の卒業生と其のあとにつゞく立命館高工の卒業生との関係を深く考慮されて斯く命名されたのであります」(注2)
② 次いで翌年の1941(昭和16)年2月27日に卒業生に対して送付された相訪会からの「御案内」があります。
相訪会京都支部は3月10日の日満高等工科学校第1回卒業式当日卒業祝賀会を開催し、相訪会入会の歓迎晩餐会を開催するとの案内を相訪会京都支部長井口誠一の名で送っています。第1回卒業生は高等工科学校からの編入学者を含む336名でした(『立命館要覧』昭和16年10月現在)。井口誠一氏は1917(大正6)年電気工学講習所の卒業生で、戦後全学の校友会が再建された際、法人に拡充部が設置されると、1948年5月20日に工学科相訪会幹事長として拡充委員に推薦されています。
③ また同じ1941年4月30日現在で作成された「学校教育概況」(日満高等工科学校に関する)には、その「同窓会ト学校トノ関係」の項に、
「本校ノ前身私立電気講習所ノ同窓会ヲ相訪会ト改称シテ之ヲ継承シ会長ニ校長ヲ
副会長ニ主事ヲ推シ各地ニ支部ヲ置キ学校ト緊密ナル聯絡ヲ保テリ」
とあります。
④ 1943(昭和18)年12月の『全立命館学友会名簿』には「相訪会々則」が掲載されています。
第1条に「本会ハ相訪会ト称ス」とし、第5条に3種の会員を設け、名誉会員、特別会員、正会員としています。名誉会員は総長、校長などですが、特別会員は母校恩師、元電気工学講習所同窓会特別会員とし、正会員は立命館大学専門学部工学科、立命館日満高等工科学校卒業生、元電気工学講習所同窓会正会員、としています。会則は全15条及び附則からなっていますが、昭和18年11月現在の役員が掲載され、会長は本野享、副会長に関野彌三、幹事長武石萬一のほか幹事が9名です。幹事のうち藤谷景三はのちに理工学部機械工学科教授となっています(会則は『立命館百年史 資料編一』にも掲載されています)。
(2) 新制理工学部開設以降の活動
1953年5月には立命館大学校友会会則が改正され、会員として新たに「立命館日満高等工科学校及びその前身である電気工学講習所の卒業生」が明記されました。
その後の相訪会の活動をいくつかの資料から紹介します。
① 1955年6月1日の「全立命学生新聞」に相訪会長白坂勇城氏(大正11年電気工学講習所卒業生)が「相訪会」の紹介をしています。氏によると、「母校(電気工学講習所)が立命館日満高工と変わって後もその益々発展する途は先輩講習所同窓生による所大なるものがあるとして故中川総長は理工学部の発展が形となって表れるのは他方に於て影の講習所卒業生が相訪う結果によるものでありこれを「形影相訪」と表現され、今後この気持ちを以て両者(講習所卒業生立命館卒業生並に立命館学風を結ぶ)を永久に結合して行きたいと云われて講習所同窓会員と立命館日満高工卒業生は同一母校の卒業生として立命館内の一部へ同窓会を作る事になった時、故中川総長はその会名を自ら「相訪会」とされてその揮毫されたものを頂いておる」とその由来を明らかにし、「我々理工学部関係の校友会員は特に相訪会と称する様に総長から命名されたことであり……母校創立の伝統精神を失う事なく更に本相訪会を根幹として従来以上の結束を友誼を発揮し後進の誘掖と母校の発展のため会の発展のため努力していかねばならない」と結んでいます。② そしてその6月26日に相訪会の総会が開催されました。
7月の校友会誌『立命』(第12号)に、「相訪会総会催さる」の記事があり、総会が理工学部新館(2000年に解体された3号館)で6月26日に開催されたことが紹介されました。清水相訪会長の挨拶、門脇理工学部長の祝辞と学園の近況報告、佐久間ダムの建設状況の映画が上映されたとあります。
③ 1958年10月19日、理工学部同窓会「相訪会」総会が等持院学舎新館で開かれました。末川総長、田中理工学部長、小田校友会長、中島事務局長、理工学部教職員、会員百人余が参加し、清水氏の渡米報告のあと、黒部ダム開発の記録映画を観賞し、会長に近藤勇次郎、副会長に藤谷景三、長谷川忠男、などを選出したことを報告しています。(「立命館学園新聞」1958.12.13号)
なお「立命館学園新聞」は、翌1959年11月8日にも相訪会総会が開催されたことを報じています。
④ 1960年5月10日の「立命館学園新聞」には、「相訪会総会開く」の記事があり、4月24日に理工学部新館で西村理工学部長、小田校友会長を迎え42人が出席して開かれたと紹介しています。総会のあと日本スピンドルの土屋謙二氏(校友)の「中規模機械工業における技術」の講演、映画と懇親会が行われたと報じました。
このように、1960年頃までは「相訪会」の活動が活発に行われていたことが知られます。
(3) 理工学部創立50周年記念事業
1988年、理工学部は高等工科学校の創立から数え50周年を迎えます。9月には相訪会記念総会を開催する準備が始まりました。大南正瑛学部長、藤谷景三教授、辻村寛教授、校友などが中心となって進められましたが、諸企画は理工学部・理工学研究所の主催で開催することとなり、11月には記念講演会、実験施設の公開、12月から1月の2ヵ月間土曜講座で理工学部創立50周年・理工学研究所設立35周年記念特集を組むなど多彩な企画が続けられました。記念講演会と土曜講座の講演は『新時代の科学技術』として発行され、また記念誌『21世紀の扉を開く 理工学部の今日・明日』が発行されました。
同窓会総会は、翌1989年9月10日「理工学部創設50周年校友大会」として都ホテルで開催され、卒業生・教職員約900名が集い、50周年を祝うとともに新たな飛躍を誓いました。
そして「相訪会」の名は、1993年11月の衣笠学舎さよならの集いにて建立された理工学部発祥の地の碑に残されることになったのです。
2.相訪会館について
1938(昭和13)年4月、北大路学舎に高等工科学校が創立されると理事会は新校舎建設のため、土地を等持院に求めました。
順次土地を取得し、日満高等工科学校は翌1939(昭和14)年11月に等持院の地に移転、開設されました。
(1) 相訪会館となった土地・建物の取得
その中に1939(昭和14)年6月16日に取得した土地・建物がありました。
上京区等持院北町52番地の2(現在は北区)、土地260.66坪と、建物 木造瓦葺2階建、附属建物ともで71.56坪でした。土地の所有者は東京在住の太田黒養二氏(同志社出身)、建物の所有者は同所の冨田惠四郎氏(京都帝国大学出身)でした。(売買の資料からお二人は親族と思われます。)
(2) 倉橋勇蔵と石原莞爾
建物は日満相訪会館と名付けられ、当時立命館常務(のち専務)であった倉橋勇蔵が入居しました。等持院学舎が開設された翌月の1939(昭和14)年12月の資料には、倉橋勇蔵の住所が等持院北町52番地の2となっており、また1941(昭和16)年3月の『立命館大学校友名簿』にも上京区等持院北町 相訪会館内となっています。倉橋はこの相訪会館で日満高等工科学校の開設・充実発展に力を尽くしました。
同年、中川総長は立命館に国防学研究所をつくり国防学講座を開設するため、4月所長として石原莞爾を招聘しました。中川総長は石原に住居として相訪会館を用意し、石原は母親と奥さんの3人で寄寓することとなりました。倉橋はそのため龍安寺の近くに転居しています。
5月にはやはり国防学研究所で教授となった里見岸雄が相訪会館に石原を訪ねています。
石原莞爾が寄寓していた時には臥龍庵と呼ばれましたが、石原は立命館出版部から発行した『国防論』や『戦争史大観』などがもとで軍部の圧力により同年9月に立命館を去り、郷里山形県鶴岡にその居を移しました。
なお、奥田鑛一郎『師団長石原莞爾』芙蓉書房(1984年)の「洛北衣笠山、臥龍庵」には、石原莞爾が寄寓した相訪会館について次のように記述しています。
「安山岩の自然石を積み重ねた風雅な門を入ると、十間ほどの石畳の小径があって、その奥がガラス格子の玄関になっている。玄関を上がったすぐ右手が、十畳ほどの応接間である。ドンスのゆったりとしたソファーのほか、ちゃんとした調度品が備えつけられている。すべて中川総長が事前に用意したものだ。中央にはよくみがかれた北山杉の廊下が走り、右側に南面した明るい八畳の座敷と六畳の茶の間が続き、一番奥に茶室がある。廊下の左側は、手洗いや風呂場に続いて、納戸と台所がある。二階は六畳の書斎と八畳の寝室の二部屋になっている。家屋の周囲は、小じんまりした庭で、自然石や桜・梅・桃・楓などの樹々が配され、南側に十坪ほどの芝生がある。」
(3) その後の相訪会館
石原が去り、相訪会館は学校の施設として使用されました。主に等持院学舎の教職員・学生の集会場・会議室、来賓の接待や校友の親交の場として使われたようです。
1952年10月7日には、1944年10月7日に亡くなった中川小十郎の9周年の追悼会が等持院で行われ、墓所に参拝ののち相訪会館で故人を偲ぶ集いが開かれました(『立命』第2号)。
その相訪会館には1946年から閉鎖される1955年まで、住み込みで管理をした職員夫妻もおりました。
(4) 相訪会館の閉鎖
1955年9月、理事会はキャンパスの整備計画のため同地に変電所を新設することとして相訪会館の取り壊しを決め、処分。11月8日に建物は宗教法人聖護院に売却され、その歴史を閉じました。
聖護院に売却されたのには次のような経緯がありました。
当時本学の理事を務めていた中坊忠治氏は1953年頃聖護院で御殿荘という修学旅行生向けの旅館を始め、御殿荘は翌1954年11月立命館の指定旅館となりました。1955年9月に既に取り壊しが決定していた相訪会館の処分について10月28日の理事会に諮られると中坊理事から御殿荘に移築のため払い下げを受けたいとの申し入れがあり、これを了承したものです。
中坊理事は1928(昭和3)年に立命館を卒業し、京都弁護士会会長や日本弁護士連合会常任理事を務めた弁護士でしたが、御殿荘の経営にも力を注いでいました。御殿荘の増改築のために相訪会館が使われたものと思われます。
3.そして形影相訪
立命館には「形影相訪」という扁額があります。中川総長が揮毫し、1938(昭和3)年に立命館に寄贈したものです。(注3)
扁額は相訪会館に架けられ、中川総長や本野校長がこの言葉をよく学生に聞かせていたと言います。日満高等工科学校の卒業生が満洲国内における待遇の是正を母校の先生方に依頼した文書(昭和16年)には、中川総長や本野校長がしばしば「形影相訪」について訓示していたと記しています。
相訪会・相訪会館の名称も中川総長が「形影相訪」から付けたと言われています。
1981年5月16日、衣笠学舎体育館で行われた立命館学園創立80周年・大学衣笠移転完成記念式典において、天野和夫総長は、式辞のなかで記念品として「形影相訪」の額皿を配ったことにふれ、次のように語っています。
「この言葉の意味は、常に親交を深め、お互いに語り合って、学園の発展のために尽くそうというようなことでありますが、現代風にいえば教育、研究の共同化、あるいは相互理解と相互批判という言葉に通ずると思います。私どもは、このような創立者の教えを引き継ぎ、今後の本学の発展に資さなければならない」(「立命館学園広報」第121号 1981.6.20)
「形影相訪」とともに「相訪会」「相訪会館」の名称もまた創立者中川小十郎の精神を表したものと言えるでしょう。
(注1) 現在理工系学部の同窓会は基本組織として数物会、化友会、電友会、機友会、建設会、情報会があり、理工学部・情報理工学部・生命科学部・薬学部を含めた「立命館大学理工系同窓会連絡協議会」が組織されています。
(注2) 立命館高等工科学校は1938(昭和13)年に創立し、翌年立命館日満高等工科学校と改称されまし
たが、日満高工の開設にあたり制度上は3年制であったところを「時局の要求に鑑み」2年制で運
用されました。
このため、1940(昭和15)年3月に高等工科学校の最初の卒業生が、1941(昭和16)年3月に日満高
等工科学校第1回の、続いて1942(昭和17)年3月に第2回の卒業生がでています。
(注3) 「形影相訪」の扁額の寄贈は昭和3年ですが、揮毫年は不明です。また、「形影相訪」の語の出
典は「禅語」「寒山詩」「法華経」などと言われていますが定かではありません。
本稿の作成にあたっては、辻村寛名誉教授、理工学部事務室日置正治氏から情報提供をいただきまし
た。お礼申し上げます。
〔2015.9.9立命館史資料センター準備室 久保田謙次〕
≪追記≫
本稿掲載後、「相訪会」に関する資料が保存されていることが判明しました。
あらためて資料を紹介します。
1954(昭和29)年3月、相訪会長白坂勇城氏が「新卒業生諸氏に告ぐ」と題し卒業式に贈った原稿があります。
氏はそのなかで電気工学講習所、日満高等工科学校の歴史とその関係にふれ相訪会について述べておられます。そして新たな会員を迎えるにあたり、ともに相訪会会員として母校の発展に努力しようと呼びかけています。
資料には昭和27年9月2日に改正された「相訪会々則」も添付されています。事務所を理工学部内に置くとし、事業として卒業生の就職斡旋をあげていることが注目されます。
「相訪会主要行事報告」には昭和25年8月から27年2月までの主要な行事が掲載されています。1950(昭和25)年の大学50周年記念事業に相訪会として取り組んだことが知られます。
また1955(昭和30)年8月に『相訪会会員名簿』が発行されています。門脇博明理工学部長が名簿の発行を祝して巻頭文を寄せていますが、相訪会の会員が八千名を超えると報告しています。更に来年度から推薦入学制度が廃止され一般入試制度一本になるので入学志願者の確保に協力を依頼していること、卒業生の就職についても協力に対し感謝を述べていることが注目されます。なお、名簿の「立命館大学及び同理学部概歴」のなかで相訪会設立を昭和16年4月としていますが、既に述べた1940(昭和15)年4月10日付けの新聞「立命館」の記事も合わせて紹介しておきます。