アジア・マップ Vol.01 | バハレーン

《総説》
バハレーンという国

堀拔功二(日本エネルギー経済研究所中東研究センター・主任研究員)

1.バハレーンの成り立ち
 バハレーン王国(Kingdom of Bahrain、以下バハレーン)はペルシア湾の南側に浮かぶ島国である。国名はアラビア語で「二つの海」を意味している。バハレーン本島を含む33の島から構成されており、国土面積は786.5平方キロメートル(仙台市とほぼ同じ面積)である。周囲をサウディアラビア、カタル、イランに囲まれている。周辺の湾岸諸国と同様に君主制を敷いており、また規模は小さいが石油と天然ガスを産出している。なお、日本では外務省が「バーレーン」という表記を用いているが、ここでは『岩波イスラーム辞典』の表記に倣う。首都はマナーマで、旧市街の中心部に位置するバハレーン門は、街のシンボルのひとつである。

 バハレーンの歴史は古く、古代ディルムン文明の遺跡や古墳群、ポルトガルが建設した要塞などが見られる。現在の支配家系であるハリーファ家は、1783年からこの地を治めてきた。オスマン帝国やペルシア帝国、マスカト(オマーン)、ポルトガルなどからの干渉を受けながら、1861年に英国の保護領になった。1932年に石油が発見されると、湾岸諸国の中ではイランに続いて石油生産を開始し、周辺諸国から多くの労働者が集まる国となった。その後、1968年の英国の中東撤退宣言を受けて独立に向けた動きが加速し、一時はカタルや休戦諸国(現UAE)と一つの国家を作ろうとしたものの、交渉は決裂した。またイランからバハレーンの領有が主張されたものの、1971年8月15日に独立を果たした。

 2021年統計によると、バハレーンの全人口は1,504,365人で、そのうちバハレーン人は719,333 人、外国人は785,032 人となっている。バハレーン人の6割前後がシーア派であると考えられており、シーア派とスンナ派の人口比や政治的・経済的な格差が社会不安の原因となってきた。公用語はアラビア語であり、国教はイスラームである。しかしながら、周辺の湾岸諸国と同様に外国人人口が多いため、英語が事実上の共通語として用いられている。またキリスト教徒や、ごく少数ながらもユダヤ教徒が歴史的に存在してきた。

(写真1:旧市街のスーク近くにあるバハレーン門)

(写真1:旧市街のスーク近くにあるバハレーン門)

2.政治と社会の仕組み
 バハレーンは世襲の立憲君主制の国であり、憲法(1973年に発布、2001年の国民投票を経て2002年に改正、2017年に修正)によって政治体制が規定されている。国の統治は支配家系であるハリーファ家が中心となっており、王位はハリーファ家のなかで世襲されている。憲法の規定ではイーサー・ビン・サルマーン・アール・ハリーファから最年長の息子のハマド・ビン・イーサー(現国王)に引き継がれ、それ以降も王位は原則として長子に引き継がれていく。国王が国家元首であり、その権限は憲法第33条によって詳細に規定されている。これまで、首相や内相などの重要な閣僚ポストにはハリーファ家のメンバーが就いてきたが、近年ではその傾向が薄れてきている。なお、ハリーファ家を含む支配体制側はスンナ派に属しており、国民人口の過半数以上を占めるシーア派に比べて政治的・経済的に優遇されているとの批判は根強い。2011年の「アラブの春」が起きた時、バハレーンではシーア派の民衆を中心に政治改革を求める声が高まり、治安部隊と衝突して多数の死傷者が発生した。

 バハレーンでは国王および議会の両方が立法権を有しており、議会と選挙制度が重要な意味をもっている。議会は1973年に設置され、一時的に解散・停止されていたものの、2002年に再開された。上院にあたる諮問院と下院にあたる代議院から成る二院制で、それぞれの議員定数は40議席、任期は4年である。諮問院議員は国王によって任命され、代議院議員は直接選挙によって選出される。ただし政党活動は許されておらず、政治的・宗教的なグループが事実上の政党としての機能を有している。2002年の第1回代議院選挙以降、2022年までに6回の選挙が行われた。

 バハレーン人口の半数は外国人であり、短期滞在の出稼ぎ労働者が多数である。もともと人種的・文化的に多様な社会であり、隣国のサウディアラビアに比べても開放的な雰囲気であることから、外国人にとっては住みやすい国として評価されている。

(写真2:シーア派住民の集まる地区。後ろに見えるのは建設中のバハレーン世界貿易センタービル ※2007年撮影)

(写真2:シーア派住民の集まる地区。後ろに見えるのは当時建設中であったバハレーン世界貿易センタービル ※2007年撮影)

3.対外関係の特徴
 小国であるバハレーンは歴史的に外部からの介入を招きやすく、湾岸諸国のなかではシーア派の存在による政治・社会不安を抱えている。また周辺国に比べて資源収入は少なく、周辺諸国からの資金援助や外国資本の投資を必要としている。そのため、同国にとって安定的な対外関係の維持は重要な課題である。

 特に隣国のサウディアラビアに対しては外交・安全保障・経済において従属的な立場にあり、大きな影響を受けやすい。両国は全長25㎞の連絡橋「キング・ファハド・コーズウェイ」で結ばれており、バハレーン国内ではサウジ通貨も使用可能である。2011年の「アラブの春」に際して、バハレーン国内で反体制活動が活発化して国内治安が不安定化した。この時、湾岸協力会議(GCC)は統一軍「半島の盾」としてサウディアラビアとUAEの治安部隊をバハレーンへ派遣した。また2017年に湾岸地域の外交問題としてカタル危機が発生した際、バハレーンはサウディアラビアやUAEに先立ってカタルに対する断交に踏み切った。一方で、同じ隣国でもカタルとは歴史的な対立関係にあり、またハワール諸島をめぐる領有問題(国際司法裁判所で解決済み)やアル=ジャズィーラ放送の報道内容をめぐる摩擦もあった。先述の対カタル断交は2021年に一応の解決をみたものの、両国が国交を正常化させるのには、さらに2年間もの時間が必要になった。

 シーア派大国である対岸のイランは、バハレーンにとって最大の脅威である。イランはこれまでにも、歴史的な領有を主張したり、国内シーア派住民への支持を表明したりするなど、バハレーン情勢に様々なかたちで「介入」してきた。2011年の国内騒乱の際には、イランはバハレーンのシーア派住民に対してモラルサポートを行った。バハレーン当局は騒乱の盛り上がりの背景にイランによる直接介入があったことを疑ったが、2011年11月に発表された独立調査委員会の調査報告では、その事実は否定されている。

 バハレーンは西側諸国とも緊密な関係を維持している。1971年に英国から独立してからは、米国との外交・安全保障関係を深めた。バハレーンには米国第5艦隊司令部が置かれており、米国にとってはカタルのウダイド空軍基地に並び、中東における重要な戦略拠点として機能している。また英国は2018年に海軍基地を設置し、再びペルシア湾へ戻ってきた。なお、日本の海上自衛隊は情報収集・調整の観点から連絡員をマナーマに駐在させている。

4.経済とエネルギー
 バハレーン経済は、古くは真珠採取や貿易によって成り立っていたが、1932年の石油発見により、周辺国のなかではいち早く石油産業が急成長を遂げた。ところが、バハレーンは石油や天然ガスの埋蔵量が少なく、1970年代には早々に生産量のピークを迎えることになる。そのため、バハレーンは早くから経済多角化を目指さざるをえなかった。

 1975年にレバノン内戦が勃発すると、ベイルートにある国際的な金融機関はバハレーンへ移転した。それにより、同国は一躍中東の金融センターへと成長したのである。ただし、その後は近隣のドバイも経済特区の創設と金融機関の誘致に力を入れたため、2000年代以降は中心的な地位を奪われた。また製造分野では安価な電力価格を利用したアルミ精錬で競争力をもっており、アルミニウム・バハレーン(Alba)社は世界的にも有名な企業に成長した。この他、観光部門にも力を入れており、F1バハレーン・グランプリなどのイベントを開催している。

 とはいえ、エネルギー部門は今日においてもバハレーン経済・財政にとって重要な意味を持っている。現在、バハレーンの石油生産量は20万b/d程度で、そのうち7~8割はサウディアラビアと共有するアブー・サァファ油田での生産になる。また天然ガスおよび随伴ガスの生産量は年間で約2230億立方フィートになり、その大半は国内で消費されている。なお、石油・ガス部門はGDP(2022年)の16.9%、国家歳入(2020年)の72.7%に貢献している。最近では2018年にバハレーン沖で同国最大規模のシェール油ガス田が発見されたものの、本格的な開発は始まっていない。

 バハレーンでは改革派のサルマーン皇太子が経済政策を主導しており、2000年に立ち上げられたバハレーン経済開発委員会(EDB)が経済特区の創設や規制緩和などを打ち出している。EDBは2008年に「バハレーン経済ビジョン2030」を発表し、2030年までに すべてのバハレーン人世帯の可処分所得を2倍(実質値)に引き上げる数値目標を示した。このビジョンでは、経済発展を支えるために公共部門や社会改革も目指すとしている。

(写真3:マナーマ郊外では石油生産の様子が見られる)

(写真3:マナーマ郊外では石油生産の様子が見られる)

5.日本との関係
 日本はバハレーンが独立する前から経済的な交流を持っている。バハレーンは1934年に石油を初めて輸出するが、その相手国は日本であった。1971年の独立後、日本はバハレーンを国家承認し、翌1972年5月に国交を樹立した。その後、日本は1983年にマナーマに大使館を設置し、バハレーンは2005年に東京に大使館を設置した。少ないながらも要人往来はあり、日本側からは2013年に安倍晋三首相がバハレーンを訪問し、バハレーン側からは2012年にハマド国王が来日している。なお、2022年には国交樹立50周年を迎えている。

 バハレーンには2022年10月現在で143名の日本人が居住している。また日本企業は2021年10月現在で、製造や金融など19社が進出している。日本はバハレーンからアルミニウム製品や石油化学製品などを輸入している。

書誌情報
堀拔功二「《総説》バハレーンという国」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, BH.1.01(2023年6月2日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/bahrain/country/