アジア・マップ Vol.01 | アフガニスタン

≪エッセイ≫アフガニスタンと私
初めての北部への旅

青木健太(公益財団法人中東調査会研究主幹)

 私がアフガニスタンに初めて足を踏み入れたのは、2005年11月の晩秋のことだった。
 それまで英国の大学院で平和学を学んでいた私は、修士論文の題材にアフガニスタン難民を選び文献調査を行っていたものの、治安の関係から、フィールド調査には行けないままだった。アフガニスタンの歴史に興味を持つようになり、どうしても同国の実状をこの目で見たかった私は、日系NGOのプログラム・オフィサーの職を得て仕事を始めることになった。
 2007年まで、首都カーブルを拠点にNGO職員として勤務し、カーブル州郊外、中央部パルワーン州、カーピーサー州、及び、パンジシール州などをプロジェクト管理等のために訪れた。しかし、治安悪化を受けて、2007年7月、日本政府外務省は民間人にアフガニスタンからの退避勧告を発出した。これを受けて、私は隣国パキスタンへの退避を余儀なくされ、アフガニスタンでのプロジェクトをイスラマバードから遠隔操作することになった。結局、その時点において、私はアフガニスタンの地方部には行けずじまいだった。

 東京での休息を挟み、2009年7月、今度はアフガニスタン政府省庁と国連開発計画の合同プロジェクトで勤務を開始した。以降、アフガニスタン全土で100件以上のプロジェクトを管理するようになった私は、モニタリング・評価のために地方を訪れる機会が増えた。
 2010年1月には北東部タハール州へ、同年2月には東部ナンガルハール州へ行き、プロジェクトを見学したり、完成式典に参加したりするなどした。
 こうした中、私にとって初めての北部旅行となったのが、同僚のエンジニア達とともに行った、2010年4月のパルワーン州、サマンガーン州、バグラーン州、バルフ州、ジョウズジャーン州、ファーリヤーブ州までの約650キロメートルを車で走破する遠征旅行だった。私の当時のフィールド・ノートには、初日の4月4日、朝6時20分にカーブルを発ち、約430キロメートル離れたバルフ州マザーリシャリーフに着いたのが午後2時20分だったとある。休息を除けば、約8時間車に乗っていたことになる。旅の途中、車窓から見たサラング峠(写真①)やサマンガーン州の褶曲山脈(写真②)の迫力ある様子が、治安悪化のために移動を制約された私の目にはとても新鮮だった。

写真① サラング峠の様子。水が豊富で、地元民は川から水を引き、生活に利用している(2010年4月4日、筆者撮影)。

写真① サラング峠の様子。水が豊富で、地元民は川から水を引き、生活に利用している(2010年4月4日、筆者撮影)。

写真② 車窓から見たサマンガーン州の風景(2010年4月4日、筆者撮影)。

写真② 車窓から見たサマンガーン州の風景(2010年4月4日、筆者撮影)。

 北部での活動拠点としたマザーリシャリーフでは、私たちチームは、プロジェクトを共同で実施していたアフガニスタン政府地方復興開発省州支局、国連開発計画地域事務所等との地域調整会議を実施した他、バルフ州やファーリヤーブ州で実施していた動物病院建設プロジェクト、社会・文化センター建設プロジェクト等をモニタリングした。仕事で忙しくしている合間に、ハズラト・アリー廟を見学する時間があったが、その荘厳さには圧倒された(写真③)。

写真③ マザーリシャリーフのハズラト・アリー廟(2010年4月5日、筆者撮影)。

写真③ マザーリシャリーフのハズラト・アリー廟(2010年4月5日、筆者撮影)。

 この旅が私の中に残したものがいくつかある。第一に、カーブルからファーリヤーブまでを旅することで、アフガニスタンの地形の複雑さを直に体験し、そしてその美しさに触れることができたことである。ヒンドゥークシュ山脈(インド人殺しの意)の峻険さ、目の前一面に広がる赤い花々(写真④)、地域ごとに異なる特色(写真⑤)など、書物だけではわからない多くのことを感じた。ナウルーズ(アフガン暦の新年。3月21日)明けの4月初旬、アフガニスタン地方部の平原の新緑は、目を奪う美しさであった。

写真④ バルフ州からファーリヤーブ州に移動する車中で目にした平原に咲く赤い花々(2010年4月6日、筆者撮影)。

写真④ バルフ州からファーリヤーブ州に移動する車中で目にした平原に咲く赤い花々(2010年4月6日、筆者撮影)。

写真⑤ 日本が国連経由で援助した食料物資を運ぶ人々。北部には、ウズベク人、トルクメン人等が多く暮らす。訪問した地域は木が少ないため、泥でできた家の天井は、煉瓦と泥から成る丸いドームで出来ていた(2010年4月6日、筆者撮影)。

写真⑤ 日本が国連経由で援助した食料物資を運ぶ人々。北部には、ウズベク人、トルクメン人等が多く暮らす。訪問した地域は木が少ないため、泥でできた家の天井は、煉瓦と泥から成る丸いドームで出来ていた(2010年4月6日、筆者撮影)。

 第二に、中央アジア諸国との近さを肌身で感じられたことも大きかった。訪問中、ウズベキスタンとアム河を挟んで国境を接するバルフ州ショール・テパ郡を訪問(写真⑥、⑦)したが、目と鼻の先に中央アジアがあることを実感した。訪れた村の住人はすべてトルクメン人であった。

↑写真⑥ ウズベキスタンとの国境を分かるアム河の前で写真を撮る筆者。バルフ州ショール・テパ郡にて。川の向こう側はウズベキスタン(2010年4月7日、友人撮影)

↑写真⑥ ウズベキスタンとの国境を分かるアム河の前で写真を撮る筆者。バルフ州ショール・テパ郡にて。川の向こう側はウズベキスタン(2010年4月7日、友人撮影)

↑写真⑦ バルフ州ショール・テパ郡。ペルシャ語でショールは「塩辛い」、テパは「丘」の意。文字通り、同郡の村の土には塩(写真の白い部分)が浮いていた(2010年4月7日、筆者撮影)。

↑写真⑦ バルフ州ショール・テパ郡。ペルシャ語でショールは「塩辛い」、テパは「丘」の意。文字通り、同郡の村の土には塩(写真の白い部分)が浮いていた(2010年4月7日、筆者撮影)。

 同日、テルメズ(ウズベキスタン)とアフガニスタンを結ぶハイラタン内陸港(写真⑧)も訪問した。2010年当時、ハイラタン港には鉄道が敷設されており(写真⑨)、アフガニスタンの貿易を支えている様子が看取された。

↑写真⑧ ハイラタン内陸港の様子(2010年4月7日、筆者撮影)

↑写真⑧ ハイラタン内陸港の様子(2010年4月7日、筆者撮影)

↑写真⑨ ハイラタン港からマザーリシャリーフ近くまでを結ぶ鉄道(2010年4月7日、筆者撮影)。

↑写真⑨ ハイラタン港からマザーリシャリーフ近くまでを結ぶ鉄道(2010年4月7日、筆者撮影)。

 その後、私は2013年までアフガニスタンで勤務し、日本帰国後、現在まで研究者・実務家として、思えば20年近くアフガニスタンと関わりを持っていることになる。今思い返せば、アフガニスタンの人たちと話したこと、現地で見聞したことが、自分の血となり肉となっているように思う。とりわけ、初めての北部旅行の記憶は、未だに鮮やかだ。
 この他にも、私は赴任中に、東部ナンガルハール州、西部ヘラート州、北東部バダフシャーン州などを訪問したが、これらの経験から、アフガニスタンが置かれた地理的条件やそこで暮らす人々の行動様式というものが、同国の政治、経済、社会、外交などの諸側面に多大なる影響を及ぼしていると考えるようになった。まさに百聞は一見に如かずである。

(2023年8月9日記)
(了)

書誌情報
青木健太「《エッセイ》アフガニスタンと私」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, AF.2.04(2023年8月10日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/afghanistan/essay01/