アジア・マップ Vol.01 | 中国

《エッセイ》
中国と私

廣野 美和(立命館大学グローバル教養学部・教授)

 生まれた時から、中国は私と共にあった。共にあった中国を、内から、外から、そして日中間のトランスナショナルな視点から、アプローチのベクトルこそ変えてはきたが、魅力的かつ、多くの問題も抱える中国に対して、私の知的好奇心が衰えることは決してなかったし、これからもないだろう。中国研究、そして平和的な日中関係への寄与は、研究者としても一個人としても、自身のライフワークだと思っている。

 中国人の父と日本人の母の間に生まれ、小学校低学年まで、私は「楊美和」という名前の中国人だった。父は中国との貿易業を営み、数ヶ月に一度は中国に出張に行った。父の出張は楽しみで仕方なかった。目当てはお土産。帰ってくるなり父がお土産の入ったスーツケースを早く開けてくれるように、スーツケースの前に座り続けて催促した。お土産には中国の切手やお菓子などをたくさん買ってきてくれたが、お土産と同時にスーツケースを開けた時の中国の空気の匂いを嗅ぐのが好きだった。いつかこの国に行ってみたい。私の一部である中国。父の国、中国。東京で華僑の新年会や国慶節のお祝いに行くと、周りでは中国語が飛び交っていた。祝賀会のごった返しの中、大人の背広と背広の間に挟まれながら、頭上を飛び交う中国語の会話を聴いた。なんて素敵な言語。この会話の内容がわかるようになるように、将来絶対に中国語を勉強しよう。お土産にもらった天津甘栗の大きなパックを抱えながら、私はそう固く自分に誓った。

 この憧れの国の言葉を本格的に勉強し始めたのが大学1年生の頃だった。中国語の勉強が楽しくて仕方なかった。大学2年生と4年生の夏休みには北京で短期語学留学をした。初めて行った中国で、自転車をこぐものすごい数の中国人と、屋台の前でダイナミックに唾を吐いたり口論をしたり、押し合いへし合い人を引きずり下ろすようにしながらバスに乗り込んだりする中国人の姿を見て、私もそのバスの中に一緒になって飛び込んだ。何か物凄いパワーを感じながら、私もこの一部になりたい、本当の中国を理解したい、中国人のことをもっと知りたいと、私の興味関心はいよいよ高まるばかりだった。

1996年夏 中国短期語学留学にて 北京散策中の著者

1996年夏 中国短期語学留学にて 北京散策中の著者

 日中の狭間で生まれた私は、日中が歴史問題でいがみ合う姿に心を痛める一方で、日中間の人や物、アイディアの交流の豊かさに、何かしらの希望を感じた。歴史を振り返ってみれば、19世紀半ばにアジア各国が西欧列強の影響を大きく受けていたころ、東アジア間、特に日中間は、多くのアイディアが国境を超えて移動し、移動と共にアイディアの内実がアジア的な要素を取り入れながら変容していった。大学の卒論では、吉田松蔭が、中国から輸入した欧米の国際関係に関する書物を読んだ後、彼の近代日本の国家像がどのように変化していったかについて書いた。日中間の「トランスナショナルな視点」からの中国研究、東アジア研究であった。

 この研究を支えたのは、日中関係に希望を見出したいという気持ちだけではなく、国際関係理論への憧れと批判でもあった。実証研究を一般化させて、他の事象への関連を考えたり、理論的枠組みの構築に貢献したりする研究に、憧憬の念を持った。しかし同時に、国際関係理論が欧米中心主義的であることへの反発もあった。東アジアにおける「くに」「ひと」とは何を指し、どういう含蓄があるのか。いわゆる西欧初の国際関係理論から見ていただけではわかるはずはない、という信念のようなものがあった。東アジアの国際関係を本当に理解するには既存の国際関係理論では無理なのではないか、東アジアの平和を考えるのであれば、アジアから国際関係の基本概念一つ一つを問い直していかなくてはいけないのではないか、という問題意識があった。この問題意識のもと、博士論文では、中国の人々が、西欧発の国際関係の基本概念をどう理解し、どう相対してきたのかを、19世紀と21世紀で比較研究した。「内からの」中国研究である。

 とはいうものの、研究すればするほどわからなくなるのも中国である。何から何まで複雑すぎる。それは国の深みや歴史の長さによるものであると同時に、実際にデータをとったりフィールドワークでインタビューをしたりするのが至難の業であることにもよる。特に政府や党の関係者とは極めて困難だ。電話番号をようやく見つけて電話口の向こうにインタビューしたい相手がいても、「現在太忙了」でそのまま電話を切られたことも数えきれない。長い年月を重ねて信頼関係を築きあげていくことが必須の世界。そんな研究上の制約や、人間関係のあり方と共存してこその地域研究である。研究者としての力量だけでなく、人間力も試される。

中国社会科学院の先生と広西壮族自治区でのフィールドワーク中の路上で(2003年10月撮影)

中国社会科学院の先生と広西壮族自治区でのフィールドワーク中の路上で(2003年10月撮影)

 博士課程の時には、北京の中国社会科学院の訪問研究員となり、そこでの先生方には本当にお世話になった。毎週お昼をご一緒して議論をし、研究のアドバイスや文献の紹介をいただいた。しかし北京だけにいても中国はわからない。中国が国際関係の基本概念にどう相対してきたかを理解するには、フットワークを軽くして、さまざまな中国人の話を自分の耳で聞き、生活の様子を自分の目で見なければならない。中国社会科学院の先生は、数ヶ月にわたる中国少数民族地域でのフィールドワークに同行までして下さり、あの時の恩義は決して忘れるものではない。私が慣れるまでは社会科学院の先生と、慣れてからは自分一人でフィールドワークを行い、たくさん歩き、たくさん話し、たくさん食べ、たくさん飲まさせられた。

 博士論文を終えた後、初めて研究職に着いた2008年は、北京オリンピックの年だった。中国外交や中国企業・中国人による国外での活動がどんどん活発化していく時期だった。私も中国の足跡をたどり、中国が外で行う活動に、研究の焦点を移した。今は、大国となった中国の価値観が発展途上国にどのような影響を及ぼしているのか、また発展途上国において中国やその価値観がどのように利用されているのか、という「外からの」中国研究にシフトしている。千変万化の中国を追うのは至難の業であると同時に、その多種多面な様相は、いまだに魅せられたり驚かされたり心配したりの連続である。

 これからも、中国という大国を見つめて、その光も影も含めた現実の姿を追い続けていきたいと思っている。

2015年ネパール大地震の際の中国人道支援に対する認識調査(2017年カトマンズにて)

2015年ネパール大地震の際の中国人道支援に対する認識調査(2017年カトマンズにて)

書誌情報
廣野美和「《エッセイ》中国と私」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, CN.1.02(2023年1月10日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/china/essay01/