アジア・マップ Vol.01 | イラン

21世紀年表

黒田賢治(国立民族学博物館・助教)

1999年
2月26日 地方への政治の民主化の広がりを企図しながら、第1回地方議会選挙が全国で開催。全国で改革派候補者の当選が目立った。
7月7日 民主化の伸展を訴える学生抗議運動が発生し、法学権威ホセイン=アリー・モンタゼリー師の自宅軟禁解除などを含む要求を行い、革命後最大の抗議運動へと発展したものの、一部暴徒化し23日まで続いた。モハンマド・ハータミー大統領は暴徒との距離を置くように支持者に向けて発信するもデモへの対処に躊躇姿勢を示す一方で、革命防衛隊傘下の民兵組織が独自に抗議運動の武力鎮圧を図るとともに、テヘラン大学外国人寮を襲撃し、焼討にした。本事件以降、新聞・本・雑誌などの出版物に対する規制が強化された。また本来治安維持を司る警察治安維持部隊は機能せず、のちにガーリーバーフ元革命防衛隊司令官の下で組織再編が図られた。
11月28日 イスラーム評議会(「国会」)選挙法が改訂され、1997年の大統領選挙で若年者の投票が改革派のハータミー大統領当選を後押ししたことを背景に、投票年齢が満16歳に引き上げられた。改革派優位となった第6期評議会で再び15歳に引き下げられた。
12月11日 17日にかけて、第6期イスラーム評議会選挙の立候補登録が行われ、当時史上最多となる6860名(うち504名が女性)が立候補登録を行った。
2000年
2月18日 第6期イスラーム評議会選挙の第1回投票が6083名の候補者で実施。5月5日に行われた第二回投票の結果、イラン・イスラーム共同戦線(改革派・184議席)、エマームと最高指導者の路線に従う戦線(保守派・54議席)、建設の奉仕者党/ハーシェミーの賛助者たち(中道・42議席)、独立候補、独立候補9議席、宗教的少数派5議席の全290議席が確定し、改革派優位の議会が形成された。
9月26日 シドニー・オリンピックで、イランで人気の高いスポーツ種目の一つである男子重量挙げの105㎏超級で、ホセイン・レザーザーデが金メダルを獲得する。なおシドニー・オリンピックでは、重量挙げで金メダル2、レスリングで金メダル1、テコンドーで銅メダル1という成績を上げる。
10月24日 ハータミー大統領が保守派に対して公然と非難を行う。同年12月には保守派による大統領への批判が繰り返された。
10月31日 1958年にパフラヴィー朝のモハンマド・レザー・シャーが訪れてから42年ぶり、革命後初となるイラン首脳の訪日として、ハータミー大統領が来日。11月2日までの間に、ハータミー大統領は森喜朗首相と首脳会談を行ったほか、国会演説などを行う。
2001年
6月8日 第8期大統領選挙が実施。814人が立候補届を出し、最終的に10名の候補者に絞られ選挙戦が行われた。アフマド・タヴァッコリー元労働大臣を次点とし、不本意の出馬であることを泣きながら訴えた現職のハータミー大統領が第1回目の投票で過半数を超える76.9%の得票によって再選。
9月14日 9月11日にアメリカで発生した同時多発テロ事件を背景に、同日に行われた金曜礼拝終了時に革命以来行われてきた「くたばれアメリカ」というシュプレヒコールが取りやめられた。
12月17日 ハーメネイー指導体制移行後に体制と軋轢を抱えながらも、湾岸諸国のシーア派から支持を受けてきたモハンマド・ホセイニー・シーラーズィー師が死去し、弟のサーディク・シーラーズィー師が支持基盤を受け継ぎ、法学権威となった。
2002年
1月29日 米国第41代大統領ジョージ・W・ブッシュが一般教書演説において、北朝鮮、バアス党政権下のイラクとともに、イランを「悪の枢軸」として名指しで批判した。
2月12日 テヘランからホッラマバードに向けて航行していたイラン・エアー・ツアー956号機が墜落し、乗員・乗客119名全員の死亡が確認された。
6月22日 イラン北西部のボーイン・ザフラーで地震が発生し、230名以上の死者が出た。
8月14日 イランの反体制組織モジャーヘディーネ・ハルグが、イランが秘密裏に核開発を進めていることを暴露。当初イラン側は否定するも、イラン核(開発)問題の発端となり、表面化していった。
2003年
2月28日 第2回地方議会選挙が実施。保守派の候補者の当選が全国的に広がり、改革派の衰退が顕在化した。
5月3日 マフムード・アフマディーネジャードがテヘラン市長に選出された。
6月10日 学費値上げと大学の民営化に反対する学生デモが民主化要求に発展するも、支持表明を行わないハータミ―政権への失望と非難の声があがり、改革派の支持基盤に大きな変動が見られた。
10月10日 イランの人権活動家で弁護士のシーリーン・エバーディーに対してノーベル平和賞授与が発表され、イランで最初であるだけでなく、最初のイスラーム教徒女性のノーベル賞受賞となった。なお2009年6月以降の民主化運動への取締強化によって英国への亡命を余儀なくされた。
2004年
2月20日 事前の立候補資格審査によって改革派の立候補が認められないなか、第9期イスラーム評議会選挙の第1回投票が実施された。5月7日に開催された第二回投票と合わせて、イスラーム・イラン開発者連合・闘うウラマー協会・イスラーム連合協会からなる保守派勢力が142議席、闘うウラマー組合・イランのための連合などからなる改革派が137議席、独立候補21議席、宗教的少数派が5議席、空席2議席と確定する。改革派の退潮と保守派の復権が顕在化した。
4月21日 キャマール・タブリーズィー監督作品『マールムーラク(とかげ)』が一般公開された。泥棒が偽のイスラーム法学者として人気を集めていくコメディであり、空前のヒット作となるが、イスラーム法学者に対する嘲笑・揶揄であるとの批判などを受け、上演禁止となった。2020年にはハーメネイー師が同作について理解を示していることが非公式の談話のなかで明らかにされ、2021年には一般にテレビ放映された。
8月24日 アテネ・オリンピックで男子重量挙げ105㎏超級で、ホセイン・レザーザーデが金メダルを獲得し、イラン人初の二大会連続金メダリストとなった。
2005年
6月17日 最終的に11名による選挙戦となった第9期大統領選挙の第1回投票が実施され、アクバル・ハーシェミー=ラフサンジャーニー元大統領が21.13%の得票、次点に当時無名であった元テヘラン市長のアフマディーネジャードが19.43%の得票となり、過半数の得票者がいなかったため、決選投票の第2ラウンド実施が決定した。
6月24日 第9期大統領選挙の第2回投票が実施され、アフマディーネジャードが61.69%の得票によって初当選を果たした。
12月6日 革命前に購入したロッキード社製のC-130輸送機がテヘラン市内で墜落事故を起こし、乗員10名と搭乗者84名に加え、墜落の巻き添えで12名が死亡する大惨事となった。大統領は同事故を、不義による抑圧の結果の死に至らしめられたという宗教的言説をもって表現しようとした。
2006年
11月20日 ゴム講師協会を始め体制派が推奨する法学権威であったミルザー=ジャヴァード・タブリーズィー師が死去。
12月15日 第三回地方議会選挙が実施され、改革派、独立候補の退潮が顕著となった。改革派候補者の一部は選挙について、選挙結果の公表の遅れや投票箱の紛失を含めた選挙不備を訴えた。また同日、イスラーム法学者であることが立候補者として必要不可欠であり、最高指導者の罷免・任命権をもつ専門家会議選挙も行われ、保守派59名に対し、改革派29名とこちらも保守派優位が確定した。
12月26日 南東部バムを中心にマグニチュード6.6の地震が起こり、死者26000~34000、負傷者2~20万の被害を生んだ。UNESCO世界遺産にも含まれるバム城塞も大きな損害を受けた。
2007年
2月1日 2月11日までのあいだ第25回ファジュル映画祭が開催。観客目線でのクリスタル・シー・モルグ賞の受賞作品に、イラン・イラク戦争を題材としたマスウード・デフナマーキーのコメディ映画『はみだし者たち』が選ばれた。『はみだし者たち』は以降第3作まで作られる人気作品となり、第2作目は当時のイラン国内の映画興行記録を塗り替えた。
2月19日 最高指導者ハーメネイー師が民営化可能な部門が広げるために憲法44条の修正を含む民営化プログラムの促進を要求。
6月16日 ハーメネイー師のイスラーム法学の指導を行っていたゴムのイスラーム法学者で同時代の法学権威の一人であったファーゼレ・ランキャラーニー氏が死去。
6月27日 豊富な原油資源の一方で石油精製能力に乏しく石油を一部輸入していたなかで、政府によって燃料配給の方針が発表されるなか、テヘランなど複数の都市でガソリンスタンドに対する投石など市民の怒りが爆発した。
7月30日 革命後に宗教都市ゴムの金曜礼拝導師を務め、長らく専門家会議議長を務めてきた古参の体制派イスラーム法学者の一人アリー・メシュキーニー師が死去。
2008年
3月14日 宇宙開発を一つの名目としたロケット、サフィールシリーズに先駆けた試験飛行として、ロケット、カーヴォシュギャルの打ち上げが行われた。
3月14日 約9割の改革派候補が資格審査によって立候補が認められないなか行われた第10期イスラーム評議議会選挙の第1回投票が実施され、4月25日に実施された第2回投票とあわせて、原理派統一戦線・包括的原理派連合・原理派独立候補(保守派・217議席)、改革派連合・国民信頼党(改革派・58議席)、独立候補20議席、宗教的少数派5議席が確定。議会内の保守派の優位性がさらに深まった。
8月8日 同日から開催された北京オリンピックでテコンドー男子80㎏級のハーディー・サーイーが金メダルを獲得したほか、レスリング男子60㎏級でモラード・モハンマディーが銅メダルを獲得した。
8月17日 ロケット・サフィールの打ち上げ実験が行われた。イラン側は定型衛星を搭載した軌道下試験で成功したと発表したが、アメリカ国防省は第一段階の動力飛行の後、失敗したと指摘した。翌年2月2日に行われた飛行実験で成功し、イランが9番目の国産衛星の打ち上げ能力保有国となった。
9月24日 アフマディーネジャードが国連演説でシオニズム批判などを含む演説を行い、2005年の大統領就任以降続けて反セミティズムとして国際的に批判を浴びた。
2009年
5月17日 ゴム講師協会ほか体制派が推奨する法学権威の一人であったモハンマド=タギー・バフジャト・フーマーニー師が死去。
5月20日 選挙をつかさどる監督者評議会より、現職のアフマディーネジャード、ミール=ホセイン・ムーサヴィー元首相、メフディー・キャッルービー元イスラ―ム評議会議長、元革命防衛隊司令官で公益判別評議会議員のモフセン・レザーイーが、第10期大統領選挙の最終的な候補者であることが発表。
6月12日 第10期大統領選挙の投票が行われ、現職のアフマディーネジャードが62.63%と過半数を超える得票で再選となったが、開票過程で不自然な情報が発信されたことなど選挙不正に関する疑義が持ち上がった。アフマディーネジャードを除き、モフセン・レザーイーも含め候補者たちが選挙を管轄する内務省に調査を要求した。19日にハーメネイー最高指導者が選挙の有効性を説き、レザーイー候補も受け入れるも、ムーサヴィー候補とキャッルービー候補はこれを受け入れず、支持者たちも不満を募らせた。ムーサヴィー候補の選挙キャンペーン・カラーの緑にちなみ抗議運動は「緑の運動」と呼ばれ展開していくが、やがて武力による運動鎮圧とそれに対する抵抗から武力衝突、ひいては反体制運動へと発展していった。緑の運動に参加し殺害され、Time誌の表紙を飾ったネダー・アーガーソルターンの存在は国内外から緑の運動に対する関心を高める一方で、体制側に外国による干渉という陰謀論にも現実性を与えた。当局は運動の継続と求心力の低下を図るためムーサヴィー、キャッルービー両候補を軟禁状態においた。
10月19日 国民への現金支給の方針がアフマディーネジャード大統領から発表された。同年アーザル月(11月)に最初の給付として455000リヤール(約45USドル)/個人の支給が行われる。各種補助金の漸次打ち切りに向けた政策の端緒となった。
12月19日 ホメイニー師に後継者指名を受けていたものの袂を分かち、改革派の精神的支柱であったモンタゼリー師が死去。
2010年
1月12日 科学者マスウード・アリーモハンマディーが自宅前で殺害された。また11月29日にも科学者のマジード・シャフリーアーリーが自動車に取り付けられた爆弾で殺害され、小同じく科学者のフェレイドゥーン・アッバーシー=ダヴァーニーも自動車に取り付けられた爆弾で重傷を負った。両者とも核開発に携わる科学者への暗殺および暗殺未遂の一つと数えられた。
2月11日 20%の濃縮ウランが作成できることをうけ、アフマディーネジャード大統領が第31回イスラーム革命記念日の演説で、イランが「核(保有)国家」であることを宣言し、国外から大きな物議を醸した。
2月23日 衆議院の招待でアリー・ラーリージャーニー国会議長が来日。
7月9日 国際的な批判を背景に、ハッド刑として実施されてきた姦通罪による女性への石打の刑の停止が発表された。しかしながら死刑の可能性が残されていることから、依然として人権問題に関わる問題として注視されてきた。
2011年
2月14日 この日から5月にかけて2009年の緑の運動への弾圧に対する抗議運動が行われた。この講義運での死者サーネ・ジャラーレの立場をめぐって体制側と抗議運動側で双方の被害者として主張がなされるなど情報戦の応酬が行われた。
2月15日 アスガル・ファルハーディー監督作品『別離』がベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞。国内でも上映されるイラン映画としては久々に大きな話題を呼ぶ国際的な作品として、翌年2月にはアメリカでもゴールデン・グローブ賞やアカデミー賞外国語作品賞などを受賞した。
2月22日 エジプト革命によってムスリム同胞団系のムルスィー政権がエジプトに樹立され、イランとエジプトとの関係改善を背景にしながら、イラン海軍軍艦が、革命後初めてスエズ運河を通過した。
7月23日 核開発に携わる科学者ダリウーシュ・レザーイーが自宅近くで射殺された。2007年から発生してきた核関連の科学者への暗殺の一つとみられた。
11月12日 テヘラン近郊の革命防衛隊のミサイル基地で爆発事故が発生。当初天然ガスステーションの爆発と発表されたが後に、軍需品輸送中の事故に訂正された。弾道ミサイルの揮発性燃料混合中の事故と見たCNNの報道のほか、意図的に爆発が行われたという見方をする報道も見受けられた。
2012年
1月23日 核開発問題でイラン側に譲歩させるためにイランへの経済制裁強化を図るアメリカのバラク・オバマ大統領とEUとの間で、7月からイランに対して石油禁輸措置とイラン中央銀行の資産凍結について合意に至った。10月には外国為替レートの急激な下落が起こり、イラン国内の経済的な混乱が深刻化した。
3月2日 第11期イスラーム評議議会の第1回投票が実施。5月4日に行われた第2回投票と合わせて、原理派統一戦線(保守強硬派・66議席)、イスラーム革命永続戦線(保守強硬派・23議席)、原理派統一戦線およびイスラーム革命永続戦線重複(保守強硬派・59議席)、イスラーム・イラン抵抗戦線(保守穏健派・28議席)、民主党(改革派・13議席)、イスラーム的洞察と覚醒戦線(保守強硬派・8議席)、改革人民戦線(改革派、4議席)、宗教的少数派5議席、その他77議席、空白4議席が確定した。
7月27日 同日から開催されたロンドン・オリンピックで、イラン選手団がレスリングと重量挙げでの7つの金メダルを含む、過去最高となる13個のメダルを獲得した。
12月17日 イスラーム評議会で選挙法の改正が承認。これによりそれまで選挙を監督する「内務省が選挙結果を伝える」という点を「内務省で確定した後に選挙結果を伝える」に変更するなど、18条31項や64条の点で改正が行われた。
2013年
4月9日 2007年頃から議論が進められてきた、イランのいわゆる民法にあたる家族保護法の改正法が作成。改正によって革命後に一般的なイスラーム的規範に則っていた男女間の離婚に関する権利の不平等性がある程度是正されるなどの変化が見られた。
5月11日 5月7日から行われていた第11期大統領選挙の候補者登録が内務省同日に締め切られた。監督者評議会委員を中心とした選挙管理中央委員会の資格審査を経て、ハサン・ロウハーニー、モハンマド=バーゲル・ガーリーバーフ、サイード・ジャリーリー、モフセン・レザーイー、アリー・アクバル・ヴェラーヤティー、モハンマド・ガラジー、モハンマド=レザー・アーレフ、ゴラーム=アリー・ハッダード=アーデルの8名の候補者の立候補が認められた。
6月11日 前日のハッダード=アーデル候補の選挙戦からの撤退に加え、唯一の改革派の候補であったアーレフが選挙戦からの撤退を表明するとともに、保守穏健派のハサン・ロウハーニーへの支持を表明した。
6月14日 第11期大統領選挙の第1回投票が実施され、イスラーム法学者でもあるハサン・ロウハーニーが50.71%と過半数を超える得票により大統領に当選し、初当選時に65歳と歴代大統領のなかで最高齢の大統領誕生が決まった。
11月24日 核開発問題をめぐりロウハーニー政権誕生後の2013年8月から進められてきた、イラン・アメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・EU・ロシア・中国(P5+1)との間で包括的共同作業計画の交渉の第一段階がまとまり、核開発問題が解決に向け進んだ。
2014年
1月20日 前年の11月24日に各国によって署名された包括的共同作業計画の交渉の第一段階の取り決めが、同日より実施された。
4月9日 2012年から策定されてきた各種補助金打ち切りと現金給付の第二弾が実施。
5月21日 米国の歌手ファレル・ウィリアムスの楽曲『Happy』を用いたオリジナル・ビデオクリップの作成とYouTubeへの投稿が世界的に流行するなか、イランの投稿者が逮捕された。後にむち打ちの刑に課された。
7月22日 ワシントン・ポスト紙のテヘラン支局長ジェイソン・レザーイヤーン夫妻がスパイ容疑でイラン当局に逮捕。アメリカとイランとの交換交渉により、他のアメリカ人囚人とともに2016年1月16日に釈放され、同日に凍結されていたイランの資産の一部が凍結解除された。
9月8日 ハーメネイー最高指導者が前立腺がんの手術を受けた。術後の回復について憶測も飛んだものの、順調に回復。
2015年
4月9日 最高指導者ハーメネイー師が演説のなかでアメリカへの不信感を示す一方で、核交渉に対する苦渋の決断として譲歩する姿勢を示した。
5月7日 イラン西部のマハーバードで起こったクルド人女性の原因不明の不審死への抗議運動が同地で起こり、クルド民族の騒乱としてサルダシュトなどの都市にも広がっていった。
7月14日 イラン核開発問題で、P5+1との間で包括的共同作業計画の署名が行われ、2015年10月18日から実行されることが決定。イラン核開発問題は一旦解決をしたかに思われた。
12月16日 10月11日にイランで発射実験が行われたミサイル実験が、安保理決議の弾道ミサイル実験の禁止に違反し、核弾頭の搭載可能な中距離ロケットミサイルの発射実験であったことを国連監視団が明らかにした。
2016年
1月2日 サウジアラビアのシーア派のイスラーム法学者・政治運動家のシャイフ・ニムル師が同国で処刑されたことに対して、イランで抗議運動が発生。テヘランのサウジアラビア大使館が体制右派によって襲撃された。サウジアラビア側は報復として、48時間以内のイランの外交官退去を要請し、イランとサウジ両国間の対立は決定的となった。
2月26日 第12期イスラーム評議議会選挙の第1回投票が同日実施され、4月29日に実施された第2回投票と合わせて、全改革派連合/「希望のリスト」(改革派・119議席)、原理派大連合(保守強硬派・84議席)、その他の立場の候補者(79議席)、宗教的少数派5議席が確定した。また2月26日に評議会選挙と同日に行われた専門家会議選挙では、保守強硬派34議席、保守穏健派29議席、独立派25議席が確定した。保守強硬派の精神的指導者であったモハンマド=タギー・メスバーフ=ヤズディーや監督者評議会議員や司法権長を務めたモハンマド・ヤズディーが落選するなどの波乱もみられた。
8月18日 リオデジャネイロ・オリンピックで、テコンドー女子57㎏級でキーミヤー・アリーザーデ=ザヌーズィーが銅メダルを獲得し、イラン初の女性メダリストとなった。なお2020年にアリーザーデ=ザヌーズィーはイランからドイツへ亡命し、2021年に実施された東京2020オリンピックでは難民選手団の一員として参加した。
11月23日 1981年~1989年まで最高裁判所長官として当時の司法府の最高責任者を務め、ホメイニー師没後には改革派のイスラーム法学者の一人に数えられていた法学権威アブドルキャリーム・ムーサヴィー=アルダビーリーが90歳で死去。
2017年
1月8日 国会議長、第5期・第6期大統領、公益判別評議会議長などを務めた体制内の保守穏健派のキーパーソンであったラフサンジャーニーが死去。
4月15日 11日から行われていた第12期大統領選挙の候補者届が同日に締め切られた。1636人の届出のなかから資格審査を経て、4月20日に内務省より現職のロウハーニー、ガーリーバーフ、エブラーヒーム・ライースィー、モスタファー・ハーシェミータバー、モスタファー・ミール=サーレム、エスハーク・ジャハーンギーリーが正式な候補として発表された。第9・10期大統領であったアフマディーネジャードによる立候補が認められないなど、変化する国際情勢を意識したかのような資格審査結果となった。
5月19日 4月21日から行われていた選挙戦が終了し、同日に第12期大統領選挙の第1回投票が実施され、ジャハーンギーリーおよびガーリーバーフの選挙戦からの撤退を受けて、現職のロウハーニーが過半数を超える57.14%の得票により当選が確定した。
12月27日 テヘランのエンゲラーブ通りのパッドマウントの上で、ヴィダー・モヴァッヘデが脱いだ白いヒジャーブを旗を掲げるように持ち、ヒジャーブ強制への抗議運動を行い、逮捕された。佇む様子を撮影した写真がSNS上で広がり、「エンゲラーブ通りの少女」運動として、ヒジャーブ強制に対する抗議運動として広がった。
12月28日 物価高騰などへの政府批判デモがマシュハドから起こり、数日間のあいだに全国的に広がりを見せるとともに、強硬なデモ鎮圧によって次第に反体制運動へと発展し、2009年の緑の運動以来の大規模な騒乱が翌年1月8日にかけて展開した。
2018年
2月18日 テヘランから南部のヤースージュに向かっていたアーセマーン航空3604便がザグロス山脈のダナー山に衝突し、乗員乗客66名が死亡。
5月8日 2017年1月に就任したアメリカ第45代大統領ドナルド・トランプが包括的共同作業計画からのアメリカの撤退を発表し、イランの核開発を防ぐための新たな取り決めとイランを交渉に応じさせるために史上最大の経済制裁を課す方針を示した。5月9日にイランの国会では、トランプ政権の対応を批判し、アメリカ国旗と燃やした。
8月7日 イランを新たな核合意交渉に応じさせるため、トランプ政権によってイランへの経済制裁の一部が再開。
9月1日 歴史学と言語学を中心としたイラン学の大家であり、イラン学の集大成である 『イラン大辞典(Encyclopædia Iranica)』の編者の一人であり、コロンビア大学のイラン研究所所長などを務めたエフサーン・ヤールシャーテルが98歳で死去。
11月12日 イラン西部のケルマーシャー州のサルポレ・ザハーブでマグニチュード6.3の地震が発生し、700名以上が死亡。
2019年
6月12日 同日から14日にかけて、1978年の福田武夫首相以来41年ぶりに、安倍晋三首相がイランを訪問。ロウハーニー大統領らと首脳会談を行ったほか、ハーメネイー最高指導者と面会した。
6月13日 イランとアメリカおよびサウジアラビアとの緊張関係が高まるなか、オマーン湾に向けてホルモズ海峡を航行中のタンカー、フロント・アルタイル(ノルウェーのフロント社所有)とコクカ・カレイジャス(日本の三菱ガス化学の関連会社国華産業所有)が攻撃を受け火災。乗組員らはイランおよびアメリカ軍などに救出される。
11月15日 同日の政府によるガソリン価格の値上げ(政府がガソリン価格を 60L/月までは 1万リヤール/ Lから 1.5倍の 1万 5千リヤール/ Lに、 60L/月以上は 3万リヤール/ Lに)発表後、19日にかけて国内各地で抗議運動が発生。即時体制転覆のスローガンが唱えられるなど反体制運動化が進み、治安維持部隊による武力鎮圧によって運動側で死傷者が多数発生。一部都市では虐殺の可能性も伝えられた。強力な運動弾圧によって、20日以降になると大規模な運動は沈静化した。
2020年
1月3日 2019年12月31日~2020年1月1日にかけてバグダードの米国大使館への攻撃の報復措置として、イラクのバグダード空港でイランのガーセム・ソレイマーニー革命防衛隊司令官らが米軍の無人機によって暗殺。イラン側は全土にわたってソレイマーニー司令官らの追悼と米国への報復を掲げた。
1月8日 ソレイマーニー司令官ら暗殺の報復として、在イラク米軍基地をイランの革命防衛隊が地対地ミサイルで攻撃。イラン・アメリカ間の急激な緊張関係の高まりのなか、テヘランの国際空港を飛び立ったウクライナ国際航空752便が墜落。当初航空機の機械的故障とイラン当局は否定していたが、11日に革命防衛隊の地対空ミサイルの誤射による撃墜であると認めた。イラン国内ではウクライナ国際航空機の搭乗者たちの追悼と革命防衛隊の誤射を非難する抗議デモが発生し、ソレイマーニー司令官暗殺に対する報復はトーンダウンしていった。
2月19日 宗教都市ゴムで二人の新型コロナウイルス感染者が判明。21日に実施されたイスラーム評議会選挙以降、イラン全土で陽性者が急増するとともに、死者も急増し、世界的に深刻な国の一つとして注目を浴びた。
2月21日 第13期イスラーム評議会選挙の第1回投票が実施され、290議席のうち279議席が確定。第2回投票が新型コロナウイルス感染症拡大に伴い9月11日まで延期され、最終的にイスラーム革命勢力統一議会(保守強硬・177議席)、イスラーム革命永続戦線(保守強硬・94議席)、正義探求議会運動(保守強硬・1議席)、中庸発展党(保守穏健・36議席)、建設の奉仕者党/ハーシェミーの賛助者たち(中道・7議席)、無所属(保守派・30議席、中道・1議席、独立系1議席)、宗教的少数派5議席、空白1議席となり、保守強硬派が圧倒的優位の議会構成となった。
10月8日 革命期に反王政運動を鼓舞し、革命後も民衆の歌手として国民的歌手の代表となったモハンマド・シャジャリヤーンが死去。
2021年
1月1日 前年12月9日に亡くなったモハンマド・ヤズディーに続き、保守強硬派の精神的支柱の一人であったメスバーフ=ヤズディーが死去。
1月8日 ハーメネイー最高指導者が英国、フランス、米国の新型コロナウイルスのワクチン輸入を禁止する。
5月15日 11日から行われていた第13期大統領選挙の立候補届が同日に締め切られた。監督者評議会の資格審査を経て、前回も出馬したライースィー、ジャリーリー、レザーイー、アリーレザー・ザーカーニー、アブドッナーセル・ヘンマティー、モフセン・メフルアリーザーデ、アミール=ホセイン・ガーズィーザーデ=ハーシェミーの7名が立候補資格を認められる。前回に続きアフマディーネジャードの立候補が認められないなど、ライースィーに対抗する目ぼしい候補者がいないなかで選挙戦が行われることになった。

6月18日 第13期大統領選挙の投票が行われ、選挙戦から撤退したジャリーリー、メフルアリーザーデ、ガーズィーザーデ=ハーシェミーを除く4名の候補者のなかから、司法権長のライースィーが過半数を超える72.35%の得票により当選を果たした。ライースィーは全選挙区で勝利したものの、48.48%という過去最低の投票率であり、同大統領選挙に対する有権者の冷やかな態度が示された。
7月23日 同日から開催された東京2020オリンピックで、イラン選手団が射撃、レスリング、空手の金メダルを含み、7つのメダルを獲得した。
2022年
2月1日 ホメイニー師没後に体制が推薦する法学権威であったレザー・ゴルパーイェガーニー師の娘婿であり、元監督者評議会議員(1980-1985)であった、ゴムの法学界の重鎮ロトフォッラー・サーフィー=ゴルパーイェガーニー師が102歳で死去した。ゴムで行われた葬儀では、娘婿のアリー・キャリーミー=ジャフロミー師が礼拝導師を務めたが、ゴムではなく2月3日にイラクのカルバラーに埋葬された。
2月8日 ウィーンでの核合意交渉が行われる。合意間近と思われていたことから、イラン国内では交渉団へのライースィーの姿勢を翼賛し、ロウハーニー前大統領の姿勢を批判する記事が国内メディアで飛び交った。しかしウクライナとの開戦でロシアへの経済制裁が課されるなか、イランを介したロシアの経済制裁の抜け穴を作るため、ロシアがアメリカに核合意に伴うイランとの貿易取引の権利の保証を求めたために核交渉について最終的な合意には至らなかった。
3月15日 ゴム講師協会など体制派によって一般信徒に推奨する法学権威として紹介されていたイスラーム法学者のなかでは最も若手であったモハンマド=アリー・アラヴィー=ゴルガーニー師が81歳で死去し、ゴムに埋葬された。
5月23日 イラク国境に近い南西部のアバダーンで建設中の高層ビルが崩壊し、作業員ら41人が死去する事故が発生する。食糧価格の高騰への抗議行動と結びつき、シーア派の宗教儀礼の形式で事故の犠牲者への哀悼と事態への抗議が行われる。
7月12日 ヒジャーブ強制に対する抗議として、同日にヒジャーブを脱ぐ呼びかけに応じ、イラン各地で女性が屋外でヒジャーブを脱ぎ、SNSに投稿する運動が実施。

書誌情報
黒田賢治「イラン21世紀年表」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, IR.3.02(2023年1月10日掲載
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/iran/timeline/