アジア・マップ Vol.01 | 中国

《エッセイ》中国の都市
「広州人」を愛おしく想う

宮内肇(立命館大学文学部)

 広州にはかつて競馬場があった。といっても、19世紀半ばの上海のそれとは異なり、鄧小平の南巡講話により、社会主義国家に市場経済が導入され始めた20世紀末のことである。その記憶は、いまでも多くの「広州人」の脳裏に刻まれているし、このことを知らない若者でも、「競馬場」と言えば、そこがどこなのかを知らない人はいない。

 広州競馬場は、1992年に建設が始まり、翌年に竣工、開幕後は週に3回、日中および夜間にレースが開催され、馬券も販売されたという。しかし、7年後にはその役目を終え、以後、自動車の展示場、レストランやスポーツ施設、大型家具店などに姿を変えるが、地元の人々は、あくまでこの場所を「競馬場」と呼ぶ。

【図1】広州競馬場のかつてのにぎわい
【図1】広州競馬場のかつてのにぎわい
出典:「期待“賽馬彩票”解放前、先得了解賽馬在中国近25年的商業史」百度百科Website、2018年3月。

 さて、私が広州で留学生活を送っていた21世紀の初頭、ある日の酒宴にて、談笑好きの先生がこの「競馬場」にまつわる話をされた。なぜ、広州に競馬場があるのかを知っているかと。改革開放を進める際に、広州の政府は中央に対して、これこれをしてもよいかと伺いを立てるのではなく、何をしてはならないのかを訊ねた。そして、その禁止事項に競馬場はなかったからなんだと。そのうえで、先生は「これが『広州人』の精神だな」と微笑みながら話を結ばれた。

 話の真偽はさておき、この話からは少なくとも「広州人」のしたたかさやたくましさが想像できよう。おそらく、この逸話の背後には、商売に長け、利益を重んじ、物質を重視するといった中国社会の「広州人」に対する心象があるように思われる。

 始皇帝により南海郡が置かれて以来、現在に至るまで、広州はその居所を移すことなく、一貫して<南>を向き海外との窓口を担ってきた。唐代には市舶司が置かれ、多くのアラビア商人が寄留し、北宋期には中国最大の港に成長する。清朝中期には粤海関が設けられ、中国唯一の西洋貿易港として繁栄した。人民中国以降は、中国輸出商品交易会の会場として改革開放以前の輸出商談を担ってきた。この街が「千年商都」と別称される所以はこうした歩みにある。つまり、交易・商業都市としての広州の歩みが、彼女/彼らに対する心象に帰着しているわけである。

 私が出会った「広州人」も大なり小なりこのことを誇りに思っている。また、この誇りは、記憶としてだけでなく、彼女/彼らの言語にも表出される。「広州人」の多くは日常的に広東語を話すが、この言語における「北方人」は、広東省以北に住む人々を指し、自己の同一性を強調する。これと同時に、多くの同郷が香港・澳門・東南アジアなど<南>へ向かって移住したこと、さらには世界各地に住む広東語話者の華僑・華人とのむすびつきを意識させる。すなわち、商業を通じて中国社会に富をもたらしたという記憶と、この記憶を広東語によって共有・継承してきた誇りが「広州人」たらしめているのである。

【図2】清朝末期の中国人画家が描いた「広東の外国商館」(油彩、1815年、Anthony Hardy所蔵)。
【図2】清朝末期の中国人画家が描いた「広東の外国商館」(油彩、1815年、Anthony Hardy所蔵)。
出典:ウイリアム・シャング『絵画に見る近代中国――西洋からの視線』大修館書店、2001年5月、77頁。

 2010年冬、第16回アジア競技大会が広州で開催されるに際して、中共広州市委員会は、標準中国語(普通語)の普及を進めるべく、在地のテレビ局に対し普通語による番組放送を増やすように意見する。これに「広州人」は反発した。市内で広東語を擁護する大規模な抗議活動を繰り広げたのだ。この出来事は、まさに為政者が「広州人」の忌諱に触れた行為であったわけだが、注目すべきは、彼女/彼らの抗議が、一部の香港市民に支持され、同地でもデモ行進が行われたことである。

 広州にとっての香港は、とりわけ改革開放以降、自らが豊かになるための大切な伴侶であった。ただ、それはビジネス・パートナーや投資者として大切であっただけでなく、少なくない香港市民の故郷が広州あるいは広東省内にあり、「広州人」の誇りを共有し広東語を操る同郷でもあったことを忘れてはならない。そして、「広州人」にとって香港の同郷は、自らよりもひと足先に豊かになった憧れの存在であった。広州競馬場の建設も、まさに憧れのハッピーバレーを広州にもという想いからだったのかもしれない。他方、香港の同郷は自身の故郷や出自を広州・広東に求めていた。両者は「広州人」の誇りを共通の文化的な資本として、中国南方の経済発展を牽引していたとも言い得よう。

【図3】2010年の広州でも広東語擁護運動
【図3】2010年の広州でも広東語擁護運動
(左図:広東語の楽曲を合唱する若者。右図:「広東語よ進め、普通語は引込め」のスローガンを掲げる青年。)
出典:「粤唱粤有愛:広州年軽人快閃撑粤語」『南方都市報』2010年7月12日(現在は閲覧不可)。

 ところが、近年、こうした「広州人」の<南>へのまなざし、広東語話者としての誇りに変化が生じているように思われる。

 改革開放以来の断続的な広州への外来人口の流入は、この街の生活言語を普通語に変えつつあるし、「広州人」同志の夫婦であっても子どもを普通語で養育するという話は、いまやさほど珍しいことではなくなった。中国全体の経済力の拡大により、「広州人」にとって香港はもはや豊かさの象徴ではなくなりつつあり、<北>を向くほうが魅力的になりつつある。むろん、強権化しているとされる体制との関わりも大きな要因であろう。一方、よき伴侶であった香港では、この間の危機が「香港人」意識を鮮明にさせ、大陸との断絶を希求する強烈な風潮があることは周知のとおりだが、これにより広東語話者としての「広州人」と「香港人」とのつながりも、少なくとも私には見えなくなっている。

 そして近年、最高指導者は広州と香港とを含む珠江デルタ地域に、東京やニューヨークの都市圏に匹敵する巨大な経済圏「大湾区」計画を進めている。違和感を覚えざるを得ない。

 いま、「広州人」は何を思うのか。いや、私が想う「広州人」はもうすでにいなくなってしまったのかもしれない。そのままのあなたでいてほしいと願うことは、自己本位でしかないことは承知している。それでも、私はあるべき「広州人」を愛おしく想う。

 (2023年6月)

書誌情報
宮内肇「《エッセイ》中国の都市(広州)」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, CN.4.03(2023年7月25日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/china/essay02/