※本文引用文の典拠でページのみ記載しているものは、全て『立命館百年史 資料編二』より引用。
引用文中の太字・下線は全て筆者による
<私立学園の志>
いずれの学園であっても、始まりがあり、始まりの時には「志」があります。
特に私立学園の場合は、草創期の人々が生きた時代背景の中で、教育の有り様に対して強い「志」が表れます。これが「建学の精神」です。
私立学園はまた、常に社会の変化や社会の教育にかける期待に呼応して、その教育の有り様を更新していきます。歴史を積み重ねるに従い、学園の個性が形作られていきます。
「教学理念」は、こうして形づくられた大学の個性を示すものです。
立命館学園も、始まりの時の「志」や、教育の歴史の積み重ねの中で個性を醸成してきました。
建学の精神である「自由と清新」
教学理念である「平和と民主主義」
は、私立学園である立命館の個性です。
2006年に制定した「立命館憲章」には、この言葉に凝縮された立命館学園の志やこれからの進む方向が簡潔明瞭に宣言されています。
※立命館には、もう一つ学園の特徴を示す「未来を信じ 未来に生きる」という言葉があります。詳しくは 以下の記事をご参照ください。
<懐かしの立命館>「未来を信じ 未来に生きる」の意味
https://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=72
<始まりは何時?>
さてでは、この「自由と清新」「平和と民主主義」はいったいいつから、全学に、そして一般に膾炙されるようになったのでしょう。
今日はこのお話。
1.建学の精神「自由と清新」の始まり
この言葉は、立命館の創立の志です。
でも、立命館創始者の西園寺公望も、創立者の中川小十郎も、この言葉を使っていません。西園寺の生き方や西園寺に師事した中川の教育にかける思いはまさに「自由と清新」でしたが、この言葉を使ったことはないのです。
初出は、『立命館創立五十年史』(1953年3月31日発行)の序文「創立五十年史刊行にあたって」の中で末川博総長が記述した言葉の中にあります。(注1)
この年史発刊以前は、戦後立命館学園の気風を表現する言葉は「自由で民主的」「自由と平和」などの組み合わせでしたが、この年史を境に「自由」と「清新」がくみあわされるようになりました。
末川博総長は、「創立五十年史刊行にあたって」で、立命館学園の始まりである京都法政学校の設立経過にふれて次のように述べています。
「京都大学の創立は、西園寺公望公が第二次伊藤内閣の文部大臣であった折に企画されたところであって、当時唯一の官立大学であった東京帝国大学に対して、政治の中心から離れた京都の地に自由で新鮮な、そして本当に真理を探究し学問を研究する学府としての大学をつくろうという意図に出たものだといわれている。
この意図に沿うて京都大学では、後年、いかなる権威にも屈しない真に自由でアカデミックな学風が樹立され、学園の自治独立が現実化されるとともに、世にいう京都法学、京都哲学、京都経済学の如きが栄えるに至ったのである。
だから、京都大学の法科大学が出来てそこに新進気鋭の優秀な学者が集まったのを機縁にわが学園が創立されたということは、立命館学園の性格すなわち自由で清新な学府たるべき性格を決定する一つの要因となっているということができるであろう。」(『立命館創立五十年史』pp.2-3)
末川博総長は、西園寺が意図した京都帝国大学の学問の気風が、中川が創立した京都法政学校に引き継がれたとし、西園寺と中川のつながりが「自由で清新」な気脈で通ずるとしたのです。
以降、末川博総長は学園の歴史にふれるとき、しばしば「自由」と「清新」を組み合わせて使い、これが「立命館大学」受験者向けパンフレット(1955年)、「大学要覧」(大学発行の学園案内冊子)(1958年)などで記載され、徐々に認知度を高めていきました。
「自由と清新」を建学の精神とすることは、この時期の機関会議(理事会や大学協議会などの学園の意思決定機関)で審議決定された記録はありません。
末川博総長の言葉から始まり、学園の学生・教職員が一体となって教育や研究に邁進してゆく中で共有され、確信していったのです。
しかしながら、末川博総長が意図した西園寺、中川から続く戦後立命館学園の「自由」「清新」という連続性は、その後強調されなくなりました。
改めて「自由と清新」という学園史の連続性が強調されたのは、1981年衣笠一拠点の取組みに向けた70年代後半学園創造の全学討議の中でした。
当時の天野和夫総長は後日振り返って「戦後の40年代、50年代に末川先生が学園の歴史を語る際には、必ず学祖西園寺、創立者中川の業績に触れられていたが、それ以降60・70年代には触れることが弱くなっていたので、自分が総長に就任してからはかなり意識的にそれに触れるようにしてきた。」(注2)と述べ、全ての学生教職員が、学園の歴史と到達点に確信をもち、衣笠一拠点を始めとする大きな諸改革を進められるようにしたのです。
続く谷岡武雄総長の80年代は、学園の国際化を推進し「国際関係学部」(1988年開設)設置の取り組みの中で、国際派・自由主義者であった学祖・西園寺公望(注3)とともに「自由と清新」を学園の気風、建学の精神として学園の創始の志として定着させ、現在に至っています。
2.「平和と民主主義」という教学理念
立命館学園の教学理念は「平和と民主主義」です。
これもまた、いずれかの機関会議で決定したというものではありません。
日本国憲法にもとづく「あたりまえ」の教育理念が、戦後の社会情勢の変化と立命館の真摯な取組み過程で「あたりまえ」のことをあえて確認する必要が生まれ、さらに立命館のあり方と不可分一体となるまでに重要視されるようになって、教学理念「平和と民主主義」として確立していったのです。
これは1947年~50年代、60年代、そして68年~70年それぞれの時代を背景とする立命館の歩みそのものでした。
この歩みを辿っていくと、現在の教学理念「平和と民主主義」が確立・定着したのは、1970年の「立命館大学の現状と課題について」(1970年10月24日学内理事会)といえます。
それはどのような経過だったのでしょうか。
立命館の学園史である『立命館百年史』の記述にもとづいて辿ってみましょう。
2.1戦後「あたりまえ」であった「平和と民主主義」(1947~1962年)
戦後日本の教育機関は、「日本国憲法」と「教育基本法」「学校教育法」にもとづいて設置されました。その教育の根本的精神は、基本的人権の尊重の下、二度と戦争を導かない平和教育と国民一人ひとりを主権者とする民主主義教育でした。
ですから、日本全体の教育機関にとって「平和と民主主義」は、改めて強調する必要のないほどに「あたりまえ」のポリシーだったのです。
当然立命館も「平和と民主主義」は「あたりまえ」であって、大学自治や意志決定機構の有り様をめぐる議論の中でも、「民主化」「自由で民主的な」等の言葉は多用されていますが、「平和と民主主義」を教育の理念であるとまで明言することはなかったのです。
『立命館創立五十年史』、「1957年度 全学協議会確認事項(十二月原則)」(1957年12月14日 全学協議会)、「1960年度 全学協議会確認事項(新十二月原則)」(1961年1月16日全学協議会)にもあえて記述は見当たりません。(注4)
2.2全体方針文書に現れ始める「平和と民主主義」(1963年~1967年)
1960年代に入って、教学理念あるいは教学方針の基本である「平和と民主主義」という言葉は、学園全体の課題を議論する際に、必ず現れるようになります。
立命館学園は、将来計画は学生教職員全体で討議して決め、決まったら全員一致して推進する「長期計画委員会」方式「全学協議会」方式を特徴としていました。この「立命館民主主義」と通称される特徴の幹は、提案者と学園の主体である学生教職員との意見の往復にありました。
理事会や「長期計画委員会」の提案は、各クラス、教授会、職員職場で説明・討議され、出された意見が「長期計画委員会」や理事会に集約され、意見にもとづき提案が修正されて再び全学の討議に付されるという往復作業です。
これは大変な時間がかかるのですが、一旦決定すれば学園全体が主体者となって目標に向かって邁進し、必ず実現するという力強い仕組みでありました。
この討議を有効にするためには、理事会や学生教職員が、立命館の基本的な立場や考え方、「誰の何のための立命館であるか」ということについて同じ認識に立つ必要がありました。
だからこそ提案文書には必ず、「自由にして清新」という学園の気風や「平和と民主主義」という教育の基本理念が明示され、主権者たる「国民」「庶民」のための高等教育を目指すことを明示したのです。
1963年、学園の初めての長期計画である「学園基本計画要綱」(1963年6月15日大学協議会)(pp.564-572)には、「本学は戦後一貫して平和と民主主義を基調とする教学方針を堅持し、他の諸大学に見られない伝統と特徴をつくりあげてきた。」(p564)
と、立命館学園の基本的考え方がしっかりと記載されました。
この「学園基本計画要綱」の全学討議を経てまとめられた「1963年度 全学協議会確認」(1964年1月18日)(pp.574-578)では、確認文書の最後の項目で、大学の機能充実のための財政的基盤を学生の父母に転嫁することは「憲法に保障された教育の機会均等を阻害し、平和と民主主義の教学内容に否定的な結果を及ぼすものである。」(p578)と明記され、全学一丸となって国庫負担大幅増額運動を推進することが確認されています。
1967年、「立命館大学における大学自治(案)」<総長選挙規程改定案討議資料>(1967年11月24日理事会)(pp.881-887)では、
「立命館においても、平和と民主主義の教学理念を追求しつつ、上のような大学自治の原則を堅持し、その内容をいっそう充実するよう全学的に努力を傾けてきた」(p881)
という記述が見られます。
この文書は、総長選挙規程改定の原案を学生・教職員で検討した際に提起されたもので、
立命館学園の教学理念を平和と民主主義であると明言しています。
こうして、「立命館民主主義」は、提案文書の「はじめに」の部分で世界・日本をとりまく情勢と立命館の建学の精神や教学理念を明示した上で、全学で共通の認識に立ち、立命館の社会的使命から見て、どのように情勢を捉え、どのように改革を行っていくかを議論したのです。
2.3あたりまえのはずの「平和と民主主義」の危機と再確認(1968~1970年)
「平和と民主主義」は「あたりまえ」であって、全学での議論において共通の認識として確認するというニュアンスであったものが、改めて再確認され教学理念として明示する必要が生まれます。
1968年から日本全国に起こりはじめたいわゆる「大学紛争」(注5)は、立命館にも波及し、1968年12月に発生した「学園新聞社事件」を端緒として、これまで全学構成員の総意によって築き上げてきた民主主義的制度を否定し、暴力によって主張を押し通そうとする学生集団が生まれます。(注6)
立命館はこれに対して、忌避したりおもねる態度を取ることなく、正面から立ち向かう道を選択しました。
その際に改めて強調したのが「平和と民主主義」でした。
だからこそ、建学の精神「自由と清新」、教学理念「平和と民主主義」、そして国民に開かれた大学を目指すという立命館の原点が改めて提起され、確認されることとなりました。
「平和と民主主義」は、これまでの立命館の教育の柱であるとともに、幾多の危機を乗り越えて民主的制度を整備してきた学生教職員の「諸問題は民主的討議をもって解決する」「暴力は絶対に許さない」という学園アイデンティティでありました。
立命館は、「大学紛争」を一部の学生の暴力行為という表層としては捉えませんでした。近年の日本を取り巻く情勢、日本の高等教育をとりまく情勢、そして個別立命館大学の戦後から現在(1969年)に至るまでの意思決定方法、教学と財政の関係など学園運営のあり方、学生教職員の勉学研究労働条件のあり方など、これまでの立命館の歴史的取組みの総括問題として捉え、大学全体の改革を持ってこの危機を乗り越えようとしたのです。
この取組みは「大学改革のための討議資料」(注7)を元に1年以上をかけて理事会、教授会、各クラス、職員の職場、教職員組合、学友会・自治会で討議を行い意見集約していったのです。
「大学改革のための討議資料」はその後全学の議論を反映しつつまとめられて、
「立命館大学の改革についての答申」〔一拠点、教学、学生規模、管理運営、財政〕(1970年9月19日 長期計画委員会)(pp.1102-1132)として改めて全学討議に付されました。
この文書の「まえがき」には
「本文書は、学園の展望を確定することが急務となっている現在、基礎資料として今後とも重視されなくてはなりません。『答申』が提起している諸課題に関しては、すでに各学部などの討議のなかから活発な意見が寄せられつつあり、学内理事会は『答申』ならびにこれをめぐる教職員の討議をふまえつつ、早晩学園の新たな基本的要綱ないし政策を立案し、大学協議会の決定をまって、全学に提示することを期しています。」(p1102)
とあり、討議の前提として全学が共通の認識をもつことの重要性を訴え、これまでの意見の反映と再提案によるさらなる全学討議を呼びかけています。
さらに、本文の最初には「はじめに」として本学の教学がこれまでどのように発展してきたかを共通認識にすべく
「戦後の民主化を背景にして、末川博氏が学長に就任され、本学は憲法と教育基本法に基づく『平和と民主主義』を基本理念とし、研究を重視し、それを基礎とした教育をめざし、学問・思想の自由と大学の自治の確立に努力した。
教職員と学生の努力により『自由にして清新なる学園』と『庶民の大学』として他大学には見られない学園を築き上げてきた。」(pp.1102-1103)
と再確認しているのです。
そして、平和と民主主義がカッコで囲われ、平和と民主主義は不可分一体であることが強調されました。
他方、「大学紛争」は日本社会全体の問題となっていましたから、「大学改革」の学内議論と平行して、学生の父母、校友にむけても大学紛争に対する立命館の考え方を発信しています。
1969年10月5日発行の「学園通信」(注8)では、立命館大学総長事務取扱(事実上の総長)武藤守一経済学部長(注9)が「立命館大学の近況報告-最近の紛争に関する大学の見解-」を掲載しています。
少し長いのですが、この時期の「空気」と立命館の考え方が端的に記されていますので引用します。
「大学紛争は、全国的な現象であって立命館大学だけのことではなく、根深い問題をも含んでおりますので、われわれとしては当面の対策も重要であるが、同時に根本策についても検討を進めて来ました。これによって、いままでの立命館大学が社会から一定の評価を受けてきた基礎の上に、さらに新しい施策を加えて、今こそ大学改革の先駆的役割を果たしたいと考えております。」
「世界のいたる所で思想的・政治的・経済的・軍事的にその他あらゆる面で矛盾や衝突が絶えず生じています。世界はまさに変革期にあるといえます。このような世界の中にある日本でありますから、非常な発展の側面をもちながらも、累積する矛盾の拡大、それが大きな底流となっていることを否定することはできません。
このような国の内外の動きをまず敏感に感じとり、不安に思い、それを直接に行動に現わしがちであるのが青年であり学生であります。ただ、それを正しく受け止め、正しく行動に移すかどうか、ここに大きな問題があります。」
「矛盾を最も敏感に感じ不安に脅やかされる彼ら自身が、その出身階層に制約されて、意識は観念的に、行動はラジカルに陥り易いという弱点をもっています。」
「立命館大学が戦後急速に発展した原因は果たしてどこにあったのでしょうか。平和と民主主義を教学の基本理念としていたこと、民主的体制の確立、経理の公開、低学費、教学の充実などといろいろ挙げ得るでありましょう。いわゆる「立命館方式」といわれるのは、総長選挙への学生参加をはじめ、全学協議会を中心として教職員・学生が一体となり得る全学的な民主的体制があったからであります。このような自他ともに許す民主的立命館にどうして紛争が生じたのでしょうか。
それは三十五年の安保改定以後、国内の矛盾は拡大し、その反映として、それを受け止める学生の立場と行動に統一性が困難となり、さらに外部からの策動もあって、統一とは逆に対立と憎しみの度を加えることになりました。このために立命館大学においても、民主的体制をもちながら、民主的運営に重大な支障を来たすこととなり、数年間にわたって全学協議会を開くことができなくなりました。そのために、学生諸組織の間の摩擦が次第に激化し、昨年十二月中旬には学園新聞社問題をめぐって、ゲバ棒が公然と現れるに至り、総長選挙規定の改訂もできなくなりました。」
「われわれは全共斗を責め、政府を追求し反対するだけでなく、自ら顧みて改革すべきことは大胆に改革するという積極的な姿勢と具体的な方針をもたねばなりません。立命館大学ではすでに、大学の理念から始まって、教学の内容・条件・体制の全般にわたる改革のための討議資料を全教職員・学生に配布し、全学的討議の中で、新しい大学のあり方、新しい立命館大学のヴィジョン確立のために、目下努力中であります。」
2.4学園アイデンティティとしての教学理念「平和と民主主義」(1970~1980年)
1968年から1969年にかけての全学あげての大学改革討議の結果、1970年「平和と民主主義」は立命館の教学理念として再確認されました。
これを端的に示した文書が
「立命館大学の現状と課題について」(1970年10月24日 学内理事会)(pp.1132-1140)です。文書からその部分を引用しましょう。
「二、立命館大学の立場
わが学園の現状と将来を考察するためには、まず立命館大学が何を拠り所にし、何を目ざしてきたか、学園の基本的立場を確かめておく必要があります。
本学は戦後一貫して『平和と民主主義』の教学理念を標榜してきました。しかしこれは、なにか他の大学と異なる特別の目標を追求しようとしたのではありません。平和と民主主義のための教育・学問という理想は、敗戦後新しい憲法と教育基本法がつくられた時、戦争と軍国主義の惨苦を体験してきた国民が、過去の歴史の深い反省にたって、これからのわが国教育の根本理念として確認し合ったものです。わが大学が多少ともこの点で特色ある学風をもっているように人々に映るとすれば、それはただ、立命館大学がこの二十年余、そうした国民的理想にもっとも忠実であろうと努力してきた大学の一つであるからに過ぎません。」(p1132)
本文書は、「立命館大学の改革についての答申」〔一拠点、教学、学生規模、管理運営、財政〕(1970年9月19日 長期計画委員会)後の討議のまとめとして学内理事会で決定されたものです。「平和と民主主義」を不可分一体のものとし、立命館の教学理念とした長期計画委員会答申を再確認しています。
さらに、「平和と民主主義」の教学理念は憲法・教育基本法の理念であって、立命館の特色として写るのは、歴史の中で、どのようなことがあってもこれを忠実に護ろうと努力してきた結果にすぎない。とその原点を明言しています。
以後、立命館の対外冊子、全学協確認等には必ず「平和と民主主義」が、立命館の原点として記載されるようになり、とりわけ立命館の教育の有り様(教学)を語るとき必ず「平和と民主主義」が教学理念として記述されるようになったのです。
70年代の諸文書から、記述部分を総覧してみましょう。
1971年 「一九七〇年度全学協議会確認事項」(1971年1月18日)(pp.1232-1237)
「戦後一貫して憲法・教育基本法にもとづく『平和と民主主義』の理念の実現に努力してきた立命館大学」「『平和と民主主義』の理念にもとづく教育・研究の実現」(p1232)
1971年「立命館大学教学の現状と課題」(1971年3月27日 大学協議会)(pp.1150-1170)
「本学は、戦後一貫として平和と民主主義の教学理念を掲げてきた。」(p1151)
(注10)
1975年「立命館大学の現状と課題」(1975年10月21日 立命館(学内)理事会)(pp.1324-1360)
「本学は一貫して“平和と民主主義”にもとづく新しい大学の創造をめざして(略)」(p1340)
1976年「一九七五年度全学協議会確認」(1976年1月24日)(pp.1248-1267)
「本学は、戦後一貫して、憲法と教育基本法にもとづく平和と民主主義の教育・研究を、教学の基本理念として教学改革をすすめてきた。」(p1267)
1980年「一九七九年度全学協議会確認」(1980年1月21日)(pp. 1267-1301)
「立命館大学は戦後一貫して平和と民主主義の教学理念を堅持し、国民的要請に応える教学の実現をめざして全学の構成員が一体となって努力してきた。」(p1267)
1980年「1980年立命館大学 入学試験概要」天野総長の言葉
「本学では、特に憲法と教育基本法の精神である平和と民主主義を尊重し、これからの社会の発展に役立つ人材の育成を教学の基本理念としている。」
「立命館の現状と課題」以降1970年代は、「平和と民主主義」の教学理念を常に再確認するとともに、徐々に「戦後一貫して」「国民的要請に応える教学」などの立命館学園の社会的使命に関わる文言が加わっていき、学園アイデンティティとして定着していく時代でした。
これは同時に1963年の「学園基本計画要綱」の提示から68年~70年の「大学紛争」克服を経て1981年に衣笠一拠点実現に至る「学園振興」期の軌跡でもあったのです。
<結び・1980年代以降と立命館憲章>
1980年代以降「自由と清新」「平和と民主主義」は「未来を信じ 未来に生きる」という言葉とともに立命館学園の個性として確立されました。
これらの言葉は100年以上もの長い学園の歴史の中で、時代に向きあい、あるべき学園の姿を模索する中で、常に原点として再確認し、その時代に応じた新しい意味を見出してきました。
1950年代 「自由と清新」は、末川博総長によって創出され、私塾立命館から始まり戦前から戦後へと続く立命館の歴史が一貫していることを改めて捉え直す言葉となりました。
続く武藤守一総長と細野武男総長の1970年代、「平和と民主主義」は、戦後日本の「憲法」と「教育基本法」「学校教育法」に基づく基本的人権の尊重、平和主義、民主主義、国民主権という「あたりまえ」の教育を、50~60年代後半の社会変動や大学紛争の中で改めて確認し、どのようなことがあっても憲法・教育基本法に忠実であろうとする立命館の確信として捉えなおされました。
1980年代 天野和夫総長は、1963年の「学園基本計画要綱」以来の念願であったキャンパスの移転統合という衣笠一拠点化を完遂するにあたり、建学の精神「自由と清新」教学理念「平和と民主主義」を全学で確認することに注力しました。
そして、1981年「未来を信じ 未来に生きる」の碑を衣笠キャンパスに建立して、「わだつみ像」に託した末川博総長の思いを、今一度学園の理念・姿勢として捉えなおしました。
続く谷岡武雄総長時代の1985年には、1990年の「立命館創始120年・学園創立90周年」の記念事業として学祖・西園寺公望の「伝記」事業に着手するとともに、国際主義・自由主義者である西園寺公望の「自由と清新」をさらに学園の前面に位置づけて、学園創造を進めます。
1988年に開設された「国際関係学部」は、学園の社会的期待に応える改革であると同時に、学祖・西園寺公望の理想を具体化するものとして展開していきました。
大南正瑛総長時代のBKC開設(1994年)や、長田豊臣総長、坂本和一APU初代学長時代のAPU創設(2000年)は、「未来を信じ 未来に生きる」という言葉を「平和と民主主義」教学の象徴とともに、時代を切り開き未来を創造していく立命館学園の姿勢を象徴する言葉として、捉えなおしました。
また、1992年には、「平和と民主主義」の教学理念をより内実化し、平和についての教育・研究の拠点を構築することを目指して「立命館大学国際平和ミュージアム」を開設しました。
そして2006年7月、長田豊臣総長の時代にこうした歴史の中で培った立命館学園の確信や思いを明文化して、広く社会に宣言するとともに、これからの学園関係者にとっての「志」として「立命館憲章」を制定しました。
「立命館憲章」は、2005年11月16日に初めて学園の常任理事会で提起され、2006年1月18日に「起草委員会」が設置され、半年間かけて言葉、表現、文節の一つにいたるまで、全ての学生、教職員の議論に付されました。その後、意見集約・再提案をおこなって2006年7月21日制定されたのです。
文面には、建学の精神、教学理念はじめ学園を支えてきた様々な理念、原則、教訓が織り込まれ、2大学5附属校となった立命館学園のアイデンティティとして確立されました。
立命館学園の建学の精神・教学理念は、万古不変のお題目ではなく、時代とともに歩む立命館の人々の真摯な努力が反映され、常に新しい意味を確認してきました。
それは今日においてもなお、続けられているのです。
(立命館 史資料センターオフィス 奈良英久)
<注>
※脚注引用文の典拠で、ページのみ記載しているものは、全て『立命館百年史 資料編二』より引用。引用文中の太字・下線は全て筆者による
(注1)
『立命館創立五十年史』は立命館大学衣笠図書館、BKCメディアセンターにて閲覧できます。
(注2)
天野総長の言葉は、以下を参照
吉田幸彦(1995).『自由にして清新』考<未定稿> 立命館百年史紀要 第3号(史資料センターHP 「刊行物」からダウンロードできます)
(注3)
西園寺公望は、1940年11月に没した後、翌月の12月に立命館の学祖と定められている。
(注4)
この間「平和と民主主義」があえて議論の俎上に載るのは、「新学部設置準備」(1962年に開設された経営学部のこと)に関わって立命館教学の有り様を確認する必要からでした。
「新学部増設について」(1961年4月22日企画委員会)(pp.626-629)では、経営学部を設置する際の教学と経営のあり方について
「大学の運営は教学が優先し、しかもそれが経営と一体化しなければならない。教学の根本は平和と民主主義をめざし、それぞれの分野における学問と技術を身につけた人材を養成することにある(以下略)」(p626)とあります。
1950年代の立命館は、戦後増え続ける大学進学者に対して、貧弱な教育施設設備で大学運営を行っており、教育施設設備の充実が喫緊の課題である一方、物価が上昇し続ける状況下にあって学園財政は逼迫していました。学園の財政と教育の充実を両立するためには、学園規模を拡大(新キャンパスの展開)する必要があり、そのために「商学部」を増設するとの議論があったのです。1957年「商学部」設置は凍結となりましたが、その後1960年代初めに「経済学を基礎とする経営学」を学問の中心とする「経営学部」の設置が改めて検討されました。「経営学部」設置の議論は新しい学問分野を切り拓くだけではなく、50年代の課題であった教職員の待遇改善、学費額の抑制、学園経営上の必要性からも重要だったのです。(pp.734-740)
その議論の中で、教学を充実させることが経営の基盤であるという考え方の議論が行われ、教学の根本理念とは何かとして、「平和と民主主義」が述べられたのです。
とはいえ経営学部設置をめぐる各文書中には「平和と民主主義」は統一して使われておらず、4月22日企画委員会に続く「私学教学理念の在り方からみた新学部設置の意義」(1961年5月13日)(pp.629-632)では「民主と自由の原則」「国民的教育、民主的研究の精神」という言葉が使われ、「新学部〔経営学部〕設置問題についてのまとめ」(1961年7月4日)(pp.635-639)では「自由と民主主義」という言葉が使われており、いずれも「平和と民主主義」は出てきません。
この時期「民主」「自由」「平和」はキーワードであって組み合わせに特別の意味を持たせるまでにいたっていなかったのでしょう。
(注5)
一般的には「学園紛争」と称されますが、立命館学園ではこの紛争が立命館大学のみに発生し、附属校である立命館中学校・高等学校では発生しなかったことから「大学紛争」と呼称しています。
なお、「大学紛争」は1965年1月下旬の慶応義塾での学費値上げ反対闘争を端緒とし、翌年に首都圏の大規模私立大学(早稲田・明治・中央など)で、1967年に東京医科歯科大学や東京教育大学などの国立大学で、1968年に日本大学や東京大学で紛争が起こっている。立命館をふくめて関西や全国に紛争が広がっていくのは、1968年後半から1969年であった。
(注6)
戦後立命館には様々な危機があり、全学の真摯で民主的な討議を経て乗り越えてきた歴史がありました。そしてその都度全学の合意による立命館らしい制度を創設して乗り越えてきました。1940年代の「総長公選制度」「総長選挙へ学生参加」「学内優先の原則」「全学協議会制度」、そして1950年代半ば「私学危機」と「緑の学園構想」を経て確立された「長期計画委員会」制度、1960年代初頭の学園財政を保障するためには教学改革こそが大切であるという、教学と財政の一致の考え方などがそうです。
こうして蓄積した立命館の民主主義的討議の仕方や諸制度を否定した上で一方的な要求を突きつけ、要求が受入れられないと施設の占拠・破壊によって大学の教育行為そのものを妨害する。これらの行為は他の学生の学ぶ権利、教員の教える権利を妨害し、大学そのものの機能を麻痺させるに至り、単にこの年度の個別問題や発達段階中の青年心理などというものではなく、戦後の立命館学園が築き上げてきた存在理由を全面否定する重大な危機であるとの認識でした。
(注7)
「大学改革のための討議資料」は次の4冊でした。(pp.737-827)
1969年4月 「大学改革のための討議資料 その一〔大学、立命館民主体制改革の方向〕」(1969年4月30日 立命館大学(学内)理事会)
1969年8月 「大学改革のための討議資料 その二〔教学の歴史的総括、教学各論〕(1969年8月6日立命館大学(学内)理事会)
1969年10月 「大学改革のための討議資料 その三(未定稿)〔研究・教育と組織運営、意思決定と執行組織、その他〕(1969年10月18日立命館大学(学内)理事会)
1970年3月 「大学改革のための討議資料 その四(未定稿)〔学生処分制度〕(1970年3月13日 立命館大学(学内)理事会)
(注8)
当時の「学園通信」は年2回(4月、10月)発行。4月は新入生の大学生活、10月は大学の教育が中心記事であった。いずれも学生の親に向けた広報誌であったため、記載内容は大学の現状を知らせるものであり、書き方も父母向けだった。「学園通信」は立命館大学衣笠図書館で閲覧できます。
大学の広報はその後、1970年度から「立命館学園広報」(B5サイズ 学内教職員向け定期刊行物)の発刊、1974年から「学園通信タブロイド版」(A3サイズ 学内の学生・教職員を対象として、学園全体課題を周知することを目的とした不定期刊行物-多い年で5・6・10・12月発行-)が発行され、学園情報の共有が図られた。「学園通信タブロイド版」は1985年まで発行された後、1986年から「学園通信」(B5)とサイズを揃えてカラー版となり定期発行となった。
(注9)
末川総長は1969年4月1日、5期20年の任期を終えて退任し、武藤守一経済学部長が新たに総長となる予定であった。しかし「大学紛争」の混乱にあって総長選挙規程の改訂に関わる全学討議が出来ず、総長選挙も不可能であったため、この時期「立命館大学総長事務取扱」という臨時の役職についていた。
その後新総長選挙規程は、1969年12月に成立し、翌1970年2月に新規程による総長選挙を実施して武藤守一総長が誕生している。
(注10)
この間に「1973年度全学協議会確認」(1974年1月18日)があるが、「平和と民主主義」の言葉は出てこない。この年度の協議会確認のテーマが、学費値上げ反対ならびに財政民主化・事務体制民主化や相対的低学費堅持、公費助成への取り組みに特化しており、教育・研究に関する文言は学生・院生にとっての条件整備要求にとどまっていることに由来する。(公費助成に対する立命館の取組み、職員組織の教育機能などの提起の点で画期ではある)
<参考文献・資料について>
記述にあたっては、『立命館百年史 通史二』、『立命館百年史 資料編二』の記述と解釈を典拠としました。ただし、『立命館百年史 通史二』には、教学理念「平和と民主主義」の成立過程に焦点を当てた項目はありません。
本論考は、通史二の以下の章および記述を下敷きとして、主として立命館学園の正式な年史である『立命館百年史』所収の資料によって、教学理念「平和と民主主義」の成立と経過を再構成しています。
『立命館百年史 通史二』参考章
序章
『平和と民主主義』の教学理念の内実化に向けて(pp.7-8)
第三章「大学紛争」と立命館学園の課題
第一節 一九六〇年代後半の政治・社会状況と「大学問題」
三「大学紛争」と立命館における民主主義の到達段階
-「大学改革のための討議資料」による問題提起
第四章 立命館学園新展開への胎動
第一節 学園体制の新局面
一「大学紛争」の克服と「自主改革」への模索
教学理念「平和と民主主義」の再認識 (pp.1070-1072)