アジア・マップ Vol.01 | イラン

《総説》イランという国
イラン・イスラーム共和国

黒田賢治(国立民族学博物館・助教)

  イランは東部がトルクメニスタン、アフガニスタン、パキスタンと、西部がアゼルバイジャン、アルメニア、トルコと国境を接し、北部がカスピ海に、南部がペルシア湾に面している。その国土は1,648,195㎢と日本の約4倍であり、世界第17位の国土面積を誇る。カスピ海との間に東西にアルボルズ山脈、イラク国境に沿いながら南北にザグロス山脈という二つの山脈が走り、両山脈のあいだの平地には北東部にキャヴィール沙漠、南東部にルート沙漠が広がる。イランの各都市はそれら沙漠の周縁や山脈にそって形成されている。

マフムーダーバードのカスピ海海岸

(写真1 マフムーダーバードのカスピ海海岸 筆者撮影)

  カスピ海沿岸部の温暖湿潤気候の地域では日本のように水稲栽培もおこなわれるものの、国土の大部分は概して降水量が少なく、一日の気温差、夏と冬の気温差が大きい、砂漠気候ないしはステップ気候である。そのため居住可能な面積は少なく、耕作可能な面積に至っては国土のわずか9%に過ぎない。しかし人類が最初期に農耕を始めた地域の一つと言われており、歴史的には山脈地帯からカナートと呼ばれる地下水路を伝って運ばれる水を利用した農業がおこなわれてきた。今日でも豊かな農業国家であり、小麦の生産量をとっても2020年では世界第12位の1500万トンの生産量を誇る。

  20世紀初頭には1000万人にも満たない人口であったが、近年では人口は推計で8500万人を超えるi。言語的な観点からみると、大きく三つの言語集団に分かれる。一つはイラン語諸派の言語集団であり、公用語であるペルシア語に加え、クルド語、ロル語、ギーラーン語、マーザンダラーン語やバローチ語などがある。二つ目にはトルコ語諸派の言語集団であり、アーザリー語、トルクメン語、ガシュガーイー語などがある。最後にセム系諸語の言語集団であり、アラビア語やアッシリア語などがある。

 公用語であるペルシア語の話者人口は全人口の50~60%を占め、ペルシアの古地である南部のシーラーズからエスファハーン、テヘランとイラン高原中央部を中心に話者が広がっている。9~10世紀以降からアラビア文字による表記が行われており、今日では通常のアラビア語で用いられる文字24種に加え、ペルシア語独自の4つの文字を採用している。またアラビア語やトルコ語に由来する語彙も少なくない。

  イラン諸語として二番目に多いのはクルド語である。全人口の7~10%の話者人口をほこり、北東部への移住者コミュニティもあるが、基本的にはコルデスターン州(クルドの土地の意)と呼ばれるイラクやトルコにつながるザグロス山脈西部中心に沿って広がっている。とはいえ、クルド語内の「方言」の差異は大きく、表記についてもアラビア文字を用いる地域とローマ字を用いる地域がある。ロル語は人口の2%程度の話者をほこり、地理的分布としても言語的にもペルシア語とクルド語の中間にも位置づけられ、南東部のロレスターン州を中心に話者が広がっている。ギーラーン語が4~5%程度、マーザンダラーン語が4%程度、バローチ語が2%程度の全人口中の話者人口をほこるものの、ギーラーン語に関して言えば近年ではペルシア語化が強く進んでいる。

  最後のセム語系諸語として、ペルシア湾に面したイラク国境南部のフーゼスターン州を中心に、人口の1~6%のあいだでアラビア語話者が暮らしている。また北西部のオルミーイェや西アーゼルバーイジャーン州にアッシリア語話者も非常に少数ながら暮らしている。この三つの言語諸派を中心にしながらイランの言語的分布が構成されているものの、アルメニア語やジョージア語なども重要な少数派言語である。言語の多様性は、同時にペルシア人、アーザリー人、トルクメン人、アラブ人などなど民族的な多様性も表している。

  こうした言語・民族的な多様性の一方で、国民の間で大まかな共通性があるのが宗教である。人口の約98%がイスラーム教徒であり、残りの約2%が宗教的少数派によって形成されている。宗教的少数派のなかには、ヤズドやケルマーンといった都市を中心に古代ペルシアの諸信仰を体系化させたゾロアスター教の信徒に加え、アルメニア教会やアッシリア教会など東方キリスト教会に属するキリスト教徒も含まれる。またペルシアが旧約聖書のエステル記の舞台でもあったように、ユダヤ教徒も暮らしており、ヘブライ文字で記述するペルシア語といった特有の文化をもつだけでなく、古いユダヤ教の信仰実践も保持してきた。

ハマダーンのエステル廟

(写真2 ハマダーンのエステル廟 筆者撮影)

 他方、国民の大多数を占めるイスラーム教徒のうち、約1割が世界的にみるとイスラームの多数派であるスンナ派に属し、ロル人やアラブ人、バローチ人、トルクメン人などがそれにあたる。他方、残りの約9割は12イマーム・シーア派(以下・シーア派と略記)の信徒である。シーア派は、イスラームの開祖預言者ムハンマドの後継者を、従弟であり娘婿であるアリーとその子孫を超人的指導者としながら特有の宗教的世界観を形成している宗派である。なかでも第3代指導者であり、預言者ムハンマドの孫であったフサインとその一行が時の政権と戦って敗れた事件は、正義と不義をめぐる固有の信仰と一行への追悼のための諸儀礼を発展させていった。

 とはいえ、イランでシーア派が住民の多数派となったのは比較的歴史としては新しい。16世紀現在のイランを含んだ地域を支配し、シーア派を国教に奉じたサファヴィー朝の成立によって転機が訪れた。それまで一部を除きスンナ派が住民の多数を占めていた同地域で、この王朝によって住民のシーア派への改悛が進められていった。また同朝の下で、ローカル化の作用として、殉教劇や哀悼詩の朗誦など新たな追悼儀礼の形式が生み出されていった。こうしたペルシア化され多数派の信仰となったシーア派は、今日のイランの政治においても大きな意味を持つ。

 現在のイランの正式な国名はイラン・イスラーム共和国であり、1979年に誕生した。それまで同国を支配したパフラヴィー朝の政権が同年2月11日に国内から去ることで、革命が達成されたのだ。暫定政府は3月10・11日に国民投票を行い、賛成多数によって王政廃止と新たな政治体制として前代未聞のイスラーム共和制の採用を決定した。とはいえ、イスラーム共和制が具体的にどのような政治機構や制度をもった体制であるのかは、この時点では明らかではなかった。イスラーム共和制は、最高指導者であったイスラーム法学者ルーホッラー・ホメイニー師を調停者としながら、その後の憲法制定過程など行政・立法面で、同師の支持集団が権力を掌握していく過程を通じて政治体制として具体化されていった。

ホメイニー指導体制下(1979~1989年)のイラン

(図1 ホメイニー指導体制下(1979~1989年)のイラン)

 1979年に制定された憲法においては、司法、立法、行政は、最高裁判所長官、国民議会、大統領をそれぞれの長として編成されていた。国民議会や大統領は国民が選挙を通じて直接選べる仕組みをもっていた。しかしながら、三権それぞれに直接・間接的に最高指導者が多大な影響を及ぼす仕組みとなっており、不均衡な権力構造であった。ホメイニー師の指示によって1989年に修正された憲法では、司法府の長として新たに司法権長が設置されたことに加え、相対的に大統領の権限の強化が図られたが、依然として最高指導者に強大な権限が集まった。そのため大統領は、実質的には最高指導者ら体制指導部によって定められた行政上の目標を達成するための機関として機能してきた。

 イスラーム共和制においては、ホメイニー師に代表されるようにイスラーム法学者が政治的に重要な役割を担うようになった。というのも、この政治体制下では、理念的には政治・経済・社会を含むあらゆる側面がイスラーム法の理念に適って運営されており、それを保証する仕組みとしてイスラーム法学者が政治制度内に配置されるためだ。また国家によるイスラームの解釈が国家運営に関わる場合には、市井のイスラーム法学者の見解に優先させることで、理念的には国家の解釈の優位性も確保されている。とはいえ、イスラームという宗教をめぐる言説が部分的に政治的な言説と重なりをもつことによって、国家を支えるイスラーム法学者と体制指導部や体制そのものに批判的なイスラーム法学者との間には緊張関係も生まれてきた。特に、1989年に最高指導者に中堅のイスラーム法学者ながら就任したアリー・ハーメネイー師のもとで具体的に政治問題となった。

テヘランの革命広場近くの壁画

(写真3 テヘランの革命広場近くの壁画(左手がハーメネイー現最高指導者、右が故ホメイニー師) 筆者撮影)

 革命後のイランにおいて政治的騒乱を、国家は様ざまな方法で沈静化させてきた。革命員会やバスィージと呼ばれる民兵などを騒乱の鎮圧に動員するなど暴力的手段を用いるだけでなく、司法制度も用いてきた。加えて、各種検閲制度を利用することで言論・表現の自由に一定の制限をかけてきた。そのため世界各国の民主化度合を図るフリーダムハウスの評価では、2022年8月においては14/100(政治的権利4/40、市民の自由10/60)であり、「自由ではない」最底辺の国の一つとして評価されている。

 とはいえ、イランの選挙制度一つとってもユニークな側面も多い。たとえば、1989年の憲法修正で国民議会からイスラーム評議会という名称に変更された「国会」選挙である。投票は2回行われ、各立候補者から有権者の過半数を超える信任票を得た上位候補者は当選となり、過半数の信任票を得られなかった立候補者は第2回投票で再び有権者の審査を得ることになる。また議席数はあらかじめ宗教別に定められており、290議席のうち5議席は宗教的少数派に割り当てられており、宗教的少数派内の人口に応じて議席配分をさらに決めて選挙が行われるのである。

 イランでは、イスラームの預言者ムハンマドがマッカ(メッカ)からマディーナ(メディナ)に逃れた年を元年に定めた完全太陰暦であるヒジュラ暦に加え、同年を基点とした太陽暦も用いられている。後者は春に地球が太陽の黄道を通過する瞬間に始まる。いわゆる春分の日を元日とする暦であり、この暦で2022年3月21日は1401年1月1日にあたる。つまり、イランは15世紀という新たな世紀に入ったばかりなのだ。この新たな世紀がイランにとってどのような世紀となるかを見届けることは適わないであろうが、前世紀の様々な課題を克服していくことを筆者はイランに携わる研究者として注視している。

参考文献
Julian Bharier 1972. "The Growth of Towns and Villages in Iran, 1900–66." Middle Eastern Studies 8(1): 51-61.
Moradi, Sanan 2020. "Languages of Iran: Overview and Critical Assessment." In Brunn, S., Kehrein, R. (eds) Handbook of the Changing World Language Map. Vol.2, pp. 1171-1202. Cham: Springer.

書誌情報
黒田賢治「《総説》イランという国 イラン・イスラーム共和国」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, IR.1.01 (2023年1月10日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/iran/country/