アジア・マップ Vol.01 | カンボジア

《エッセイ》カンボジアと私
バッタンバンにて

馬場 多聞(立命館大学文学部・准教授)

 私がはじめてカンボジアへ渡航したのは、2016年のことであった。イエメンの中世史に関する論文で学位を取得したが、仕事が見つからない日々が続いた。そのようななか、アルバイト先の農学部の先生より「カンボジアへ飛ばないか」と打診されたため、二つ返事で引き受けた。仕事内容は、すべてが確定した後に徐々に理解することになったのだが、小規模農家の経済状況の調査を行うというものであった。畑違いのことをしてきた私に務まるのだろうかという不安よりもむしろ、新しいことに挑戦できるというわくわく感の方が大きかった。

 数度の短期出張の後、2017年4月から2019年3月まで、カンボジア北西部のバッタンバンという都市にアパートを借りて滞在した。バッタンバンはバッタンバン州の州都であり、アンコールワットで有名なシェムリアップから車で2~3時間のところに位置する。人口規模では、国内第三位の都市と言われる。日本ではあまり知られていないが、観光スポットが周辺に点在することもあって、特に欧米系の外国人旅行者が絶え間なく訪れている。乾季には最高気温が40度を超える常夏の地域であり、その過酷さゆえに体調を崩す外国人もいた。幸いなことに私自身はどうやら暑さと湿度には強かったようで、毎日自転車を90分ほどこいでいたが(アパート-職場:往復60分、職場-食堂:往復30分)、食事でお腹を壊すことこそしばしばあれども、気候が原因で寝込むことはついになかった。むしろ連日の自転車通勤のおかげで、人生でもっとも引き締まった肉体を有するに至ったほどであった。

 仕事として、のべ300件を超えるバッタンバン州の小規模農家や関係する諸機関を訪問し、質問票をもとに調査を行った。もっとも実際にインフォーマントから情報を得るのはクメール語を話すカンボジア人の同僚や雇用したアルバイト学生であり、私は必要経費の積み上げや得られたデータの分析に従事した。しばしば調査先に同行して調査状況の確認を行ったが、フィールドで私が直接的な戦力になることはなく、質問票の確認のほかは、農家の子供と遊んだりアヒルと戯れたりして過ごしていた。アルバイト学生からは、「馬場の仕事は子供と遊ぶことだ」と言われる始末であった。しかし実際に農村を訪れて農家の様子を観察するなかで、人々がどのように暮らしているのか、どのような点が問題なのかということを、肌で感じることができた。この時の経験は、得られたデータをもとに論文を執筆したり、農林水産省などに調査結果を報告したりする際に、大変に役に立った。

 仕事を離れれば、バッタンバンの一帯を自転車をこいでまわった。特に興味を抱いたのは、バッタンバンにおいて仏教とキリスト教、イスラームが混在しているように見えた点である。上座部仏教の国として知られるカンボジアらしく、バッタンバンでも仏教寺院がここかしこに建てられており、私は毎日隣の寺院からスピーカーを通してきこえる読経で目を覚ましていた。しかし市場へ行くと、髪が見えないようにヴェールをかぶった年配のイスラーム教徒の女性が魚を売っている場面に出くわした。また街中から外れたところにある集落では、これら三宗教の施設が近距離で建てられており、それぞれの教徒がほとんど同じ空間で生活を営んでいた。イスラームのモスクでは、仏教のお経をバックミュージックに、クルアーンを読むためのアラビア語が子供たちに教授されていた。それぞれの施設の指導者に「他宗教の活動が気にならないのか。追い出したいなどと思わないのか」と思い切って尋ねてみたが、答えはまるで予め三者で打ち合わせていたかのように、「気にならないし工夫もしている。私たちは共に生きてきたし、これからも生きていく」というものであった。ここでいう工夫とは、イスラームにおいて重要な金曜日の午後には仏教のお経を流さないようにする、といった取り決めのことを指す。仏教徒が圧倒的な多数派であるというカンボジア国内の宗教のパワーバランスが影響してはいるだろうが、平和的な共存のひとつのかたちがここに現れているように感じた。同時に、宗教は対立するものであるという思い込みに私自身が支配されていたことを思い知らされることにもなった。

 京都へ移った現在でも、カンボジアとの関わりは続いている。滞在時につながった日本人やカンボジア人の研究者とともに、カンボジアの伝統食品やSDGs型農業の在り方を模索する共同プロジェクトに参加している。コロナ禍にあってしばらく渡航できていないものの、カンボジアを再訪する機会はこれからもいくらでもあるだろう。カンボジアがどのような未来へ向かって行くのか、共に見届けたい。

農村の双子

農村の双子。この農村ではほかにも三組の双子が見られた。

ムスリムの子供たち

ムスリムの子供たち

モスク付設のアラビア語学校

モスク付設のアラビア語学校

書誌情報
馬場多聞「《エッセイ》カンボジアと私」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, KH.2.03(2023年4月25日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/cambodia/essay01/