アジア・マップ Vol.01 | 東ティモール

《総説》
東ティモールという国

亀山恵理子(奈良県立大学地域創造学部・准教授)

 東ティモール民主共和国は2002年に独立した若い国である。日本の岩手県とほぼ同じ15,006平方キロメートルの国土に130万人が暮らしている。北と南に長い海岸線をもつ一方で、国土の大部分は山地である。赤道近くに位置しており1年を通じて暑い気候だが、山地に行くと厚手の服を着ていなければ寒いほどの場所もある。人口の99パーセントがキリスト教を信仰しており、そのうち大部分の人々がカトリック教徒である。日曜日には礼拝に向かうなど日々の生活にはカトリックの慣習がみられる。同時に人々の暮らしの中には精霊信仰も息づいている。例えば、東ティモールの最高峰ラメラウ山(標高2986メートル)には亡くなった人の霊が集まると考えられており、毎年11月初旬のお墓参りの時期には普段より多くの人が登山する。

 東ティモールは小さな国であるが、複数の言語が話されている。まず、各地方に地方語が存在している。それぞれが独自の言語である地方語は東ティモールに30存在すると言われている。そのうちテトゥン語が東ティモールでは地域を越えてもっとも広く普及している。憲法で定められる公用語はテトゥン語とポルトガル語である。このほかにインドネシア語と英語が実用語とされている。これら4つの言語の存在には、16世紀から長年ポルトガルの植民地だったこと、1975年には隣国インドネシアに侵攻され24年間実効支配下におかれたこと、そして近い将来に独立することが決まった1999年から正式に独立国家となるまでの期間に国際連合が政府の代わりを務めたという東ティモールの歴史が反映されている。

東ティモール独立までの歴史

 先述のとおり、東ティモールはヨーロッパの大航海時代以降、長年ポルトガルの植民地だった。第二次世界大戦中には日本軍による侵略を経験し、日本の敗戦後は宗主国であるポルトガルが再び東ティモールを支配下に置いた。その後1974年にポルトガルで政変が起きると、東ティモールでも独立へ向けた機運が高まった。当時東ティモールでは3つの政党がつくられ、そのうち即時独立を求めていた政党フレティリン(東ティモール独立革命戦線)が1975年11月28日に独立を宣言した。だが1週間後に隣国インドネシアが軍事侵攻し、翌年にはインドネシアは東ティモールの併合宣言を行った。

 インドネシアによる侵攻から最初の3年間、東ティモールは戦争状態となった。インドネシア国軍はフレティリンと戦闘を繰り広げたのち、内陸部への掃討作戦を開始した。このときフレティリンだけでなく、多くの一般住民が危険から逃れるために山中へと向かった。1970年代後半にはフレティリンメンバーとそれらの住民の多くが投降した。投降後人々は「集住キャンプ」に住まわされ、移動の自由がない中飢餓が広がった。インドネシアによる侵攻から1970年代後半までの間に、当時の人口約60万人のうち10万人以上が命を落としたと言われている。

 このような事態に対して、国連総会は東ティモールの人々の自決権を支持し続けた。1975年12月の時点で国連総会はインドネシア国軍の即時撤退を決議した。その後も8年にわたって毎年同様の決議を行ったが、インドネシア政府が国軍を撤退させることはなかった。国連総会での決議は毎回圧倒的多数で可決されていたものの、アメリカ、オーストラリア、イギリス、日本など当時西側諸国の大国と言われた国々はインドネシア政府との関係を重んじて反対票を投じるか、投票を棄権していたのである。やがて東ティモール問題は国連総会で取り上げられなくなった。

 東ティモールへの渡航がインドネシア政府によって1989年まで制限されていたこともあり、東ティモールの中は長い間外の目に触れない状況が続いた。その間世界の関心を失った東ティモールの山中では、武器をたずさえたファリンティル(東ティモール民族解放軍)の兵士がインドネシア国軍と対峙していた。また、ファリンティルの抵抗運動を支える地下活動のネットワークが次第に築かれるようになった。インドネシア国軍は監視の目を向けるようになり、一般住民も暴力の対象となった。

 東ティモールに再び国際社会の目が向けられたのは、1990年代に入ってからである。1991年11月12日にディリ(現在の東ティモールの首都)で独立を求める若者たちの平和的なデモが行なわれ、その際インドネシア国軍がデモに対して無差別に発砲した「サンタクルス事件」が発生した。多くの死者や行方不明者が出たこの事件は海外のニュースで放映された。それから5年後の1996年にはノーベル平和賞が二人の東ティモール人に授与された。1998年にはインドネシアの政権が交代し、約1年後の1999年8月には国連の主導で独立の是非を問う住民投票が実施された。投票では78.5%が独立を支持した。

 その結果を受けて将来独立することが決まったものの、住民投票後急速に治安が悪化した。インドネシア国軍によって組織された東ティモール人民兵が、家屋のみならず、学校や役場、市場などの公共施設を襲撃し、放火する焦土作戦が行われた。人々は危険から逃れるために、山間部やインドネシア領であるクパンやアタンブアなど西ティモールの町に避難した。状況の悪化を受けて国連の安全保障理事会は多国籍軍(INTERFET)を派遣した。それによって治安は回復したものの、国土は荒廃し、多くの人が避難民となった。

 1999年10月には国連東ティモール暫定行政機構(UNTAET)が設置され、独立までの準備をすすめていくことになった。2年8ヶ月の間に国家としての機構的枠組みが整えられ、2002年5月20日に東ティモールは主権を回復し、正式に独立国家となった。

独立後の東ティモール

 主権回復後の東ティモールは、2006年に東ティモール国防軍内での待遇差問題に端を発した政治的危機に見舞われたものの、その後は騒乱が起きることなく今日に至っている。インフラ整備などの開発がすすみ、他国との二国間関係の構築にも力が入れられ、さらに2022年11月にはASEAN首脳会談の場でASEANへの加盟が原則承認された。

 一方で、国家として歩み始めてから20年が経った東ティモールには、いくつかの課題も存在する。経済面に目を向けると、東ティモールでは石油・ガス田開発以外にはめぼしい産業が育っていない。人口の約70%が農村部に暮らし、人々は自給自足的な農業で生計を立てている。そのような状況の中で、国の経済の牽引力となっているのは政府による公的支出である。ところが、政府の国家財政はオーストラリアとの国境に位置する石油・ガス田開発からの収入が約80%を占めている。2030年代半ばの資源枯渇が予測される中、天然資源に頼る経済運営を変化させていくことは重要な課題である。

 このほかにも、いかに紛争を記録し、記憶していくのかは、国家建設という側面だけでなく人々の心理的側面からも社会的な課題となっている。歴史の記録に関しては、受容真実和解委員会(2002年~2005年)が1974年から1999年までの人権侵害について東ティモール全国で調査を行った。受容真実和解委員会の元事務所は、現在は移行期正義のフォーローアップに取り組むシェガ・ナショナルセンター(2015年~)の事務所となっている。そこでは、各地で起きた虐殺やインドネシア時代の政治犯に関する解説など、人々がいかに傷ついたのかという歴史を知ることができる。

 他方、2005年に政府庁舎の近くにつくられた抵抗博物館では、いかに闘ったのかという歴史が展示されている。抵抗博物館は独立10周年にあたる2012年に大々的に整備が行われた。そこでは、ファリンティルによる抵抗運動や一般住民による地下活動がいかなるものであったのかが、モノや写真、映像を用いた展示とともに記録されている。ほかにも闘争を思い起こさせる記念碑が建立されるようになり、例えば東ティモールの玄関口であるニコラウ・ロバト大統領国際空港近くには、インドネシア時代に殉死したファリンティルの元司令官の像がつくられた。

 近年東ティモールでは、人々の苦難の歴史が独立闘争における貢献という文脈で語られ、退役軍人をはじめとする男性の経験に光が当てられる傾向がある。また、東ティモール政府とインドネシア政府の間では外交関係が優先され、「過去のことは水に流そう」という動きが存在している。だが、紛争期の直接的な暴力の経験や、身近な人を失う経験などにより心身に傷を負った人は東ティモールに多く存在する。そのような現実に向き合い、どのように紛争を記録し、記憶していくのかは、東ティモールのみならず国際社会にとっても責任ある課題である。

1980年代前半に多くの死者が出た集落の墓地

1980年代前半に多くの死者が出た集落の墓地

インドネシア時代に山間部から平地に住民を移動させてつくられた強制移住村

インドネシア時代につくられた強制移住村

東ティモール政府庁舎

東ティモール政府庁舎

首都ディリの町と沖合に見えるアタウロ島

首都ディリの町と沖合に見えるアタウロ島

書誌情報
亀山恵理子「《総説》東ティモールという国」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1,TL.1.02(2023年7月15日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/easttimor/country/