アジア・マップ Vol.01 | インド

《総説》
インドという国

中溝 和弥(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科・教授)

1.インドという国
インドとは、可能性の国である。2023年には中国を越えて世界第一位の人口を擁すると予測されているのみならず(注1)、その多様性においても世界一とされる(注2)。「多様性のなかの統一」を掲げてインドを率いた初代首相ネルーは、政治体制として民主主義を選択した。インドのように多様で、貧富の格差が大きい国に民主主義は定着しないという予想を裏切り、短期間(1975-77年)の非常事態体制期を除き、独立以来民主主義を維持してきた。近年では権威主義的傾向を強めていることから「選挙権威主義」に分類されているものの(注3)、「世界最大の民主主義」を誇る理由は確かに存在した。

1947年に独立したインドが取り組んできた課題は、 そのまま人類の課題であった。圧倒的な貧困と格差の克服、カーストや宗教など属性に基づく差別の解消、宗教間対立を乗り越えた共生の実現、これらの課題と取り組むために、世界に先駆けて展開した非暴力主義に基づく独立運動、独立後の民主主義の実践、社会主義的な経済政策の導入は、インドのあとに続いた新興独立国にとって一つのモデルであった。空前のスケールで実施された諸政策は、まさに壮大な実験であったといえよう。本コラムでは、その魅力の一端をお伝えしたい。

2.基礎的な情報
話の前提として、基礎的な情報を最初に確認しておきたい。国名、国土面積、人口、言語、宗教、カーストの順に説明していく。

(1)国名
インドの正式国名は、インド(India)もしくはバーラト(Bharat)と憲法に規定されている(注4)。インドの語源は、サンスクリット語のスィンドゥ(Sindhu)で、水流、水の豊かなところ、という意味である。これがペルシャ語、ラテン語、英語に伝わっていく過程で、インド(India)となった。これに対し、バーラトは、サンスクリット語文献に登場する神話的地理概念であり、今日のインドと同様の実体領域を指して国号とする国は存在しなかった(注5)。ヒンドゥー教色が強く表れた名称といえよう。

(2)国土面積
国土面積は、インド政府によれば328万7263㎢となり(注6)、日本の約8.7倍となる。隣国との間に係争地を抱えており、とりわけ、パキスタン、中国との間では独立後、現在に至るまでしばしば武力紛争の原因となっている。

(3)人口
人口は、最新の2011年国勢調査によれば12億1056万9573名であり、中国に次ぐ世界第二位の人口大国である(注7)。2001年から2011年の10年間の人口増加率は17.7%であり、先述のように2023年にはインドが中国を抜いて世界第一位になると予測されている。インドの国勢調査は英領植民地期から10年ごとに行われてきたが、2021年国勢調査はコロナ禍のため延期されている。

(4)言語
インドは世界でもまれに見る多言語国家である。連邦制を採用しているインドにおいて連邦の公用語は英語とヒンディー語と定められており、そのほかにもヒンディー語を含む22の言語が州の公用語として憲法第8附則に規定されている(注8)。当初、15年の経過措置の後にヒンディー語が連邦の唯一の公用語となる予定であったが、南インド諸州の強い反対運動を受け、現在の制度に落ち着いた。22の州政府公用語のうち、最大の話者人口を有するのはヒンディー語で5億2834万7193名となり、インド全人口の約44%となる。そのほかの21言語中、サンスクリット語を除く20言語の話者人口は100万人を超える(注9)。公用語以外も含めると、話者人口が1万人を超える言語は121確認されている(注10)。

(5)宗教
宗教構成も実に多様である。詳細は表1に記述した通りであり、最大の宗教集団がヒンドゥー教徒で約8割を占める。宗教的少数派のなかで最大の集団がムスリムであり、14%強となる。仏教発祥の国ではあるが、仏教徒は1%に満たない。「その他」には、インド最大のターター財閥創設者が属することでも知られるゾロアスター教徒(Parsi)等が含まれている。

表1 インドの宗教人口構成(2011年国勢調査)(注11)

宗教 人口 比率(%)
ヒンドゥー(Hindu) 966,257,353 79.8
イスラーム(Muslim) 172,245,158 14.2
キリスト教(Christian) 27,819,588 2.3
スィク教(Sikh) 20,833,116 1.7
仏教(Buddhist) 8,442,972 0.7
ジャイナ教(Jain) 4,451,753 0.4
その他 7,937,734 0.8
無申告 2,867,303 0.2
合計 1,210,854,977 100

(6)カースト
カースト集団も、宗教集団以上に多様である。基本的にヒンドゥー教の社会制度であるが、インドのムスリムはヒンドゥー教徒からの改宗者が多いため、ムスリムのなかにもカーストに類似したコミュニティが存在する。ここでは、ヒンドゥーのカーストに限って簡潔に解説したい。

まず構造であるが、ヴァルナとジャーティの二本立てとなる。ヴァルナは、いわゆる四種姓であり、バラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラから構成され、これらの下にアウト・カーストとしての不可触民が存在する。バラモン、クシャトリア、ヴァイシャは再生族とされ、アーリア社会の一員とされる。これに対してシュードラは一生族とされ、アーリア社会の成員とは認められない。

ジャーティはもともと「生まれ」を意味し、伝統的な職業と結びついた多様なコミュニティからなる。1990年代に調査を行ったインド人類学調査局によれば、全インドで2384のコミュニティを確認し、後述する後進カーストへの留保制度を検討した第二次後進諸階級委員会(通称マンダル委員会)報告は、非ヒンドゥー教徒を含む後進カーストとして3743のコミュニティを確認している(注12)。これらジャーティは、上に述べたヴァルナ位階と結びつき、行政・学術的には、再生族に分類されるジャーティは上位カースト(Upper castes)/先進カースト(Forward castes)とされ、一生族に分類されるジャーティは、後進カースト(Backward castes)とされる。不可触民は、苛烈な差別の対象となってきた歴史的経緯から憲法で地位向上のための優遇措置(留保措置)を取ることが明記され、対象となるカーストが指定されたため、指定カースト(Scheduled castes)とされた。これに併せて主に山岳地帯に居住する部族民も、指定部族(Scheduled tribes)として優遇措置が取られることになった。マンダル委員会報告による各社会集団の人口構成比は、表2の通りである。

表2 インドにおける社会集団ト構成(マンダル委員会報告)(注13)

カースト区分 カースト 人口比(%)
上位カースト Brahmins(Bhumiharも含む) 5.52
Rajputs 3.9
Marathas 2.21
Vaishyas/Banyas 1.88
Kayasthas 1.07
合計 14.58
中間カースト Jat他 3
その他後進階級
(OBC:Other Backward Classes)
Hindu OBCs 43.70
非Hindu OBCs (8.40)
合計 52.1
指定カースト(SC:Scheduled Caste)
指定部族(ST:Scheduled Tribes)
Scheduled castes 15.05
Scheduled Tribes 7.51
合計 22.56
非Hindu教徒 非Hindu教徒 Muslims 11.19
Christians 2.16
Sikhs 1.67
Buddhists 0.67
Jains 0.47
合計 16.16(-8.40)
総計 100

ただし、ヴァルナとジャーティの関係は、歴史的にも、現在においても固定的では決してなかったことに留意する必要がある。ここでカーストの機能的側面について説明したい。機能的観点からは、カースト制度は、三つの側面、すなわち、①身分制、②アイデンティティ、③利益集団、としての側面を持っている。日本では、①身分制としての側面を中心に理解される傾向にあるが、実際には、これら三つの機能が相互に関連し合い、時と場所に応じて強調される側面が異なっている。現在は、下層カーストに対する留保制度の恩恵を受けるために、ヴァルナ位階では下降を意味するにもかかわらず、後進カースト、指定カースト、指定部族への認定を求める運動が各地で起こっている。三つの側面のうち、③利益集団としての側面が強く表れている時代といえよう。

3.植民地支配の歴史
基本的な情報を押えた上で、植民地支配期の歴史を概観したい。イギリスが植民地支配を本格化させる18世紀中頃までインドを支配していた最大勢力は、イスラーム系のムガル朝であった。現在のアフガニスタンから侵攻してきたムガル朝は、16世紀に北インドを制圧したのち、第6代アウラングゼーブ帝の時代に南インドを含めた現在のインドをほぼ手中に収めた。しかし、アウラングゼーブ帝没後、後継者争いの内紛の過程でムガル朝は衰退し、ムガル朝の家臣が独自に自らの王国を設立する継承国家が各地に成立することとなる。イギリスの植民地支配は、ムガル朝弱体化の間隙を縫って展開された。

イギリスは1757年のプラッシーの戦いでフランスを角逐した後、1848-49年の第二次スィク戦争でスィク王国を破るまで、約100年をかけて征服戦争を展開した。この一つの帰結が、1857年に勃発した大反乱(いわゆるセポイの乱)であり、植民地支配崩壊の瀬戸際まで追い込まれたイギリスは、大反乱鎮圧後、統治体制を抜本的に見直すことになる。東インド会社に代わってイギリス本国政府が直接統治を行うようになり、新たに設置されたインド省がインド行政を統括することになった。

19世紀後半になると、インド人による政治団体設立の動きが各地で現れるようになる。これを統合したのが、1885年に設立されたインド国民会議派(Indian National Congress)である。結成当時は、会議を開いて決議を採択し、これに基づいて植民地政府に請願を行う穏健な団体であったが、20世紀に入ると徐々に反英色を強め、1920年にM.K.ガーンディー(ガンディー)が主導権を握ると大規模な民衆運動を組織して独立運動を展開するようになる。非暴力・不服従を柱とした民衆運動は、先進的な西洋近代文明批判とも相俟って、世界史で異彩を放った。ガーンディーの運動は、第二次世界大戦後も、アメリカの公民権運動、南アフリカの反アパルトヘイト運動に影響を与え、現在でも、環境運動、民主化運動の指針となりつづけている。

前代未聞のスケールで展開された独立運動を前に、イギリスは譲歩を余儀なくされた。段階的に自治を拡大していった到達点が1935年インド統治法であり、最終的にはイギリスの権力が貫徹する仕組みにはなっていたものの、州レベルではインド人による自治が行われる制度を構築した。これに基づいて行われた1937年選挙で、会議派は11州中8州で勝利を収め、政権担当の経験を積む。こうした非暴力主義に基づいた運動の展開と議会制への参加が、独立後の民主主義の定着に道を開くこととなった。

第二次世界大戦が終わり、いよいよ独立が射程に入り始めると、インド国民会議派とムスリム連盟の対立が激化する。独立国家の構想に関し両者の協議が難航するなか、1946年8月に当時のカルカッタでヒンドゥー・ムスリム暴動が発生した事件を皮切りに、暴力の連鎖が各地で起こり、独立交渉で合意する可能性を奪ってしまった。結局、ムスリム多住地域がパキスタン(現在のバングラデシュは東パキスタンとされた)、ヒンドゥー教徒多住地域がインドとして独立した。英領インドの独立は、権力委譲という形で戦争を伴わずに実現したものの、分離独立は、当時、史上最大とされた1500万人の難民、100万人と推計される死者という途方もない悲劇を生み出した。この経験は、インド、パキスタン両国にトラウマとして残っており、現在もなお印パ関係に暗い影を落とし続けている。

4.政治
独立インドは、議会制民主主義に基づいた連邦国家として出発した。現在、ナレーンドラ・モーディー(モディ)首相率いるインド人民党連立政権の下で、民主主義は危機に瀕しているものの、制度としては1975年から77年にかけての非常事態体制期を除いて民主制を維持してきた。いわゆる途上国のなかでは、希有な存在である。

インド民主主義を支えたのは、初代首相ジャワーハルラール・ネルーが率いたインド国民会議派による安定した支配であった。民主主義を社会主義、世俗主義(セキュラリズム)と並んで独立インドの理念として重視したネルーは、制度のみならず、政権の運営にあたっても合意を重視し、独立後の混乱のなかで民主主義を定着させることに大いに貢献した。しかし、娘のインディラ・ガーンディーが後を継ぐと、社会経済的変化への対応から「合意の政治」が壊れ、インディラ個人への権力集中が顕著に見られるようになった。非民主主義的な政権運営は、制度面でも、短期間ではあったが非常事態体制という権威主義体制を施行するに至る。彼女の暗殺を受けて急遽首相に就任した長男のラージブも、当初は政治経済改革を志向したものの、党内の抵抗を抑えることができなかった。彼一流の優柔不断さによりヒンドゥー至上主義の台頭に道を開くことになり、これが現在のインド人民党支配を生み出すことになった。

インドをヒンドゥーの国(Hindu Rashtra)にすることを目指すヒンドゥー至上主義の台頭は、カーストの政治と裏腹の現象であった。1960年代半ば以降に導入された緑の革命が成功を収めると、これを担った後進カースト農民が次第に台頭してくることになる。彼らは、後進カーストに対する留保制度の実現を要求し、これが支持を集めることで上位カーストが支配的であった会議派支配を突き崩した。いわば下剋上の成功であるが、上位カーストと後進カーストの対立を、ヒンドゥー社会の一体性に対する脅威と捉えたヒンドゥー至上主義者は、ヒンドゥーの団結を実現するために、ムガル朝の初代皇帝バブールの名を冠したバブリー・マスジッドを1992年に破壊する。これを契機に全国でヒンドゥー・ムスリム暴動が発生し、2000人近くのムスリムが犠牲になった。惨劇は10年後の2002年にインド西部のグジャラート州で起こったグジャラート大虐殺でも繰り返されることとなった。

当時グジャラート州首相を務めていたモーディー首相は、虐殺への関与を繰り返し問われる一方、同州での経済成長を実現し、2014年総選挙では、「グジャラート・モデル」を掲げて下院選に勝利した。現在、彼の政権下では、2019年の市民権法改正に見られるように、「ヒンドゥー国家」実現のための布石が着々と敷かれている。

5.経済
初代首相ネルーが目指したのは、民主主義と社会主義を両立する体制であった(注14)。政治ではソ連型の社会主義体制を拒否し民主主義体制を採用した一方で、経済的にはソ連型の国家が主導する計画経済の実施に大きな魅力を感じていた。経済成長と貧困削減を同時に達成するために有用だと考えていたためである。ただし社会主義的政策といっても、民間企業を国有化することは行わず、重工業分野を国営企業が経営する方式を採用した。資本主義と社会主義を混合形態であることから混合経済と称されたが、この土台となったのが、当時、途上国の経済発展のために有効とされた輸入代替工業化戦略である。

ただしネルーの経済政策には、農業を軽視する弱点があった。予算上の制約もあり、灌漑設備などのインフラ整備より土地改革などの構造改革に重点を置いたため、インド農業は天水に頼る脆弱性を抱えていた。この弱点が危機として露呈したのが、1960年代半ばの大干魃による不作であり、これに伴うインフレは計画経済の遂行を妨げ、経済危機を招くことになる。危機の克服のためには海外援助が不可欠であったが、アメリカ、世界銀行が課した条件は輸入代替工業化政策の自由化と新農業政策「緑の革命」の導入であった。インディラ政権は部分的にこれを受け入れ、当座の危機をしのぐことになる。

その後も、第一次オイルショック、第二次オイルショックの直撃を受け経済危機は続いた。インディラ政権は、「貧困追放」を掲げて1971年総選挙に勝利したものの、相次ぐ経済危機に「貧乏人追放」と揶揄される事態となった。IMFは資金を融資する際に自由化の条件をつけ、インディラはこれに部分的に応じることによって、輸入代替工業化戦略は維持しつつも自由化を緩やかに進めていった。

本格的に経済自由化に舵を切ったのが、1991年総選挙で成立したラオ会議派政権であり、以降、現在に至るまで段階的に自由化を実施してきた。2000年代に入って成立したマンモーハン・シン会議派連立政権時代には一時期実質GDP成長率が10%を超えるなど、経済成長を続けている(注15)。貧困層も1993-94年期の45.3%(4億370万人)から2011-12年期には21.9%(2億6980万人)へと比率、絶対数ともに減少しており(注16)、一定の成果を確認することができる。モーディー政権下で成長は鈍化し、2019年総選挙直前には失業率が1972年以来最悪を記録したことを政府が隠蔽しようとしたと報じられたものの(注17)、2022年度の実質経済成長率も、インド準備銀行によると7.2%と予測されている(注18)。

6.社会
独立後のインド社会は、大きな変動を経験した。ヒンドゥー社会の基軸であるカースト制度と、現在の焦点であるヒンドゥー・ムスリム関係について解説する。

まずカーストであるが、独立後の民主主義の導入と経済成長の進展によりカースト間関係は大きく変化してきた。独立当初、政治、経済、社会で指導的地位を占めていたのは、上位カーストであった。独立を主導したインド国民会議派の指導部も上位カーストによって占められ、その意味で会議派支配は伝統的支配の継承という保守的な側面を持っていた。

これが変わり始めるのが、先述の後進カーストの台頭である。経済力をつけた彼らは後進カーストの利益を代弁する政党を支持し始め、その数の多さから、最終的には会議派支配を転覆するに至る。この経済・政治的変化が、社会においてカースト間関係を変えることになる。具体例を挙げるとわかりやすいであろう。筆者が調査した農村の事例では、かつては後進カーストが上位カーストの家を訪れても椅子に座って話をすることなど考えられなかったが、現在では、椅子を勧められるようになったという。インド最大の州であるウッタル・プラデーシュ州では、2007年の州議会選挙で不可触民の政党である大衆社会党が勝利し、不可触民が上位カーストを従えるという逆転現象が起きた。長らくインド政治の中心とされてきたウッタル・プラデーシュ州での政治的変化は、ヒンドゥー社会の変化にとっても、大きな意味を持った。

こうした変化が起こる一方で、カーストに基づく差別がなくなったわけでは決してないということは、強調しておきたい。ただし、総体としてみれば、独立後75年の時を経て、カースト間関係はより平等な関係へと変化していると評価できる。

これとは対照的に、宗教間関係は悪化の一途を辿っている。分離独立の悲惨な経験から、宗教の違いによって殺されることのない国を作ることが、ネルーの目指した世俗国家の根幹であった。実際に、ネルー政権期にはヒンドゥー・ムスリム間の暴力的な対立はかなりの程度抑えられ、約束は守られていた。しかし、1980年代後半に入り、ヒンドゥー・ムスリム暴動の件数、死者数共に急増することになる。死者数が1000名を超える大暴動は、1989年バーガルプル暴動を皮切りに、1992-3年のアヨーディヤ暴動、そして2002年グジャラート大虐殺と続いた。宗教暴動とはいっても、インドの場合、犠牲者のほとんどがムスリムであることが特徴である。

大暴動は、2002年を最後に、今のところ起こっていない。代わりに、2014年総選挙で現在のモーディー政権が成立して以降、牝牛保護団のような自警団組織が、ムスリムを襲撃する事件が多発するようになった。2019年にモーディー政権が再選を果たして以降は、ムスリム移民のみに市民権を認めない2019年市民権法改正法を制定するなど、ヒンドゥー国家実現へ向けた制度化が加速している(注19)。独立後75年を経て、インド建国の理念が踏みにじられ、全く別の国になりかねない事態となっている。

7.外交
ネルー政権の外交の特徴は、何よりも帝国主義の犠牲となった国々の主体性の回復と、これら諸国の連帯を根幹とし、これから導かれる非同盟主義であった。冷戦期の資本主義陣営、社会主義陣営の対立に汲みしない政策は、民主主義と社会主義の両立を図ったネルーの理念に基づいていた。1955年にインドネシアのバンドンで開催されたアジア・アフリカ会議は、ネルー外交の一つの頂点であったといえよう。なかでも中国との友好関係が外交の重要な柱であったが、1962年の印中国境紛争によりインド軍が大敗したことで、ネルーは最晩年にその外交政策を厳しく批判されることになる。

後継者となったインディラ・ガーンディー政権も、非同盟主義は継承したものの、1971年の第三次印パ戦争に至る過程で当時のソ連と印ソ平和友好協力条約を締結し、ソ連と事実上の同盟関係に入る。これ以降、南アジアにおいては、印ソ連合対パキスタン・中国・アメリカ連合という冷戦下の対立構造が冷戦終結まで続くことになる。

冷戦終結後、軛から解き放たれたインドは、アメリカとの関係改善を軸とした全方位外交に乗り出す。同時に、経済自由化も本格化させたため、世界第二位の人口を擁する巨大市場の出現は、日本を含む資本主義諸国の注目の的となった。1998年に実施した核実験により、アメリカや日本との関係は一時的に冷え込むが、2000年代に入って中国の台頭が顕著になると、中国と国境を接し領土紛争を抱える地政学的条件から、対中封じ込め政策の要として安全保障上も重要な地位を獲得することに成功する。その象徴が、アメリカ、日本、オーストラリアと組んだクアッド(QUAD)である。現在進行中のウクライナ戦争において、インドはロシアに対する非難決議を一貫して棄権し、自由と民主主義を共有しているはずのクアッド構成国のなかでは特異な存在となっている。しかし、中国が強国として存在する以上、クアッドの枠組みは強化こそされ、弱体化することはないであろう。

懸念されるのは、パキスタンとの関係である。モーディー政権の最大の目標は、ヒンドゥー国家の実現であり、その意味で内政志向の強い政権である。ヒンドゥー国家実現のためには「敵」が必要であり、それは国内では宗教的少数派であるムスリムであり、国外では、これとつながっているとヒンドゥー至上主義が見做しているパキスタンである。2019年総選挙に際しては、モーディー政権は、ジャムー・カシミール州のテロ事件を契機にパキスタンを空爆し、失業問題に喘ぐなか選挙戦の潮目を変えて再選を果たした。世界の核保有国のなかでこれほど長期間にわたって武力対立を繰り返して来た国はインドとパキスタンをおいて他になく、核戦争の危険がかなりの程度高い地域である。現在はウクライナ戦争の影に隠れているが、この点はもっと強調されてしかるべきであろう。(了)

写真1.インド門

写真1.インド門
第1次世界大戦の戦死者を弔うために首都ニューデリーに英領期に建設された。門には戦死者の名前が刻まれている。

写真2.Char Minarから見た雑踏

写真2.Char Minarから見た雑踏
インド南部、テランガーナ州ハイデラバードのChar Minarから見た街の雑踏。

写真3.南インドの食事

写真3.南インドの食事
インド南部、タミル・ナードゥ州チェンナイのレストランで出された食事。ヴェジタリアン料理。

(注1)藤原学思「インドの人口、来年にも中国を抜く見通し 世界人口は今年80億人に」、『朝日新聞』2022年7月12日、(URL: https://digital.asahi.com/articles/ASQ7D2RZWQ7DUHBI00F.html 2022年10月21日最終アクセス)
(注2)近藤則夫(2015)『現代インド政治――多様性の中の民主主義』名古屋大学出版会、3頁。
(注3)V-Demo institute (2022), Democracy Report 2022: Autocratization Changing Nature? Gothenburg: University of Gothenburg.
(注4)Government of India, Ministry of Law and Justice, Legislative Department, Constitution of India, (URL: https://legislative.gov.in/constitution-of-india 2022年10月21日最終アクセス)
(注5)藤井毅(2003)『歴史のなかのカースト――近代インドの〈自画像〉』岩波書店、9-16頁。
(注6)India.gov.in national portal of India, India at glance, (https://www.india.gov.in/india-glance/profile 2022年10月21日最終アクセス)
(注7)Office of the Registrar General and Census Commissioner, India, Ministry of Home Affairs, Government of India, India at Glance: Population Census 2011
https://www.census2011.co.in/p/glance.php#:~:text=Total%20population%20of%20India%20has,the%20decade%20remained%2017.7%20percent. 2022年10月21日最終アクセス)
(注8)Government of India, Ministry of Law and Justice, Legislative Department, Constitution of India, (URL: https://legislative.gov.in/constitution-of-india 2022年10月21日最終アクセス)
(注9)Office of the Registrar General, India (2018), Census of India 2011 Part 1 of 2018 Language: India, States and Union Territories (Table C-16) ( URL: https://censusindia.gov.in/nada/index.php/catalog/42458/download/46089/C-16_25062018.pdf 2022年10月21日最終確認)
(注10) 'More than 19,500 Languages Spoken in India: Census', NDTV, July 01, 2018. (https://www.ndtv.com/india-news/more-than-19-500-languages-spoken-as-mother-tongue-in-india-census-1876085 2022年10月21日最終アクセス)
(注11)Office of the Registrar General and Census Commissioner, India, Ministry of Home Affairs, Government of India, (2021), C-01: Population by Religious community, India-2011より筆者作成。 (https://censusindia.gov.in/nada/index.php/catalog/11361 2022年10月21日最終アクセス)。
(注12)中溝和弥(2012)『インド 暴力と民主主義――一党優位支配の崩壊とアイデンティティの政治』東京大学出版会、68-72頁。
(注13)中溝(2012)『インド 暴力と民主主義』45頁、表2-1。非Hindu教徒16.16%の中で「その他後進階級」に相当するとされたコミュニティは8.4%存在し、これを「その他後進階級」合計に加えている。
(注14)独立後の経済政策の展開については、中溝和弥(2012)「第3章 インドにおける民主主義と経済政策の展開」、堀本武功、三輪博樹編『現代南アジアの政治』放送大学教育振興会、44-59頁を参照のこと。
(注15) 黒崎卓「新興市場経済としてのインド-2016年廃貨政策を題材に-」『比較経済研究』第57巻1号、43頁、表1を参照のこと。
(注16) Ahluwalia, Montek S. (2019), 'India's Economic Reforms: Achievements and Next Steps', Asian Economic Policy Review, vol.14, p.56, Table.2.
(注17)中溝和弥(2019)「モーディーはなぜ圧勝したか――2019年インド総選挙の分析と展望」、『世界』岩波書店、250頁。
(注18)「2022年度第1四半期GDP成長率は13.5%」『ビジネス短信』日本貿易振興機構、2022年9月8日。
https://www.jetro.go.jp/biznews/2022/09/929451ed297aeb54.html 2022年10月21日最終確認)
(注19)詳しくは、Nakamizo, Kazuya (2021), 'The Politics of Obedience: The BJP System and the 2020 Bihar State Assembly Election', Asian Studies, Vol.67, No.2, p. 41参照のこと。 (https://www.jstage.jst.go.jp/browse/asianstudies/67/2/_contents/-char/ja

書誌情報
中溝和弥「《総説》インドという国」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, IN.1.01(2023年1月10日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/india/country/