アジア・マップ Vol.01 | クウェート

《総説》
クウェートという国

保坂 修司(日本エネルギー経済研究所・理事・中東研究センター長)

【国名】クウェート国(Dawla al-Kuwayt / State of Kuwait)。正則アラビア語ではクワイト。

【国土】面積は四国とほぼ同じ17,818㎢。国土の大半は沙漠で、雨はきわめて少なく、淡水もほとんどない。気温は2016年には56℃を記録、また、海に面していることから湿度は年間を通じて高い。

【人口】4,464,521(内クウェート人は1,365,171人(2020年))。

【言語】公用語はアラビア語(母語は湾岸方言のなかのクウェート方言)だが、英語も広く通じる。

【民族構成】クウェート国籍保有者の大半はアラブ人だが、イラン系(アヤム)も少なくない。また、パレスチナ人等アラブ系の帰化人もいる。クウェートは全人口の半分以上を外国人が占める。そのなかには、インド人、パキスタン人、バングラデシュ人など南アジア出身者、東南アジア出身者、アラブ人等中東出身者のほか、欧米出身者も少なくない。また、無国籍者(ビドゥーンbidūn)も人口の10%程度を占めるといわれている。

【宗教】イスラームが国教で、国民のほとんどがムスリムで。スンナ派が多数だが、シーア派も30%以上を占めるとされる。また、クウェート人のなかにはわずかながらキリスト教徒も存在する。ユダヤ教徒のコミュニティーも20世紀なかばぐらいまでは存在したが、その後、消滅した。一方、クウェート在住外国人もムスリムが多いが、キリスト教徒やヒンドゥー教徒も多くいる。

【政治】君主(首長)制。国家元首は首長(アミールamīr)で、首長が慣習的に首長家メンバーから首相を任命。立法府は任期4年の一院制(国民議会)で、5選挙区各定数10。

【経済】主要産業は石油産業。政府歳入の約9割を石油関連収入が占める。確認埋蔵量は世界7位の1015億バレル、生産量は日量274万バレル(BP統計2022年)。GDPは1060億ドル、1人当たりGPDは24,812ドル(世界銀行2020年)。

【歴史】クウェートはペルシア湾最奥に位置し、紀元前8000年ごろには人が住んでいたとされ、紀元前4000年ごろから栄えたディルムン文化の中心の一つであった。とくにファイラカ(クウェート方言では「フェーラチャ」)島はメソポタミア文明とインダス文明間の中継貿易の拠点となっていた。その後もクウェートの地は、バビロニア、アケメネス朝、さらにセレウコス朝、サーサーン朝など大国の統治を受けた。イスラーム軍対サーサーン朝の最初の戦いが行われたカージマは現在のクウェート市北方にある。

 17世紀ごろから現在のクウェートの地はグレイン(Gurayn/al-Qurayn/Grane)の名で資料に登場する。当時アラビア半島東部を支配していたのはバニー・ハーリド族だったが、18世紀前後から断続的にアラビア半島中央部にいた「アナザ族」を中心とするアラブ部族がクウェートに移住してくる。彼らは「移住者」を意味する「ウトゥーブ」と呼ばれ、現在のクウェートの首長家、スバーフ家(Āl Ṣubāḥ(日本では一般的に「サバーハ家」と呼ばれる))やバハレーン王族であるハリーファ家、さらに現在のクウェートの主要財閥もこのウトゥーブに含まれている。伝承によれば、スバーフ家は18世紀なかばに住民からクウェートの統治者に「選ばれた」とされる。なお、「クウェート」という名称が一般的になるのは18世紀以降である。

 当時のクウェートは小さな漁村で、天然真珠採取と中継貿易を主な産業としていた。18世紀のデンマークの旅行家、カールステン・ニーブールによれば、クウェートには800隻以上の船があったという。

 当時のクウェートは、政治的支配者としてのスバーフ家を商人たちが経済的に支える社会構造になっていた。一方、商人たちはインド、東アフリカからアラビア半島中央、イラク、シリアを結ぶ中継貿易に従事し、有力商人はしばしば船主を兼ねていた。

 また、ペルシア湾の地場産業である天然真珠採取は、船主・船長・乗組員(潜水夫、潜水補助、料理人、歌手等)というピラミッド型の社会構造になっていた。収穫の時期には地元クウェートだけでなく、インドや中東、さらにヨーロッパからも真珠商が集まってくる。そのほか、船大工や真珠採取のための道具作り、世界中からやってくる真珠商たちのための宿泊施設の経営などを含めれば、真珠産業は文字どおりクウェート社会を支える基幹産業であった。クウェートの国章に船が描かれているのは、彼らが基本的に海の民であることの証である。 しかし、真珠採取は構造的に不安定であり、乗組員は食料や道具類を購入したり、出漁中の家族の生活費としたりするために、船長に借金をし、船長は船の使用料や修繕のために船主に借金、船主は船を建造するために、真珠商に借金するというように、ピラミッドの下層から上層まで借金体質でできていた。収穫が十分なら、借金を返済できるが、収穫が悪いと、借金は翌年に積み増しされてしまう。

 20世紀には真珠経済は完全に制度疲労に陥っていた。スバーフ家は改革に乗り出すが、真珠産業に従事するものの多くは改革に反対、しかも、1920年代以降に日本で養殖真珠が開発されたり、1929年の世界恐慌で真珠購買層である富裕層が没落したりしたため、天然真珠採取は産業として壊滅してしまう。

 しかし、1938年、クウェートで石油が発見され、第2次世界大戦後に開発が本格化すると、クウェートは世界有数の産油国・富裕国へと変貌、また、その石油収入に惹かれて世界中から人びとが集まってくるようになった。クウェートは、石油を海外に売って、その収入を国庫に入れ、そこから国民の多くを占める公務員の人件費を出し、教育や医療費など政府サービスを提供する、いわゆる「レンティア国家」を形成する。しかし、近年は地球温暖化の元凶として化石燃料への批判が強まることを含め、経済を多様化し、石油依存経済からの脱却を目指している。

 一方、政治的には18世紀から現在までスバーフ家の統治がつづいている。しかし、クウェートのような小さな領域が、オスマン帝国やイラン、サウード家等の大国に囲まれながら、独立を維持することは困難であり、スバーフ家は、周辺大国のあいだを上手に立ち回りながら、実質的な独立を保ってきた。そして、19世紀末、国内でオスマン朝派と英国派間の対立が発生すると、英国派のムバーラクがクーデタで統治者の地位を奪い、英国と秘密条約を締結、クウェートは英国の保護下に入った。以後、クウェートの統治者は、このムバーラクの系譜から出されることになる。

 また、1920年代には、折からの経済状況の悪化で国民の政府に対する不満が高まったこともあり、クウェートでは有力商人層や知的エリートを中心に議会運動が発生、1921年の諮問議会、1938年の立法議会として結実するが、いずれも短命に終わった。しかし、クウェートで湾岸地域最初の議会が設置されたのは、今日のクウェートで、不完全ながらも、民主主義が根づいていることと無関係ではないだろう。

 統治者としてのスバーフ家とそれを経済的に支える有力商人層は互恵的な関係にあると同時に、相互に牽制しあっていた。そのため、スバーフ家は、シーア派や部族層と友好的な関係を構築して、スンナ派財閥の力を抑えようとした。さらに、石油発見後は、石油の富をスバーフ家が確保したため、財閥の経済力から独立することも可能になった。

 1961年にクウェートが英国から独立すると、すぐに制憲議会が設置され、その後、それは国民議会となった。当初、財閥層は国民議会を中心に行政府を掌握するスバーフ家と対抗してきたが、今日では財閥は、立法府よりも、行政府に食い込むことで、影響力を保持しようとしている。

 しかし、スバーフ家率いる行政府にとって、立法府が煙たい存在であることは今も継続しており、国家元首たる首長はしばしば国民議会を停止したり、解散したりする措置を取っている。近年では政府と議会の対立が恒常化しており、政治改革や経済政策が停滞し、他の湾岸諸国で見られる開発独裁を期待する声さえ上がっている。

 他方、外交関係では、当初からサウジアラビアやイラクとの対立が顕在化していた。とくにイラクは、オスマン帝国のアラブ地域における後継者としてかつてオスマン帝国主権下にあったとしてクウェートを自国領と主張、1990年にはクウェートに侵攻、占領してしまった。翌年、米軍主導の多国籍軍によって解放された。クウェートはその後、国際的には中立的立場を取り、湾岸地域の紛争ではしばしば調停役をつとめるようになった。

クウェート国立博物館に陳列されていた、大型の「ダウ船」、正しくは「ブーム」という。

写真1:クウェート国立博物館に陳列されていた、大型の「ダウ船」、正しくは「ブーム」という。

1979年に建造されたクウェートのシンボル、クウェートタワー。

写真2:1979年に建造されたクウェートのシンボル、クウェートタワー。

クウェート郊外の沙漠地帯をうねるように走る石油パイプライン。

写真3:クウェート郊外の沙漠地帯をうねるように走る石油パイプライン。

書誌情報
保坂修司「《総説》クウェートという国」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, KW.1.01(2023年1月10日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/kuwait/country/