アジア・マップ Vol.01 | クウェート

《エッセイ》
クウェートと私

保坂 修司(日本エネルギー経済研究所・理事・中東研究センター長)

 私がクウェートに住んでいたのは1989年から1991年までのわずか2年間、しかも、そのうちの4か月間はイラクにいたので、実質的には2年に満たないことになる。とはいえ、そのときの経験は、ふつうの人では望んでもできないものであった。1990年8月2日、北の隣国イラクが侵攻、あっという間にクウェートを占領してしまったのである。いわゆる湾岸危機だ。

 すでにその半月まえから、イラクが突然、クウェート非難をはじめ、国境沿いに軍を展開した。当時、私は在クウェート日本大使館の専門調査員として勤務しており、不謹慎ではあるが、研究者としてこういうヒリヒリする場面に遭遇できたことに内心ゾクゾクしていた。

 日本のメディアのなかでは朝日新聞のみがカイロから萩谷順特派員をクウェートに派遣して取材にきたが、それに乗じて、記者に同行するかたちで、イラクとの国境まで視察にいったりもした。大使館からは危険なことをするなといわれていたので、大使館の許可を得ずに行ったのだが、まあ、時効だろう。

 萩谷記者が無事クウェートを去った数日後、イラクがクウェートに侵攻した。その後、在クウェート日本大使館はなぜイラクの侵攻を予見できなかったのだと批判されたが、この時点ではバグダードで両国間の直接交渉が行われるはずだったので、まさかそんななか攻め込んでくるとは考えなかっただけで、仮に侵攻があるとしたら、その交渉決裂後だろうとの見立てであった。 イラクは、クウェートで革命が発生し、イラクに支援を求めたため、軍を派遣したと主張していたが、もちろん誰も信じていなかった。とはいえ、イラクとしては、このロジックを押し通し、クウェート占領後には、クウェートにできた「クウェート自由暫定政府」からの要請を受け、クウェートを併合したというプロセスを経なければならなかった。

 もちろん、イラクはオスマン朝のアラブにおける後継者を任じており、オスマン朝の宗主権を一時期、受け入れていたクウェートを自国領と見なし、はじめからクウェート併合を目的とする領土的野心があったというが一般的だった。また、クウェートの名前をイスラーム軍がサーサーン朝を破った古戦場跡の「カージマ」とあらため、イラクの一県としたのは、サッダームのイランに対する敵愾心を反映したものだろう。

 当時、クウェート人といえば、石油成金、傲慢という悪評が一般的だった。たしかに、欧米のメディアではロールスロイスやメルセデスで逃げきてきた難民などと揶揄されていたが、イラク占領下に残ったクウェート人たちは炎天下、水も食料も、また電気もままならないなか耐え忍び、なかにはレジスタンスとしてイラク軍と戦うものも少なくなかった。

 翌年、米軍主導の多国籍軍によりクウェートは解放され(湾岸戦争)、クウェートは独立を取り戻した。私は戦後すぐにクウェートに戻ったが、残念ながら、自宅アパートからは、家財道具のみならず、1年半のあいだに収集したクウェートや湾岸関連の書籍や文書もすべてなくなっていた。紛争地である中東の研究をする場合、当然、みずからに危害がおよぶ可能性は考えておく必要はあるのだが、実は、私が本を失うのはその昔、自宅が火事で全焼したとき以来、2回目だったので、これには正直、心がくじけそうになった。

 湾岸戦争後、クウェート政府が米国の新聞に感謝広告を出したとき、そこに日本の名前が抜けていたため、大騒ぎになった。日本は130億ドルも拠出したのに金を出すだけではダメだ、やはり汗や血を流さなければ感謝されないとして、一気に自衛隊の海外派遣に道が開かれたのをご記憶のかたも多いだろう。

 クウェートでもこの問題は認識されており、私自身、クウェートの政府関係者と会うたびに、こちらが恐縮してしまうほど、彼らが平謝りに日本への感謝を伝えてくれたのを思い出す。感謝広告に日本の名前が抜けていたのは、広告を発注したクウェートの在ワシントン大使館の単純ミスであり、実際にはクウェート人の大半は、日本の憲法上の制約についても知っており、日本の貢献には十分感謝していたのである。

 2011年3月11日、東日本大震災が発生、2万人近い犠牲者が出た。クウェートは、政府からの救援金として1億5742万円(為替レートは当時のもの、以下同)を送ってくれたほか、産油国らしく原油500万バレルを無償提供してくれた。原油は日本の元売り石油会社が引き取り、その代金の約400億円が日本赤十字社に寄贈された。さらにその後、約4億円が追加されている。

 クウェートからの救援資金は、岩手では三陸鉄道の復興等に利用され、新しい車両購入に充てられた。今でもこれらの車両の前後には、クウェートの国章がつけられ、側面にはクウェートへの感謝の言葉が添えられている。

 また、福島ではクウェートからの支援金300万ドルを使ってアクアマリンふくしまの復興を行っており、クウェートへの感謝を示すために、「クウェート・ふくしま友好記念日本庭園」が建造された。

 東日本大震災に対する海外からの支援としては米国や台湾から莫大な義援金が届いたことが話題になった。しかし、金額だけでいえば、1位は圧倒的にクウェートである。日本赤十字社が受け入れた海外救援金総額1千億円のうち、実に4割がクウェートからなのだ(2016年2月現在)。

クウェートの油井火災、鎮火風景。湾岸戦争末期にイラク軍がクウェートの油田に放火、大規模な環境破壊が起きた。

写真1:クウェートの油井火災、鎮火風景。湾岸戦争末期にイラク軍がクウェートの油田に放火、大規模な環境破壊が起きた。

三陸鉄道の車両。正面にクウェートの国章がつけられている。

写真2:三陸鉄道の車両。正面にクウェートの国章がつけられている。

アクアマリンふくしま(福島県いわき市)のクウェート・ふくしま友好記念日本庭園。アラビア語で「サラーム(平和)」と書かれた碑がある。

写真3:アクアマリンふくしま(福島県いわき市)のクウェート・ふくしま友好記念日本庭園。アラビア語で「サラーム(平和)」と書かれた碑がある。

書誌情報
保坂修司「《エッセイ》クウェートと私」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, KW.2.02(2023年1月10日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/kuwait/essay01/