アジア・マップ Vol.01 | ブータン

《総説》
ブータンという国

宮本 万里(慶応義塾大学商学部・准教授)

 ブータンはヒマラヤ山脈の東端に位置する仏教王国であり、面積38,394平方キロメートル、人口約77万人の多言語・多民族国家である。国土はヒマラヤ山脈東端の南斜面を覆うように広がるため、中国と接する北部高地の大山脈とインドと接する南側の低地で7000メートルにおよぶ標高差があり、国内の生態環境は多様だ。また、南北に走るいくつもの山脈と、氷河の融解水が生み出した複雑な河川システムが国土をさらに細かく分断したことで、谷ごとに異なるとされるほど多数の言語集団が形成されており、言語学者によればその数は19にのぼる。そのうち、国語であるゾンカと、東部の共通語であるシャルチョプカ、南部の共通語であるネパーリー、そして英語が主要な共通語となっている。そのうち文字を有する言語には、ゾンカ、英語、ネパーリーがある。民族的にはゾンカを母語とするチベット起源の人々をガロップ、シャルチョプカを母語や主な共通語とする人々をシャルチョップ、ネパーリーを母語や共通語とするネパールからの移住者をローツァンパなどと大まかに区別して呼ぶことも多い。

〈経済と外交〉
 古くはチベットと交易し、米や麦、薬草、織布などをチベットの塩や茶、鋳物などと交換したが、中国の統治下に入ったチベットとの国境を封鎖し、インドと経済協力協定を結んだ1960年代以降は、森林資源をインドへ輸出するほか、豊富な水資源と標高差を生かして水力発電施設を建設し、その電力をインドに売ることで外貨を得てきた。また1970年代に開始された観光産業も重要な外貨収入源であり、1980年代の航空会社設立と1991年の民営化を経て、宿泊施設の整備やガイドの育成、観光資源の開発に力を入れてきた。農業は国の基幹産業であり、人口の約6割が農牧業に従事し、自家消費用の穀物生産や乳製品生産の傍ら、小規模な商品作物栽培の導入や酪農業への移行が経済開発の一環として進められている。
 インド政府と経済協定を結んだ1959年以来、ブータンの経済は全面的にインド政府の援助に依存しているが、1971年に念願の国連加盟を果たすと、1980年代には南アジア地域のネパールやバングラデシュのほか、北欧諸国や日本などと外交関係を確立し、援助国の多角化を図ってきた。一つの主権国家として国際社会に認められたことで、ブータンはグローバルな価値を取り込みつつ自らの立ち位置を模索しはじめ、現在に至るまで環境保護への貢献などに対して様々な賞を受賞している。

〈仏教の浸透〉
 チベット仏教で第二の仏陀とも呼ばれるパキスタン生まれの偉大なヨーガ行者グル・パドマ・サンバヴァは、現在のヒマラヤ仏教圏に大きな足跡を残しており、ブータンもその代表的な聖地の一つである。グル・パドマ・サンバヴァ(通称グル・リンポチェ)は、8世紀に中央ブータンの王に招かれたのを契機にブータン各地で瞑想し、土地の悪霊も多数調伏したとされる。グルを開祖とする教えは後に古派を意味するニンマ派と呼ばれ、ブータンに広く根付くようになる。
 仏教国としてのブータンが成立したのは、それからしばらく後の17世紀のことだ。この時期にカギュ派の分派ドゥク派の座主シャプトゥン・ンガワン・ナムギャルが、チベット内の政争に敗れてブータンへ亡命し、チベットから攻め入る軍を掃討しつつブータン国内で政治的影響力を高めた。シャプトゥンは聖俗両界の長となり、その下に宗教界の長(ジェー・ケンポ)と世俗界の長(ドゥック・デシ)をおくチョシ制度を敷くと、各地に僧院兼城砦(ゾン)を築き、中央集権的な統治システムを構築した。しかし、仏教の転生制度により選出されたシャプトゥンの後継者やデシらは、徐々に実質的な統治権力を失って形骸化し、19世紀までには各地の地方長官が覇権を競い合うようになっていた。

ゾンのチェチュ1(2010年)

ゾンで行われるツェチュ祭の風景(2010年)

行政府と僧院を兼ねたゾン(2010年)

行政府と僧院を兼ねたゾン(2010年)

〈王権と開発理念〉
 19世紀半ばに中央ブータンで地方長官となったジクメ・ナムギャルは、国内の対抗勢力を掃討しつつ力を蓄え、その息子ウゲン・ワンチュクは、1907年に聖俗両界の代表者らに推される形でワンチュク王制の初代国王となった。第2代国王ジクメ・ワンチュクが中央集権体制を整えると、第3代国王ジクメ・ドルジェ・ワンチュクは、中国支配下に入ったチベットとの国境を封鎖してインド政府の経済協力を受け入れることを決め、国境と首都を結ぶ自動車道路の建設を開始し、五ヵ年計画を導入した。教育や医療の普及と自動車道路の敷設に力を注いだ第3代国王は、のちに「ブータン近代化の父」として知られるようになる。
 しかし、1970年代初頭に戴冠した第4第国王ジクメ・センケ・ワンチュクは、経済開発の過程で流入した外国人労働者への対応、伝統文化や自然環境破壊への対処、インドからの政治経済的自立など、山積する課題への対応を迫られるなか新たな方向へとブータンを導くことになる。1980年代末には文化及び環境保護の名目で開発の速度をスローダウンすることを検討し、それに伴いインド系労働者の解雇を進めたほか、南部で既にマジョリティーとなっていたネパール系住民の多くを不法滞在者とみなし、国外退去処分を進めた。その結果90年代初頭には10万人近いネパール系住民が国外へ流出して難民化し、国際社会から強い非難を浴びた。
 開発の抑制は環境主義の採用を促し、それはブータン独自の開発政策を生み出すことにもつながった。森林保護や生物多様性保存を目的とした国立公園などの自然保護区は1990年代から拡張を続け、2008年には国土の5割を占めている。また、第4代国王は、70年代から国の豊かさを国民総生産や国内総生産といった物質的経済的な尺度ではなく、国民一人一人の幸福感で計るべきとする開発理念を提唱しており、2000年代にはそれが開発政策として具体化されていく。国民総幸福量(GNH: Gross National Happiness)と名づけられたこの開発理念は、フランスやアメリカなどのOECD諸国でも注目を集めるようになり、2011年の国連総会では「幸福:開発の全体論的アプローチへ向けて」が採択され、その後ブータン政府が主導的な役割を担う形で「国際幸福デー」が設立(2013年)された。
  このように、環境主義国や幸福大国として国際的な認知を得てきたブータンは、90年代に難民問題を引き起こしつつも、長期にわたって比較的安定的な国家運営をおこなってきた、南アジア地域でも数少ない国の一つである。ブータンの政治的な安定性の背景には、ワンチュクの王たちによる親政が比較的うまく機能してきたことがある。しかし、第4代国王は、その治世において民主化の必要を認識しており、2004年に憲法草案を用意すると、2006年には自ら退位して王位を息子に譲り、2008年には新国王の下で普通選挙を実施し、二大政党制による議会制民主主義への移行を進めた。「民主立憲君主制」を謳う新憲法のもと、これまで通算3回の国政選挙が実施されているが、毎回新政党へ政権が移行しており変化が絶えない。そのため、国家としての政策の一貫性や国民の一体性を担保する要として、国王は未だ不可欠な役割を果たしているといえそうだ。

自然保護NGOの会合に集まる女性たち(2005年)

自然保護NGOの会合に集まる女性たち(2005年)

初めての国政選挙(2009年)

初めての国政選挙(2009年)

〈信仰と文化〉
 先に述べたように、仏教僧によって統一されたこの国では、政治、経済、社会、文化、全ての領域において仏教の影響は大きい。憲法において仏教は「国の精神的遺産」と位置付けられており、国家行事の多くが仏教儀礼を組み込んだ形で実施され、ツィプと呼ばれる暦博士たちが作成するブータン暦は仏教の聖日や聖月における行動制限を明記するなど、人々の生活の隅々に影響を及ぼしている。仏教僧には、僧院内で厳格な規律をまもって暮らす出家僧と村落社会に生きる在家僧(ゴムチェン)がおり、両者が一体となって村落地域の日常的な信仰実践を支えてきた。また、仏教の宗教実践は、長らくボン教の呪術師や地域の世襲司祭などが司る自然神崇拝と共存してきたが、呪術師の後継者不足や動物供儀に対する忌避感が広がるなか、呪術の生きる場所は徐々に狭くなり、豊かで多元的なブータンの信仰世界は、仏教という一つの価値体系によって一元化されつつある。
 ブータンの村落社会は、しばしば仏教寺を中心に形成されていることが多く、寺では年に一度盛大な祭りが開かれる。祭りでは在家僧が中心となって仏教の教義や伝承に基づく仮面舞踊が披露され、人々は神々の住む世界を垣間見ることができる。チャムと呼ばれるこれらの踊りは、現在までにブータンの重要な観光資源となっている。

ボン教の呪術師による祈祷風景(2005年)

ボン教の呪術師による祈祷風景(2005年)

村祭りの風景(2005年)

村祭りの風景(2005年)

書誌情報
宮本万里「《総説》ブータンという国」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, BT.1.03(2023年9月24日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/bhutan/country/