アジア・マップ Vol.01 | 中国

《総説》
中国という国

中川涼司(立命館大学国際関係学部・教授)

  まず、「中国」とは何を指すのかについて述べておきたい。
「中国」は今では中華人民共和国(People's Republic of China)のことを指し、英語ではChinaであるという認識が一般的である。しかし、そのようになったのはそんなに古いことではない。易姓革命(えきせいかくめい、徳を失って天から見放された前王朝を廃することは、天の命を革(あらた)める行為である、として政権交代を正当化する思想)の考え方もあり、中国では古代から王朝名はあっても、それらを貫く国家名はなかった。中原の統一国家であった「秦」が引き続き使われたり、あるいはそれから派生したともいわれるChin、China、支那あるいは、中華思想に基づく中華というような言い方がされたりすることはあったが、国家名ではなかった。

兵馬俑

秦の始皇帝の墳墓(西安)にある兵馬俑
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 「中国革命の父」とも呼ばれ、後に1912年の中華民国(Republic of China)の成立により臨時大総統となる孫文(そん・ぶん、SunWen、孫中山、Sun Zhongshanとも)ですら、当初は国号としては支那共和国を想定していた。このような状況の中で日本への留学経験もある思想家であった梁啓超(りょう・けいちょうLiang Qichao)は1901年に『中国史叙論』において「吾人がもっとも慙愧にたえないのは、我国には国名がないことである」とし、唐や漢は王朝名、支那は外国人の使用する呼称、中国・中華は自尊自大の気味があるとしながら「やはり吾人の口頭の習慣に従って『中国史』と呼ぶことは撰びたい」とした。このような提唱の中で少なくとも中国国内的には「中国」がある程度定着し、1919年10月10日、孫文は中華革命党を改組して中国国民党を結成した。1921年に同国で結成された共産党も中国共産党と命名された。また、梁啓超は中国という国家名と合わせて「中華民族」の概念も提唱しているように、「中国」は漢民族の国家ではなく清国の領土を継承し、民族的には漢族、蒙古族、満州族、チベット族、ウイグル族などを包括したものであることも意味した。1911年に辛亥革命が成功し、1912年に中華民国が成立し、その国際的認知度も上がっていった。特に、1943年のカイロ宣言に蔣介石(しょう・かいせきJiang Jieshi あるいはChiang Kai-shek)中華民国国民政府主席が会談に参加して署名を行い、さらにそれがポツダム宣言にも継承された。さらに1945年に結成された国際連合において中華民国は常任理事国となった。このようなことを受け、日本政府は公式文書から支那という言葉を排除し、中華民国の正式国号を用いるようにした。その中で中国=中華民国の略称となっていった。

 しかし、その状態は1949年の中華人民共和国の成立と中華民国の実効支配地域が台湾に限定されてしまったことで複雑化する。ここで二つの「中国」が並立するようになる。中華民国と国交を持っていた日本政府は中華人民共和国を略称として中国とは呼ばず、「中共」と呼んだ。しかし、1971年に中華人民共和国が国連の代表権を獲得し、中華民国が脱退、さらに、1972年に田中角栄首相の訪中により日本と中華人民共和国との間で国交が成立し、逆に日本と中華民国とは(実質的な交流関係を残しつつも)公式的には断交した。1979年にはアメリカと中華人民共和国の間でも国交が成立した。中華人民共和国は中国を代表する唯一合法政府となり形勢は逆転した。今でも台湾内には中華民国の意味での「中国」を冠した会社名などが多く存在する。しかし、対外的には中華民国政府は「中国」を使用しにくい状況となった。中華民国政府は正式国名は変更しないまま、オリンピックをはじめ、各種の国際組織・団体への参加を行うための妥協策として、あるいは、製品の製造地表記として中国大陸と区別するため、そして、また自らの台湾化政策の進行の中で「中華台北」(Chinese Taipei)や「台湾」(Taiwan)を使用するようになった。2002年には「台湾・澎湖・金門・馬祖独立関税地域」としてWTO(世界貿易機関)にも正式加盟している。このようにして、「中国」=China=中華人民共和国の略称、ないし、歴史的には現在の中国の地域に成立した国家群の総称としての意味が定着するに至っている。

 次いで中華人民共和国の歴史を概観しよう。
 1915年に中華民国成立後の民主主義と科学を中心とした新文化の運動の過程として新文化運動が始まりマルクス主義も中国に普及するようになった。1919年パリ講和会議のベルサイユ条約の結果への不満から全国に広がった抗日・反帝国主義の五四運動(ごしうんどう)にマルクス主義勢力も参加した。そのような流れをうけ、1921年コミンテルン(国際共産主義組織)の主導により北京大学文科長の陳独秀(ちん・どくしゅう、Chen Duxiu)や北京大学図書館長の李大釗(り・だいしょう、Li Dazhao)、元北京大学図書館司書の毛沢東(もう・たくとう Mao Zedong)らが各地で結成していた共産主義組織を糾合する形で中国共産党が成立した。第1次全国代表大会(第1回党大会)は日本から帰国した李漢俊(り・かんしゅん、Li Hanjun)の上海の自宅で開催された。中国共産党は1924~27年において成立した中国国民党との間の第1次国共合作による北洋軍閥政府(北京にあった軍閥の合従連衡による中華民国政府を1928年に成立した南京の中国国民党を中心とする国民政府と区別してこのように呼ぶ)の打倒(「北伐」)、国共間の抗争、さらに1937年の第2次国共合作による抗日戦などを経て勢力を伸長した。

 第2次世界大戦が終わり共通の敵がいなくなることで、1945年10月に中国国民党を基盤とする国民政府と中国共産党との間で武力戦となったが、中国共産党がそれに勝利し、1949年10月1日に北京にある天安門広場で中華人民共和国の成立が宣言された。その宣言を行い、国家主席に就任したのは毛沢東であった。

北京の天安門

北京の天安門とそこにかかる毛沢東の肖像画
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 建国当初は非共産党員の民主党派の政治指導者も少なくなく、毛沢東も「新民主主義」を標榜して、社会主義化は緩やかに行われるはずであった。しかし、その状況は国内外環境の変化とともに変わっていく。まず、1950年に中国人民志願軍が朝鮮戦争に参戦、米軍を中心とする「国連軍」と戦うこととなったため、1953年の休戦協定締結後、中国は国連による禁輸措置を受けていくことになった。毛沢東は「向ソ一辺倒」(こうそいっぺんとう)政策を採り、ソ連の援助に依拠しつつ、1953年夏の全国財政・経済活動会議において社会主義改造と社会主義工業化を成し遂げるいわゆる「過渡期の総路線」を提起し、社会主義化を急速に進めた。また、政治的には毛沢東は1956年5月に百花斉放・百家争鳴(ひゃっかせいほう・ひゃっかそうめい)の方針を出し、共産党自身の改革をも進めようとした。しかし、そこでは予想を越えた反共産党的な主張も出され、また、国外のスターリン(1924~1953年のソ連の最高指導者)批判およびそれに続くハンガリー事件の発生等があり、方針を転換し、同年9月の第8期三中全会(第8回党大会後に開かれた第3回中央委員会総会のこと)において反右派闘争を提起した。これによって中華人民共和国成立当初政権に多く参加していた民主人士の多くがその地位を追われた。

 1958年に「過渡期の総路線」は加速化された。毛沢東ら指導部は当時世界第2位の経済大国であったイギリスをこれらの農工業の生産指標において15年で追い越す(後に「3年」に「修正」)という、壮大な計画を含む「大躍進」政策を開始した。当初は緩やかに行われていた農業の集団化も急速化し、1958年に人民公社化がチベットを除き完了した。しかし、「大躍進政策」の結果は悲惨であった。大衆動員による非近代的・非合理的増産運動は(土法製鉄に代表される)粗製品の生産、設備の酷使による消耗等によって増産に繋がらなかったばかりか、農村から大量動員をかけた事で、農業生産に悪影響を与えた。その時に日照りが襲ったこともあり、全国で2000~3000万人程度の餓死者が発生した。1960年には中ソ対立が激化、ソ連は技術者を引き上げ、建設・科学技術協力、物資供給のすべてを中止した。これも上記の事情をさらに悪化させた。毛沢東は1962年の工作会議(「7千人大会」)において自己批判を行い、政治権力は新しく国家主席となった劉少奇(りゅう・しょうき Liu Shaoqi)および共産党総書記となった鄧小平(とう・しょうへい Deng Xiaoping)らの主導性が強まった(毛沢東は党主席の地位は維持)。

 劉少奇、鄧小平による経済調整により、工業、農業とも回復がされていったが、そこで毛沢東はイデオロギー闘争を起こし、1966年に「プロレタリア文化大革命」が発動された。大学生、中高生による「紅衛兵」(こうえいへい Red Guards)やまた各地に公式政府と並んで成立した革命委員会によって劉少奇や鄧小平らの指導部が追い落とされただけでなく、医師や技術者などがブルジョア思想の持主として地位を追われるなど社会は混乱した。

 1968年に紅衛兵らが農村に下放(上山下郷運動)され、1969年に文革派が主導した中国共産党第9回大会が開かれることで混乱はやや沈静化したものの、その後も文革派(4人組)と反文革派の闘争は続いた。1976年に毛沢東が死去し、4人組は逮捕された。ここに悲惨な文化大革命(推計として死者40万人、何らかの巻き添えにあった人1億人以上)は終了した。

 計画経済期において中国は土地改革を実施、また基礎教育を普及させた。また、農業国から工業国への転換にも成功した。しかし、その成長スピードは日本や韓国には遠く及ばなかった。(韓国で朴正煕⦅パク・チョンヒ⦆が政権を掌握した)1961年時点で中国と韓国の1人当たりGDP(国内総生産)はかなり接近していた。それが韓国が急成長を遂げる中で、改革開放の始まる1978年には1:9.47の差がついた。日本との比で言えば1960年時点で1:5.38であったものが1978年には1:55.97(データは世界銀行による)にまで広がった。

 鄧小平は1977年7月の中国共産党第10期三中全会において党副主席・中央軍事委員会副主席、国務院副総理として復活し、権力基盤の無い華国鋒にかわって実質権力を掌握した。1978年12月に開かれた中国共産党第11期3中全会は改革開放路線(かいかくかいほうろせん、Reform and Door-opening Policies)の起点となった。改革開放とはすなわち、改革=市場化と開放=対外開放を結びつけるもので、国内で市場化を行うとともに、外国からの資本と技術を導入し、安価な労働力を利用して輸出を促進するという政策である。これらのために経済特区なども設けられた。この路線は成功した。しかし、限られた分野での改革であったことから、インフレや汚職を招き、それは1989年の第2次天安門事件(六・四事件The Second Tiananmen Square Incident)へとつながった。

 軍による民衆運動の鎮圧に対して国際的批判と制裁が強まるなか、鄧小平は1992年の「南巡講話」(なんじゅんこうわ、Southern Tour Lectures)により改革の全面化を唱え、翌1993年の憲法改正で「社会主義市場経済」が目指されることとなった。1997年からは朱鎔基(しゅ・ようきZhu Rongji)国務院総理による三大改革(行政改革、国有企業改革、金融改革)が実施された。2001年にはWTO加盟も果たした。2002年には三つの代表理論によって、中国共産党は脱社会主義化を進め、開発政党としての性格を強くした。かくして、2008年に中国のGDP(国内総生産)は4兆3270億ドルでドイツを抜いて(米日に次ぐ)世界第3位になった。2010年には日本を超えた。2030年ごろには世界最大になることが見込まれている。一人当たりGNI(国民総所得)でみると中国は依然として中所得国であるが、すでに1万ドルは超えており、高所得国に分類される日はそう遠くないと思われる。

 そのような経済大国化を背景に、対外政策も大きく変化している。かつて鄧小平は韜光養晦(とうこうようかい)政策を掲げ、能力を隠して実力を養うとして、国際秩序へは順応することが基本であった。しかし、2000年頃を境に、国際秩序を積極的に変化させ、主導権を握ることが方針化されている。とくに、2017年に提唱された「一帯一路」構想(いちだいいちろこうそうBelt and Road Initiatives)は中国の国際的な主導権を確立することを目指すものであった。これらを背景にアメリカとの間の米中対立も激しくなっている。

 なお、中華人民共和国の面積は約960万平方キロメートル(日本の約26倍)。人口は約14億人、民族は漢民族(総人口の約92%)及び55の少数民族。言語は中国国内では「普通話」と呼ばれ、国外では北京語とかマンダリンとかとも呼ばれる標準中国語があり、公共放送や学校教育では基本はそれによる。ただし、日常的には各地方言語が使われることも多く、主要な地方言語ではテレビ放送などもある。また、少数民族のために民族学校が設立されており(ただし、少数民族でも民族学校に通わないことは多い)そこでは、(言語が残っている場合については)少数民族の言語教育も行われている。

上海浦東地区の東方明珠テレビ塔と高層ビル群

上海浦東地区の東方明珠テレビ塔と高層ビル群
Photo by (c)Tomo.Yun http://www.yunphoto.net

書誌情報
中川涼司「《総説》中国という国」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, CN.1.01(2023年1月10日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/china/country/