アジア・マップ Vol.01 | イラン

《エッセイ》イランの都市
テヘラン

桜井 啓子(早稲田大学国際教養学部・教授)

 東西に連なるアルボルズ山脈の南麓に形成されたテヘランは、900万を超す人口を擁する中東有数の大都市である。小さな町に過ぎなかったテヘランは、ガージャール朝(1796-1925)期に首都となり、ゴレスターン宮殿やバーザールを中心に街が発展した。パフラヴィー朝(1925-1979)になると、官庁、大学、博物館などの建物、幹線道路、広場や公園などが建設され、近代都市へと姿を変えた。石油ブームに沸いた1970年代には、高速道路や高層ビルなどの建設ラッシュが続いた。イスラーム共和国(1979- )になった以降も、テヘランは政治、経済、文化の中心として栄えてきたことから、人口増加により今なお東西南北に市街地が拡大し続けている。

 現在の大都市テヘランは、街の中心を東西に走るエンゲラーブ通りによって、おおよそ南北に分けられる。エンゲラーブ通り以南は、ゴレスターン宮殿、バーザール、テヘラン駅、考古学博物館、国会議事堂などがある旧市街である。路地を車やバイクが縦横無尽に走り抜ける下町情緒のある界隈で、人々の服装も保守的だ。エンゲラーブ通りの北側に面してテヘラン大学のキャンパスが広がっており、周辺は学生が多く行きかう書店街である。エンゲラーブ通り以北には、高層ビルが立ち並ぶ新市街が広がっている。テヘランの中央を南北に走るヴァリー・アスル通りは、プラタナスの街路樹が美しい大通りで、北に向かうほど急こう配となる。通り沿いのショップやカフェなどには流行に敏感な若者や若い家族の姿がある。ヴァリー・アスル通りの北端タジュリーシュには、バーザール、聖者廟、バスターミナルなどがあり、多くの人で賑わっている。タジュリーシュをさらに上がると1979年の革命で国を追われたパフレヴィー国王が居住していたニヤーバラーン宮殿があり、周辺は高級住宅街である。

 山を背に東西南北に拡大し続けたテヘラン最大の課題は、交通渋滞と排気ガスによる大気汚染である。地下鉄やBRTの導入、一般車両規制などの対策は講じられているが、改善の兆しは見られない。渋滞やスピードの出し過ぎは日常茶飯事で、交通事故が後を絶たない。何車線もあるような大通りでも、横断歩道がほとんどないため、人々は、向かってくる車を睨みながら平然と横断するなど、危険極まりない。

 現在のテヘランは、イランの縮図のような街である。民族的には、ペルシャ系住民が多数派を占めてはいるものの、アゼリー、マーザンダラーニー、ロル、クルドをはじめ、さまざまな民族が暮らしている。大多数は、イランの国教である十二イマーム・シーア派教徒だが、スンナ派ムスリム、キリスト教徒アルメニア人、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒なども暮らす。民族や宗教を同じくする人たちは、それぞれに繋がっているものの、民族や宗教ごとに集住しているわけではない。テヘランの特徴は、階層による明確な棲み分けである。北部には富裕層が暮らす豪邸や高級なアパートが立ち並び、その下に中間層の住宅地が広がりっている。そして南下するにつれて人口密度が上がり、人々の暮らしも貧しくなっていく。アフガニスタンやイラクからの難民が居住しているのも南部である。イラン各地からテヘランに流入する人々は、それぞれの経済力に応じた場所に定着する。

 テヘランは、イスラーム共和国の「顔」でもある。ビルの壁面には、イラン国旗、初代最高指導者ホメイニー師や現最高指導者ハーメネイー師の肖像、「アメリカに死を」に代表されるような反米スローガン、イラン・イラク戦争(1980-88年)で戦死した殉教者たちの肖像など、多種多様な壁画が描かれてきた。高速道路脇などには、色鮮やかな風景画も描かれるようになってきたが、街中のビルの壁は、相変わらず政治宣伝用だ。

 都市の政治利用は、壁画に留まらない。テヘランの通り、広場、駅には、あまねくイスラーム革命に関連した名前が付けられている。エンゲラーブ通りは、ペルシャ語で「革命通り」、メイダーネ・エンゲラーベ・エスラーミーは、「イスラーム革命広場」、メイダーネ・ショハダーは「殉教者広場」の意である。革命やイラン・イラク戦争の殉教者の名前を冠した通りや地下鉄の駅も多々ある。シャヒード・モタッハリー通り(殉教者モタッハリー師通りの意)、シャヒード・ベヘシュティー通り(殉教者ベヘシュティー師通りの意)は、ともに革命の初期にテロの犠牲となった聖職者に因んでいる。国教の十二イマーム・シーア派に関連した名前も多い。シーア派第十二代イマームの異名である「時の主」を意味するヴァリー・アスル通り、シーア派第三代イマームの名前を冠したイマーム・ホセイン広場などがその一例である。

 しかし、体制の意図とは相いれない姿が随所にみられるのもテヘランの魅力である。その傾向は、中間層や富裕層が暮らす北部に行くほど顕著になる。伝統的なバーザールとは対照的に、ショッピングモールのレイアウト、カフェやファストフード店のデザインやメニューはアメリカ風だ。休日ともなれば、ショッピングモールは、欧米風のファッションを楽しむ男性や女性で溢れている。アメリカの影響はショッピングモールに限らない。写真2のように、公立小学校の壁にアメリカ文化のシンボルともいえるミッキーマウスが描かれているなど、よく観察すると様々なところに見出すことができる。

 テヘラン北端の山間部にラバーサーンという場所がある。かつて村だったその場所は、大気汚染と街の喧騒を嫌う富裕層の大豪邸が立ち並ぶリゾート地に様変わりした。ある邸宅に招待された時の事。巨大なシャンデリアに螺旋階段、ヨーロッパ風の豪華な家具を設えたホテルのようなリビングで背中の空いた優雅なドレスやボディコン・ドレスの女性たちが歌い踊るその様子は、まるでハリウッド映画の一コマを見せられているようだった。

 一方、労働者が暮らす南部テヘランの集合住宅では、質素ながらも親類縁者の出入りが絶えない賑やかな暮らしがある。ロル族の友人宅で昼食をご馳走になっていると、日本人が来たというので、親戚が続々と集まってきた。最初に男たちから日本の物価、給料、政治などついて質問を受けた。それが一段落すると入れ替わるように女性たちが、話し始める。NHKドラマ「おしん」を見て日本女性の「忍耐」に感銘を受けたという彼女たちは、自分たちが身に着けている金のブレスレットを私に見せながら、金製品を身に着けていない筆者をしきりに案じてくれた。

 テヘランの北端と南端は、そこに暮らす人々の経済格差は言うに及ばず、服装、立ち居振る舞い、家族や隣人との付き合い方、宗教との関り、そして体制との距離にも差がある。どちらもまぎれもないイランの姿である。

①テヘランの公立小学校の壁に描かれているディズニーの絵。(2011年、筆者撮影)

①テヘランの公立小学校の壁に描かれているディズニーの絵。(2011年、筆者撮影)

②アルボルズ山脈を背にしたテヘランの街並み (2019年、筆者撮影)

②アルボルズ山脈を背にしたテヘランの街並み (2019年、筆者撮影)

③テヘランの壁絵 ホメイニー師の肖像と共に師の言葉として「すべての殉教者は、この国の独立と名誉の旗」が記されているほかにも「アメリカに死を」「おおホセイン」「おおホメイニー師、私はいつでもあなたのお役にたちます」といったことが書かれている。 (2008年、筆者撮影)

③テヘランの壁絵 ホメイニー師の肖像と共に師の言葉として「すべての殉教者は、この国の独立と名誉の旗」が記されている。そのほかにも「アメリカに死を」「おおホセイン」「おおホメイニー師、私はいつでもあなたのお役にたちます」といったことが書かれている。 (2008年、筆者撮影)

書誌情報
桜井啓子「《エッセイ》イランの都市 テヘラン」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, IR.4.05(2023年3月22日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/iran/essay02/