アジア・マップ Vol.01 | イラン

《エッセイ》イランと私
シーラーズ追憶

 
 原隆一(大東文化大学 国際関係学部・名誉教授)

 シーラーズの地をはじめて踏んだのは、1975年の5月のことだった。
 その日の明け方、テヘランから故大野盛雄先生が運転するイラン製ペイカーン車に同乗し、エスファハーンを経由し、ザーグロス山地の大きな谷筋の一本道をいっきに900Kmほど南下し、夕闇迫る頃シーラーズに到着した。「アッラーホ・アキバル」と唱えながらコーラン門をくぐった。オアシス盆地の灯が宝石によう輝いていた。
 これから、この街で学生生活(パフラヴィー大学・特別研究生)をおくることになる不安と感慨で胸の高まりを抑えることができなかった。こうしてシラーズを拠点にイラン・イスラム革命直後の1979年2月末までの4年間をここで過ごすことになった。

 1975年のイランといえば、日本を含む先進工業諸国が「オイルショック」で大騒ぎしてからの2年後にあたり、当地ではオイルダラーが一巡し、空前の「オイルブーム」にあった。オイルブームと王権の確立、外国企業の進出ラッシュにわく大きな激動期にあった。南部のシーラーズ地方でも日系企業(ブリジストン・タイヤ工場、NEC家電・通信工場)など大手企業が進出してきた。都市部ばかりでなく、調査地であったシーラーズ北方にあるマルヴダシュト近郊の農村部もまた大きな変化の波が押しよせてきたころであった。

 当時、大野先生はシーラーズの中心にあるバーゲ・エラム公園近くの借家に住んでいた。私はその家に私は1ヶ月ばかり「居候」させていただいた。
 先生はシーラーズ宅から毎日のように片道、70km近くの悪路を自身でペイカーン車を運転し、定点観測拠点であるヘイラーバード村やポレノウ村に通っていた。私といえば、車の助手席に座り、訪問する村にいっしょにお供した。フィールドワークの「フィの字」も知らず、ペルシア語の「ペの字」も話せず、異文化の中にいきなり放りこまれこまれてたのである。まるで闇の中を歩いているような心境で心細く不安な心境だった。
 先生はチャイを飲みながら農民アリミルザーさん家族と楽しそうに会話をしている。その横で文盲となってしまった私といえば、家屋の天井の梁を眺めながらスケッチするしかなかった。聞き取りが終わると、今度は真昼の強烈な光線が錯乱するなかをひょいと家からとびだし、集落を横切り農地へと向かう。身体を刺すような日差しのもとで砂塵がまう先生の後をとぼとぼと追いかけるのがやっとであった。これが私の「現場学事始め」であった。
 先達曰く、「フィールドワークとか遊牧民研究などとかっこいいことを言うが、ロマンはあちら側にあるんじゃなくて、そこに立ち向かうこちら側の態度にあるんだよ」と、ニヤリと笑いながら私のほうに顔をむけるのであった。

 昼、現場では村びと家族から話を聞き、畑や灌漑での観察し細かい字で小型ノートにメモしていた。夜、シーラーズに戻ると「カルテ」と称してその日の出来事や現場でとった観察メモをA4版ルーズリーフに1枚1枚ていねいに記していた。疲れると、シーラーズ名産のリームー(ライム)をウッカ(革命前はビール、ワインなどの酒類自由)が入ったグラスに絞りいれ、それを飲みながら、その日の村の出来事を生き生きと語って聞かせてくれるのであった。今、思い返すとずいぶん贅沢な現場学入門であった。
 マルヴダシュト近郊の農村調査見習いを終えて、自分たちの調査地である南ホラーサン地方のビールジャンド近郊、アフガニスタン国境近くのフルク村調査をはじめることになったのが2年後の1977年からであった。シーラーズを拠点にしたイランでの留学生活は1979年2月のイラン・イスラム革命まで4年間近く、貧乏だっが楽しく過ごすことができた。

 ところがである、4年目を迎えた1978年、あのオイルブームに浮かれたイラン社会がにわかに音を立てて軋みはじめたのである。78年の2月のコム事件をきっかけに、1979年2月のイラン革命までの1年余続く反体制運動という予期せざる動きに巻き込まれてしまった。小さなイラン寒村の民族・社会学的調査という「小さな社会」の長期定点調査にやっとめどがついた矢先だったが、そんな悠長なことを言っていられない事態になってしまった。はるかに複雑で「大きな社会」の歴史やフィールドワークへと視野を広げて考えていかざるを得なくなった。

 革命直後の1979年2月末、シーラーズからアフガン出稼ぎ労働者たちといっしょにアフガニスタンへ陸路で脱出することになった。シーラーズ〜テヘラン〜マシュハド〜国境〜ヘラート〜カンダハル〜カーブルへと厳寒のアフガニスタン大地を壊れそうなオンボロバスを乗り継いでの難民たちといっしょの「逃避行」であった。やっとたどりついたカーブルもまた戒厳令下にあった。
  その年の12月、旧ソ連軍は12万の軍隊を率いてアフガニスタンに侵攻する。パキスタン側に250万人、イラン側に150万人といわれる大量難民が発生した。昨今、2022年のロシアのウクライナ侵攻による大量の難民は今、まさに寒さに震えながらこの厳寒の季節のなかで暮らしてしる。1979年2月末の「アフガニスタン逃避行」の体験と二重写しになり、その時の痛みがよみがえってくるのである。

 追記:この小文の参考となる資料を紹介したい。
原 隆一・南里浩子編『大野盛雄フィールドワークの軌跡シリーズ』(全5巻)大東文化大学 東洋研究所刊、4巻まで既刊、最終巻の5巻は2023年刊行予定。

1975年_Kherabad村、アリミルザーさん家族

1975年 ヘイラーバード村、アリミルザーさん家族

1976年1月、Kherabad村のアーシューラー宗教行事、山のエマームザーデ廟に集合

1976年1月、ヘイラーバード村のアーシューラー宗教行事、山の上にあるエマームザーデ廟に集合

1979年1月_Shiraz、イラン革命直前の石油産業、セメント工業労働者たちの反国王デモ

1979年1月 シーラーズ、イラン革命直前の石油産業、セメント工業労働者たちの反国王デモ

書誌情報
原隆一「《エッセイ》イランと私 シーラーズ追憶」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, IR.2.04(2023年1月10日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/iran/essay01/