アジア・マップ Vol.01 | クウェート

クウェート21世紀年表  

石黒大岳(ジェトロ・アジア経済研究所 副主任研究員)

1999年
5月4日 ジャービル首長は1986年以来となる13年ぶりに国民議会を解散した。湾岸戦争を経て1992年に議会が復活してからは初めての解散となる。前回の選挙(第8回)は1996年10月であった。議会選挙(第9回)は7月3日に投開票が行われ、リベラル派とイスラーム主義勢力を含む野党勢力が50議席中34議席を獲得し、政府は1996年議会以上に、政策遂行にあたって議会対応に苦慮することとなった。
5月4日 クウェートを訪問した与謝野通産大臣がサウード石油相とアラビア石油の石油利権協定の更新問題について協議した。
5月16日 ジャービル首長は国民議会解散中の緊急法令として、女性参政権(選挙権・被選挙権)を付与し2003年選挙からの実現をめざす首長令を発した。選挙後に召集された国民議会では、憲法に基づき11月23日に緊急勅令の承認について審議されたが、過半数の議員が議会軽視の強引な手法に反発して承認せず、首長令は無効となった。その後、リベラル派を中心に女性参政権を認める選挙法の改正案を提出したが、11月30日の採決では僅差で否決された。
2000年
7月2日 サウジアラビアとの旧中立地帯における国境線画定で合意し、両国首脳がクウェートにて協定書に調印した。
7月4日 憲法裁判所は、女性参政権を認めない選挙法の違憲判断を求める女性活動家らの訴えを却下した。以降、女性活動家の有権者登録の拒否などをめぐって違憲判断を求める訴えが起こるが、主に手続き上の理由により憲法裁判所は訴えを棄却した。
7月26日 電力不足への対応のため、イランとの間で、天然ガスの購入とパイプラインによる供給についてMOUを締結した。翌27日にはカタルとも天然ガス購入・パイプラインによる供給についてMOUを締結した。天然ガスの輸入は実現したものの、ドルフィン・プロジェクトと称される3カ国をパイプラインで連結する計画は、途中領海を通過するサウジアラビアとカタルの関係悪化により進展していない。
11月9日 湾岸戦争後も駐留を続ける米軍に対する自爆テロ未遂で、クウェート人3人の過激派が逮捕された。以降、米国同時多発テロやイラク戦争を契機に、駐留米軍の排除を狙ったテロ事件が発生するようになる。
2001年
1月29日 サアド首相とサバーフ第一副首相兼外相との間で政権運営をめぐる対立が表面化し、外相の辞表提出に多くの閣僚が追従したため、サアド皇太子兼首相がジャービル首長に辞表を提出し、内閣は総辞職した。ジャービル首長は2月4日に改めてサアド首相を指名し、14日に新内閣発足となった。
2月25-26日 湾岸戦争終結とイラクによる占領からの解放10周年の記念式典が開催され、 海部元首相が招待された。
9月21日 ジャービル首長が脳内出血のため、国内の病院で応急処置を受けたのち、ロンドンの病院へ緊急移送された。同24日には集中治療室から一般病室へ移動した(翌年1月15日帰国)。サアド皇太子兼首相にも健康不安があったため、政権運営におけるサバーフ第一副首相兼外相の主導権が強まることとなった。
9月18日 石油省は、アラビア石油が持つ旧中立地帯での採掘権が期限切れを迎えることにともなう採掘権延長問題にて、期限切れ後のアラビア石油の役割に関する基本原則の覚書に調印した。採掘権の協定は独立前の1958年に締結されていたが、独立後の憲法では外国企業による国内天然資源の所有を認めていないことに加え、操業権についても議会の反対が強く、技術提供と長期売買契約、ガス田開発等への低利融資に限定されることとなった。アラビア石油の採掘権失効後の操業管理については、9月11日にサウジアラビアと旧中立地帯での共同操業に合意した。
10月9日 アルジャジーラの衛星放送で放映されたアルカーイダの声明映像に、クウェート国籍のスライマーン・アブー・ガイスがスポークスマンとして登場した。翌10日に政府は国家への反逆と国際的な犯罪(9.11米国同時多発テロ事件)への関与を理由に、アブー・ガイスの国籍を剥奪する決定を発表した。報道によれば、アブー・ガイスは2001年6月に家族とともにアフガニスタンへ渡航し、ビンラーディンらに合流していた。2002年3月に生まれたとされる彼の娘に対しては、人道上の理由からジャービル首長の命令により同年6月1日にクウェート国籍が付与された。
2002年
3月27日 石油省は、アラビア石油との間で、旧中立地帯にあるカフジとフートの両油田 における新契約の最終合意に至ったことを発表した。2003年1月4日をもって採掘権契約が満了し、技術サービス契約提供と長期販売保証とのバーターとなる新契約で合意となった。既に前年10月16日に最高石油評議会で新契約案は承認されていたが、北部油田火災事故の発生と石油相の引責辞任が重なり対応に遅れが生じていた。2003年1月4日をもって旧中立地帯でのアラビア石油の採掘権は失効し、クウェート石油公社(KPC)の子会社に移管された。
4月1日 野党会派の議員の要求により、ムサーイド・アルハールーン教育相に対し、1996年に制定された大学における男女分離を定めた法律の不履行と、大学当局に対する管理責任を問う問責質問が行われた。同教育相は施設改修費用の確保に努めることで2003年度中に対応を完了する答弁を行い、議員の理解を得られたため、不信任決議案の提出には至らなかった。
6月24日 クウェート投資庁(KIA)の不正な資金運用疑惑と、1999年選挙で中央銀行の公的資金が特定議員の選挙資金支援に流用された疑惑について、イブラーヒーム財務相に対する問責質問が行われ、終了後の翌朝に野党会派議員らは不信任決議案を提出した。7月3日に実施された採決では1票差で否決された。
12月8日 イラクのフセイン大統領がクウェート国民に1990年の侵攻について謝罪を表明した。しかし、米軍の駐留についてクウェート政府を非難し、国民に共闘を訴える内容であったため、クウェート政府・メディアは激しく反発し、国民の分断を図りテロを助長するものであり、イラクに対する武力行使の可能性が高まるなか、クウェート側が国連安全保障理事会に武力行使を煽っているように印象付けようとするものとして批判した。特にクウェート側が解決を求めている約600名の戦争捕虜(POWs)の解放問題について言及がなく、目立った対応が取られなかったことも口先だけの謝罪として非難の対象となった。
2003年
3月20日 米国を中心に有志連合軍によるイラクへの武力行使が開始される(イラク戦争)。出撃拠点となったクウェートには、米英軍のほか、2月23日から3月6日にかけて、順次GCC各国よりクウェート防衛のための同盟国防衛軍「半島の盾」を構成する部隊が派遣された。アラブ諸国での反戦論の高まりから、3月23日には在リビア大使館が襲撃される事件が発生した。また、イラクへの武力行使反対と即時撤退を求めた3月24日のアラブ連盟外相会合声明に対し、クウェートは内容への不満から声明の採決を棄権した。3月29日には、イラクから発射されたミサイルが首長府から約2km離れた市内のショッピングモールに着弾し、負傷者が発生した。
5月1日 イラク戦争に関し、米国ブッシュ大統領による大規模戦闘終結宣言を受け、ラムズフェルド国防長官をはじめ、米英政府高官の訪問が相次いだ。米国ブッシュ大統領の訪問は6月3日に予定されていたが、直前にクウェート側から延期が発表された。英国ブレア首相は5月28日に訪問し、首脳会合を行ったのち、イラクへ移動してイラク国内に駐留する兵士を慰労・激励した。
5月10日 フセイン政権の崩壊で、クウェート人POWs問題の解決への期待と、問題解決が進展しなかったことへの政府批判を受けて結成された捜索チームが、米軍との合同捜索でイラク南部サマーワの集団墓地で発見された遺体のDNAサンプルを持ち帰った。鑑定の結果POWsであることが認められた。以降、イラク国内での遺体・遺骨の発見が相次ぎ、7月以降に約30名の身元確認が進むが生存者情報はなかった。
7月5日 国民議会の任期満了に伴い、第10回選挙の投開票が行われた。結果はリベラル系会派・政治団体が惨敗し、政府支持の部族代表、特定の政治団体・会派に属さない無所属の保守・イスラーム主義者が多数派となった。選挙後、内閣は憲法の規定に従い総辞職し、7月13日にジャービル首長はサバーフ前第一副首相兼外相を新首相に指名した。サアド 皇太子が首相を離れることとなり、議会が求めていた皇太子と首相の分離が実現したが、サアド皇太子の健康問題もあり、政権運営の主導権がサバーフ新首相にあった現状を追認したものでもあった。翌14日に新内閣が発足した。
9月6日 サバーフ首相が米ブッシュ大統領の招待で米国を訪問し、同10日にホワイトハウスで同大統領ほか高官と会談した。同23日には国連総会演説を行い、イラク再建の支援表明とともに、イラク国内でのテロ事件を非難した。また旧政権が否定していたPOWs解放問題で身元判明者がいずれも銃殺されていたことについて改めて非難するとともに、解決への協力を訴えた。総会の傍ら米国主催のレセプションに参加し、各国首脳と会談を行い、10月4日に帰国した。
12月22日 日本との地位協定締結を発表。イラク復興支援特別措置法に基づき同27日に航空自衛隊先遣隊がクウェート入りし、アリー・アッサーレム空軍基地を拠点に活動を開始した。
2004年
1月24日 ラク復興支援のため派遣された航空自衛隊本体第1陣がムバーラク空軍基地(クウェート国際空港)に到着し、3月3日よりイラクへの物資輸送任務を開始した。陸上自衛隊の主力部隊は2月22日から3月22日にかけて同基地に到着し、順次イラクへ移動し、3月末までに活動拠点のサマーワへの移動を完了した。
6月1日 イラク暫定政権の発足に対し、ジャービル首長とサバーフ首相は祝電を送り、6月28日にはイラクとの国交回復の方針を発表した。7月27日にイラク側からジャアファリー副大統領が、7月31日にはアラウィー首相が訪問し、侵攻から14周年となる8月2日に国交回復の共同声明を発表した。
7月5日 サバーフ首相がアジア歴訪に出発し、中国訪問後の7月12日に来日し、天皇陛下と会見した。翌13日に小泉首相と会談後、韓国・シンガポール訪問を経て20日に帰国した。
7月25日 ナウワーフ内相は、アルカーイダ支持者の摘発に関して、イラクで外国軍と戦う過激派による戦闘員のリクルートがクウェートで行われていたことを公式に認めた。
11月11日 パレスチナのヤーセル・アラファート初代大統領(PLO議長)の死去に対し、湾岸危機の際にイラク支持を表明していたことから、他のアラブ諸国と異なり冷淡な対応で、葬儀にもアフマド・ファハド・エネルギー相が参加したのみであった。アラファト死去後、関係改善が進められ、12月13日にアッバース大統領が訪問し、湾岸危機でのPLOの対応について正式な謝罪を行い、クウェート側がこれを受け入れた。
2005年
1月10日 治安部隊と過激派との銃撃戦がハワッリー地区で発生し、治安部隊2名が犠牲となった。同16日にはアリフジャーン米軍補給施設に近い南部ウンム・アルハイマーン地区で、同30日には外国人居住者の多いサルミヤ地区で銃撃戦が発生し、巻き込まれた民間人の犠牲者(バハレーン人)が出た。翌31日には治安部隊がムバーラク・アルカビールの過激派拠点を襲撃し、首謀者らを逮捕した。相次ぐ銃撃戦を受けて、政府は武器の不法所持取締強化の法案を2月1日に国民議会に提出し、満場一致で可決された。
1月29日 サラフ主義者(サラフィー)が湾岸初の政党となる「ウンマ」党の結成を宣言した。相次ぐイスラーム過激派によるテロへの非難や女性参政権をめぐる世論の動向を受けたイスラーム主義の穏健化傾向が強まるなか、2月21日には女性参政権を認める声明を発表した。
3月8日 国際女性デーに合わせて、女性参政権の実現を訴える集会が国民議会前広場で行われた。また同日、女性参政権を認める選挙法の改正案が国民議会で審議入りした。5月16日の採決では賛成多数で法案が可決され、次の国民議会選挙から適用されることとなった。法案成立を受けて政府は6月2日に市政評議会に女性2名を含む政府任命議員を任命し、6月12日にはサバーフ首相が初の女性閣僚としてクウェート大学社会科学部のマアスーマ・ムバーラク教授を計画相兼行革担当国務相に任命した。
2006年
1月15日 ジャービル首長が死去し、サアド皇太子が首長に即位した。しかしながら、健康不安を抱えており、1月16日の国民議会の非公式協議において、憲法で定められた国民議会特別会合で新首長の宣誓が行える状態にないことが明らかになった。そのためため、首長位継承法に基づき、内閣が首長廃位手続きに入り、1月24日の国民議会特別会合にてサアド首長の廃位が全会一致で可決された。サアド首長の廃位後、内閣は臨時閣議でサバーフ首相を首長に指名した。1月29日に召集された国民議会特別会合でサバーフ首相は新首長の宣誓を行い、国民議会において全会一致で新首長への「忠誠の誓い」を受け、正式に首長として即位した。サバーフ首長は2月7日にナウワーフ第一副首相兼内相を皇太子に指名し、ナーセル・ムハンマド首長府担当国務相を首相に指名した。ナウワーフ皇太子の国民議会での宣誓は2月20日行われた。ナーセル首相は組閣を行い、2月9日に新内閣が発足した。
3月29日 「シルク・シティ」構想のマスタープランが発表された。シルク・シティ構想は、現代のシルクロードの西の起点として、クウェート・シティからクウェート湾をはさんだ北部の対外にあるスビヤ地区を中心に金融と貿易のハブ都市を建設する構想で、ナーセル・サバーフ首長府長官(サバーフ首長の息子)が中国訪問時に投資の誘致とともに構想を提唱していたとされる。
5月5日 選挙制度改革を求めるデモが行われ、全国5選挙区制を求める「オレンジ運動」として拡大した。国民議会では5月15日に行われた審議で、選挙区を25区から10区に変更する政府法案の審議に対して、5区に削減することを求める議員29名が審議中に退席し、選挙制度改革を求める野党会派連合として「29会派」を結成した。政府および政府法案を支持する部族系議員と野党連合会派の対立が深まり、野党側がナーセル首相の辞任を要求したため、サバーフ首長は5月21日に国民議会を解散した。
6月29日 第11回国民議会選挙の投開票が行われ、女性参政権が実現した。28名の女性が立候補したが、当選者は出なかった。主要な争点となった選挙制度改革では、5区制を支持する野党会派連合の「29会派」候補者が50議席中33議席を獲得した。選挙結果を受けて新たに召集された議会では、7月17日に選挙区を5区に削減する選挙法の改正案が賛成多数で可決成立した。
10月9日 野党系のリベラル寄り議員が「国民行動会派」の結成を宣言した。これにより、国民議会の野党は2001年に結成された「民衆行動会派」と、ムスリム同胞団の政治団体「イスラーム立憲運動」や「サラフィー連合」を含むイスラーム主義のグループに集約された。
2007年
3月25日 新内閣が発足し、2人目の女性閣僚として、ヌーリーヤ・スベイフが教育相に任命された。同日、エネルギー省が石油省と電力水省に分割された。
4月30日 日本の現職首相としては初めて、安倍首相が経済ミッションを伴って訪問し、サバーフ首長、ナーセル首相と会談を行った。翌5月1日には航空自衛隊が駐留するアリー・アッサーレム基地を視察した。
6月25日 国民議会と政府の対立から、アリー・ジャッラーフ石油相が石油省およびクウェート・オイル・タンカー社関連の汚職疑惑で問責質問の後、不信任決議案を提出されたため、同30日に辞任した。また、初の女性閣僚で3月の組閣で保健相に横滑りしていたマアスーマ・ムバーラクが8月23日にジャフラーの病院火災の責任を取って翌24日に辞任した(同25日に保険給付金の不正や公共医療サービス低下の問題で問責質問を受ける予定だった)。
9月1日 週末の公休日を木曜日・金曜日から金曜日・土曜日に変更した。
10月30日 選挙制度改革を受けて、野党系会派の「民衆行動会派」と「国民行動会派」の議員が、国民議会選挙の立候補予定者選出のための予備選挙の導入を認める法案を国民議会に提出した。また12月8日には「国民行動会派」の議員らが政党法と選挙権の引き下げ(21歳→18歳)の法案を提出した。いずれに対しても政府側は党派主義と社会の分断・対立を助長するものとして反対しており、審議入りしなかった。
2008年
1月11日 米国ブッシュ大統領が訪問し、サバーフ首長と会談した。イランの脅威に対する包囲網形成について、クウェート政府高官はイラン攻撃にクウェートの基地使用を認めない考えを表明した。
3月17日 野党議員による相次ぐ閣僚への問責質問の行使に対してジャービル第一副首相兼国防相が辞表を取りまとめ、内閣が総辞職した。モロッコへ私的訪問中であったサバーフ首長は急遽帰国し、3月20日に国民議会を解散した。
5月13日 サアド前首長が死去。
5月17日 第12回国民議会選挙の投開票が行われた。選挙制度改革により全国5選挙区・各区定数10、4名までの制限連記制が初めて採用された。女性27名を含む275名が立候補した。選挙期間中、内務省は選挙法で禁止されている予備選挙を行う部族に対して取締を強化し、建築許可を得ずに建てられた集会所の強制撤去を進めていたため、4月12日にはサバーヒーヤ地区で行われたアワージム部族の予備選挙を中止させようと介入したところ、若者が投石で対抗したため、特殊部隊が出動し催涙弾を発射する騒動となった。選挙結果はイスラーム主義のなかでもサラフ主義に近い勢力が伸張した。また旧制度の選挙区割りが不利に働いていたシーア派も議席を増やした。周縁部の第4・第5選挙区は部族代表が占めることになったが、上述した取締・介入への反発から、多くが野党側へ立場を変えた。
5月19日 選挙結果確定を受けて内閣は総辞職し、サバーフ首長はナーセル首相を再び首相に指名した。イスラーム主義勢力の議員は、議員からの首相任命またはナーセル首相の交代、女性閣僚の再任拒否、シーア派議員の任命拒否などを要求していたが、同28日に発足した新内閣では新任閣僚が4名に留まるなか、新たに女性閣僚としてムーディー・フムードが住宅問題担当兼開発担当国務相として任命された。
7月25日 ナーセル首相がアジア8カ国の歴訪に出発。ブルネイの次に訪日し、同26日から4日間滞在し、天皇陛下と会見し、福田首相と会談した。その後、韓国、カンボジア、ラオス、ミャンマー、タイ、フィリピンの順に訪問し、8月16日に帰国した。
10月22日 18年ぶりバグダッドに大使館を再開し、駐イラク大使を任命した。
11月25日 野党会派議員からのナーセル首相に対する問責質問要求に対し、問責質問を回避すべくナーセル首相がサバーフ首長に辞表を提出した。サバーフ首長は辞表を保留し、ホラーフィー国民議会議長や議会会派の代表らと会談し、議会解散を行わないことを確約し、12月14日に内閣の総辞職を認めた。同16日に再びナーセル首相を指名したが、組閣が難航し、1月12日に新内閣が発足した。
12月15日 航空自衛隊がイラク派遣任務を終え、アリー・アッサーレム基地からの撤収を開始し、同23日に派遣隊員が帰国した。
2009年
3月19日 新内閣発足後も、イスラーム主義議員と民衆行動会派の議員から閣僚に対する問責質問が相次ぎ、ナーセル首相が辞表を提出したことを受けて、サバーフ首長は国民議会を解散した。
5月10日 サバーフ首長が4日間の日程で中国を公式訪問した。
5月16日 議会解散にともなう第13回国民議会選挙の投開票が行われた。女性16名を含む210名が立候補した。選挙公示前の4月12日に、政府は党派主義を煽り国民統合を脅かすものにはいかなる法的手段も辞さないとの声明を発表し、選挙期間中も部族の予備選挙実施や政府批判を理由とした立候補者の逮捕が相次いだ。選挙キャンペーンへの規制強化もあって政府への反発は高まったが、結果は初めて4名の女性議員が当選したほか、イスラーム主義議員が半減し、シーア派と政府寄りに姿勢を転換したリベラル勢力(元国民行動会派系)が議席を増やした。
5月20日 選挙結果を受けて内閣が総辞職し、サバーフ首長はナーセル首相を再び指名した。5月29日に新内閣が発足した。発足後、民衆行動会派議員がジャービル・ハーリド内相に対して、選挙管理委員会の契約不正や選挙期間中の立候補者や集会への監視に関する問責質問を要求した。6月23日に問責質問が行われ、7月1日に同内相の不信任決議案の採決が行われたが、賛成少数で否決され、同内相は続投した。
7月14日 サバーフ首長は第15回非同盟諸国首脳会合に出席するためにエジプトへ出発した。その後、私的訪問として英国、モロッコに滞在後、米国入りして8月3日にワシントンを公式訪問し、オバマ大統領とアブガニスタン、イラク、イラン、パレスチナ情勢について会談し、グアンタナモ基地に収容されているクウェート人の釈放を要請した。8月13日に帰国した
7月15日 ナーセル首相がアフリカ7カ国(ベナン、ガボン、ジブチ、エチオピア、コモロ、スワジランド、セネガル)を訪問し、首脳会談ではインフラ投資と農業振興、労働力確保を中心に協議を行い、同27日に帰国した。また、同首相は9月17日に訪米して国連総会演説を行い、イスラエルに対し過去の国連決議に従い東エルサレムを含むすべての占領地から撤退することを求めた。
12月8日 イスラーム主義議員らの要求により、ナーセル首相とサファル社会事項相兼地方行政担当国務相、ジャービル・ハーリド内相、ジャービル・ムバーラク第一副首相兼国防相に対する問責質問が順に行われた。首相として初めて問責質問に答弁したナーセル首相は、選挙時に政府支持候補者に資金提供したとされる疑惑を否定した。問責質問終了後、ナーセル首相とジャービル内相に対する不信任決議案が提出されたが、同16日に採決されたナーセル首相に対する不信任決議案、同17日に採決されたジャービル内相に対する不信任決議案とも賛成少数で否決された。
12月14-15日 GCC首脳会合がクウェートで行われた。会合ではイエメンの反政府勢力によるサウジアラビアへの越境攻撃に言及し、加盟国への外部からの攻撃に対応するための共同緊急介入軍の創設で合意した。また共同声明では通貨統合へ向けた通貨評議会設置と高速鉄道網計画の監督部門設置を承認した。
2010年
2月17日 日本との租税条約の署名が行われた。
3月16日 人民行動会派と部族系議員の要求により、アフマド・アブドゥッラー情報相の問責質問が行われた。民間衛星放送局の番組で、部族系住民の多くが二重国籍でありクウェート国民としての帰属意識に疑念を呈する内容が放映されたことに対し、部族系議員は放送局の閉鎖を求めていた。しかし、同情報相は番組の放映中止処分に留めたため、国民統合を危険にさらす内容への処分が十分ではないとして批判が高まっていた。問責質問後、同情報相に対する不信任決議案が提出された。3月25日に採決が行われ、1票差で否決された。
4月25日 サバーフ首長は、欧州歴訪に出発。翌26日、ドイツにてメルケル首相との会談後、現地紙のインタビューに応じる中で、政府と対立が続く国民議会の現状について批判し、その原因が憲法にあるとの発言を行った。その後、イタリア、バチカンを訪問し、5月6日に法王ベネディクト16世と会談した。
4月29日 イラン革命防衛隊のためにリクルートを行っていた潜伏工作員の拠点を治安部隊が急襲し、工作員として活動していた国軍関係者らを逮捕した。
6月2日 ムハンマド外相が訪日し、鳩山首相と会談。外交関係樹立50周年(2011年)にあたって天皇陛下の訪問を招請するサバーフ首長の親書を手交した。
12月8日 野党イスラーム会派のジャムアーン・ハルブシュ議員宅での集会に多くの聴衆が押し寄せる中、治安部隊が突入し、参加した議員を含む複数の負傷者が救急車で搬送された。同議員を含むイスラーム会派と人民行動会派の議員は翌9日に会見を開き、警察の対応についてナーセル首相に対する問責質問の要求を表明し、各会派代表が12月13日に問責質問を議長に提出した。12月28日に非公開で問責質問が行われた後、ナーセル首相に対する不信任決議案が提出された。
2011年
1月5日 ナーセル首相に対する不信任決議案の採決が非公開で行われ、反対が僅差で上回り否決された。しかしながら、野党議員による閣僚への問責質問とナーセル首相に対する辞任要求は続き、3月8日にはSNS上での呼びかけで「第5の壁」と称する若者の集団によるデモが行われ、ナーセル首相の退陣を要求した。同首相は3月31日にサバーフ首長に辞表を提出して認められ、内閣は総辞職した。4月2日にはナーセル首相の再任に反対するサバーフ首長宛の建白書への署名を求める街頭キャンペーンが開始された。しかし、サバーフ首長は4月5日に再びナーセル首相を指名し、新内閣は5月8日に発足した。新内閣発足後も5月28日には「怒りの日」としてSNS上での呼びかけによる首相退陣要求デモが行われ、6月にも3日、10日、17日と金曜日ごとに小規模ながら首相退陣要求デモが行われた。
1月12日 ナーセル首相がイラクを訪問し、タラバーニー大統領、マーリキー首相らと会談した。湾岸戦争後では初の首相の訪問となった。2月16日にはイラクのマーリキー首相がクウェートを訪問し、サバーフ首長と会談した。
3月11日 サバーフ首長とナウワーフ皇太子は、天皇陛下に対し、東日本大震災の犠牲者への哀悼の意を表明した。同15日?から在日クウェート人の出国退避を開始。サバーフ首長は日本に対する緊急援助を命じ、4月18日にアフマド・アブドゥッラー石油相が日本へ500万バレルの石油および石油製品を寄付することを発表。寄付の原油は10月12日に到着し、横浜・根岸製油所にて贈呈式が行われた。
3月17日 バハレーンでの反政府デモ弾圧と、治安維持のためのGCC合同軍(サウジアラビア軍・UAE軍)「半島の盾」部隊の展開(3月14―15日)を受けて、ムハンマド外相がバハレーンを訪問し、ハマド国王と対応を協議した。クウェート政府はバハレーン政府と反政府勢力の仲介を開始したが、バハレーン政府は否定した。同17日にはクウェート市内で数千人規模のクウェート人とクウェート在住バハレーン人による弾圧とGCC合同軍の介入に抗議するデモが行われた。同21日、クウェート海軍がバハレーンに展開中のGCC合同軍に合流した。海軍部隊は7月2日に任務を完了し、翌3日に帰還した。
3月29日 2010年4月に摘発された、イラン革命防衛隊に関係する潜伏工作員に対する刑事裁判で、クウェート人を含む3人に死刑判決が下された。ムハンマド外相は同31日に3人のイラン人外交官の追放を発表した。イラン側は本件について否定し、報復として4月9日に在イランのクウェート人外交官3人を追放した。その後、イランのサーレヒー外相が5月18日にクウェートを訪問してサバーフ首長と会談し、駐在大使を相互に復帰させることで合意した。 
8月20日 同日付カバス紙が2人の国民議会議員の銀行口座に政府からの買収資金が送金されていたと報じた問題は、9月に入りマネーロンダリングの疑惑も加わって16人の議員の口座が凍結・捜査対象となる一大スキャンダルに発展し、政治腐敗の元凶としてナーセル首相に対する辞任要求がさらに強まった。9月16日に市内中心部のサファート広場で若者を中心としたデモが発生して以降、10月にかけて断続的に首相辞任要求デモが発生した。11月1日にサバーフ首長は野党会派を含む議員団と会談したが問題は収束せず、11月16日には国民議会前で首相辞任要求デモを行っていた集団が議場に突入・占拠する事態に至った。12月16日、検察は11月16日の国民議会占拠を扇動した疑いで8人の議員に出頭を命令した。
11月28日 ナーセル首相はサバーフ首長に辞表を提出し、内閣は総辞職した。サバーフ首長は11月30日にジャービル・ムバーラク第一副首相兼国防相を新首相に指名し、12月13日に新内閣が発足した。
12月6日 サバーフ首長は議会を解散した。
2012年
2月2日 解散にともなう第14回国民議会選挙の投開票が行われた。最終的な立候補者は女性23名を含む287名であった。結果はイスラーム主義の「開発改革会派」と人民行動会派を中心に、野党側が50議席中34議席を獲得した。女性の当選者は出なかった。選挙結果を受けて2月5日にジャービル・ムバーラク首相は総辞職し、翌6日、サバーフ首長は再びジャービル・ムバーラクを首相に指名した。新内閣は2月14日に発足した。
3月19日 サバーフ首長が日本・フィリピン公式訪問に出発。20日に日本に到着し、21日に天皇皇后両陛下と会見後、枝野経産相と会談。宮中晩餐会では皇太子殿下が天皇陛下の名代を務めた。22日に野田首相と会談し、23日フィリピンに向け出発した。
6月18日 議会と政府の対立が続くなか、サバーフ首長は憲法に基づき、国民議会を1カ月間暫定的に休会とした。6月20日には憲法裁判所が前年12月の議会解散手続きが違憲であったとして、2月の国民議会選挙の無効化と2009年議会の復活を命じた。ジャービル首相が7月1日に辞表を提出して内閣は総辞職したが、サバーフ首長は7月5日にジャービル首相を再び指名し、7月23日に新内閣が発足した。国民議会は7月31日に召集されたが、ほとんどの議員がボイコットして定足数を満たせなかった。8月7日に改めて召集されたが再び定足数を満たすことができず、開会できない状態が続いたため、サバーフ首長は10月7日に改めて議会を解散した。
7月9日 サバーフ首長は第19回アフリカ連合首脳会合に出席するため、エチオピアのアディスアベバを訪問した。
10月20日 内閣は次の議会選挙を12月1日に実施することを発表するとともに、投票方法を4人までの制限連記制から1人1票の単記非移譲式投票に変更する緊急法令を発布した。投票方式の変更には、決定前から反対するデモが発生しており、10月15日に国民議会周辺で発生したデモでは前議員のムサッラム・バッラークが首長批判の演説を行い、同28日に逮捕された。11月4日と憲法記念日にあたる11月11日にも野党支持者による大規模なデモが発生し、選挙のボイコットを訴えた。
12月1日 国民議会選挙の投開票が行われた。立候補者は女性14名を含む307名であった。結果は有力な野党前職や有力部族がボイコットした影響もあり、投票率が初めて4割台に下がったものの新人が増加し、シーア派議員が17議席を獲得した。女性候補も元職のマアスーマ・ムバーラクを含む3名が当選した。選挙結果を受けて12月3日にジャービル内閣は総辞職した。12月5日にサバーフ首長はジャービル首相を再び指名し、12月11日に新内閣が発足した。
2013年
6月14日 日本との租税条約が発効した。
6月16日 憲法裁判所は議会解散中の緊急法令による投票方法の変更については合憲としたものの、最高選挙管理委員会設置に関する選挙法の改正は違憲と判断し、選挙実施の手続きに不備があったとして、2012年12月1日の選挙および選挙後の議会を無効とし新たな選挙の実施を命令した。
7月28日 国民議会の出直し選挙の投開票が行われた。女性8名を含む321名が立候補した。野党会派はボイコットを継続(一部の有力議員は首長・政府批判で有罪判決を受け立候補資格停止中)したが、サバーフ首長が有力部族のトップに選挙参加を呼び掛けた効果か、投票率は前回より10%ほど回復した。結果は女性候補2名が当選し、シーア派は8議席と半減した。選挙結果を受けて内閣は総辞職し、サバーフ首長は7月29日にジャービル首相を再び指名して組閣を行わせた。新内閣は8月4日に発足した。
8月26日 安倍首相が中東4カ国歴訪(バハレーン、クウェート、ジブチ、カタル:8月24日―29日)の途上、クウェートを訪問し、ナウワーフ皇太子、ジャービル首相と会談した。
10月28日 カタルのタミーム首長が即位後初めてクウェートを訪問し、サバーフ首長と会談した。
11月19-20日 議長国として第3回アラブ・アフリカ首脳会合を開催した。
12月10-11日 議長国として第34回GCC首脳会合を開催した。サウジアラビアとUAE、オマーンは元首の名代としてそれぞれサルマーン皇太子、ムハンマド副大統領兼首相(ドバイ首長)、サイイド副首相が参加した。会合後の共同声明では、イラン核開発に関するジュネーブ暫定合意の歓迎やシリアのアサド政権による化学兵器を使用した反体制派への攻撃への非難、金融・インフラ、治安防衛部門を中心にさらなる統合の深化等が表明された。
2014年
3月25-26日 議長国として第25回アラブ連盟首脳会合を主催。資格停止中のシリアからは反政府組織のシリア国民連合からアフマド・ジェルバー議長が代表として参加した。
4月7日 政府転覆計画に関するビデオテープ事件で、アフマド・ファハド元情報相(アジア・オリンピック評議会議長)が検察庁から聴取を受けた。アフマド元情報相は、同ビデオテープが、ナーセル前首相とホラーフィー前国民議会議長が政府転覆を計画し、公金を横領し資金洗浄を行った証拠と主張した。これに対し、ホラーフィー前議長が事実無根として検察に訴えていた。国民議会は4月15日に秘密会合でビデオテープの内容を確認したが、ほぼ捏造されたものであった。アフマド元情報相は6月14日に民放されたインタビューで同様の主張を繰り返し、対応は検察に委ねられたが、サバーフ首長の不興を買い、国営テレビ放送でサバーフ首長はじめ関係者への謝罪が放映されるに至った。
5月15日 ジャービル首相に対する問責質問の実施をめぐる採決が否決されたことを受け、問責質問を要求したリベラル系の議員ら5名が議員辞職を申し出て認められた。補欠選挙は6月26日に行われた。
6月1-2日 サバーフ首長がイランを訪問し、ロウハーニー大統領、ハーメネイー最高指導者と会談。地域情勢や核開発問題で対立が続くイランとサウジアラビアの仲介を図った。
6月3―5日 ジャービル首相が中国を訪問し、李克強首相、習近平国家主席と会談した。
6月8日 サバーフ首長はエジプトを訪問し、シーシー大統領の就任式に出席し、同大統領と会談した。
11月16日 サバーフ首長はサウジアラビアのリヤドで開催されたGCC緊急首脳会合に出席した。同会合では、ムスリム同胞団への対応をめぐって、サウジアラビア、UAE、バハレーン、エジプトの4カ国がカタルから大使を召還していた件について、大使の復帰を決定した。サバーフ首長は11月7日にUAEとカタル、バハレーンを訪問して問題解決の仲介に努めていた。第35回GCC首脳会合は予定通りドーハで開催され、サバーフ首長が出席した。
2015年
1月5-6日 エジプトのシーシー大統領が訪問し、サバーフ首長と会談したほか、商工会議所代表団とも会談し、エジプトへの投資拡大を求めた。
3月1-3日 韓国の朴槿恵大統領が訪問し、サバーフ首長、ジャービル首相、ガーニム国民議会議長と相次いで会談し、インフラ産業参入への支援について協議した。
4月27―28日 トルコのエルドアン大統領が訪問し、サバーフ首長、ジャービル首相、サバーフ・ハーリド外相、ガーニム国民議会議長と会談し、地域情勢および二国間での投資と貿易の拡大について協議した。
6月26日 クウェート市街中心部にあるシーア派のイマーム・サーデク・モスクでイスラーム国(IS)による自爆テロ事件が発生し、27名が犠牲となり227名が負傷した。犯人はサウジ国籍であったが、犯行を支援したとして約60名が当局により拘束された。本事件を受けて政府は国民及び在留外国人全員のDNA検査を行う法案を国民議会に提出し、7月1日に賛成多数で可決された。
10月27日 国際オリンピック委員会(IOC)は、クウェートのスポーツ法がスポーツ団体への政府の干渉・独立性の侵害にあたるとして、クウェート・オリンピック委員会を資格停止処分にした。そのため、クウェート代表選手は2016年のリオデジャネイロ・オリンピックには個人参加となった。
11月9-11日 サバーフ首長がロシアを訪問してソチでプーチン大統領と会談し、対イスラーム国での共闘とシリア問題などについて協議した。
2016年
4月21日 クウェートにて国連特使仲介によりイエメン政府(ハーディー政権)とフーシー派代表との和平交渉が開始された。4月26日にサバーフ首長はそれぞれの代表と個別に会談し、同30日から当事者間の直接交渉が開始された。ラマダーン月の休止を経て交渉は再開されたが、8月1日にイエメン政府代表団がフーシー派の対応を非難してクウェートを出国し、クウェートによる交渉の仲介は終了した。
5月11-13日 ジャービル首相が日本を公式訪問し、安倍首相と会談した。また、天皇陛下と会見し、サバーフ首長からの訪問招待の親書を手交した。
12月8日 サウジアラビアのサルマーン国王が、バハレーンでのGCC首脳会合を終えたのち、クウェートを訪問し、サバーフ首長らと会談したが、ムハンマド副皇太子兼国防相がクウェートを脅迫するような発言をするなど対立が深まっていた旧中立地帯での石油採掘操業問題の解消には進展がみられなかった。
10月16日 政府によるガソリン価格引き上げ決定に不満が高まるなか、アナス・サーレフ財務相がガソリン価格引き上げについて問責質問を提出されたことを受けて、サバーフ首長は内閣との協議のうえ、国民議会を解散した。
11月26日 解散にともなう第15回国民議会選挙の投開票が実施された。女性14名を含む293名が立候補した。過去2回の選挙をボイコットしていた野党勢力が参加したことで投票率は70%に回復した。結果は野党勢力が議席を取り戻し、新人議員が50議席中30議席を占めた。女性議員の当選は1名であった。選挙結果をうけて内閣は総辞職し、サバーフ首長は11月28日にガーニム国民議会議長、ジャービル前首相、ナーセル元首相と協議のうえ、ジャービル前首相を再び首相に指名した。新内閣は12月10日に発足した。
2017年
2月15日 イランのロウハーニー大統領がクウェートを訪問し、サバーフ首長と会談した。
4月25日 徴兵制が再開され、5月10日から1年間の兵役が開始された。
6月2日 国連でクウェートが2018年1月からの非常任理事国に選出された。
6月5日 サウジアラビアとUAE、バハレーン、エジプトがカタルとの断交を宣言し、サウジアラビアが唯一の陸上国境を封鎖したカタル外交危機の発生に対し、サバーフ首長は仲介のためGCC内でのシャトル外交を展開。4カ国がカタルに6月22日を期限に13カ条の条件を示し回答を要求したが、クウェートの要請で延期された。カタルが提示した回答(実質拒否)を4カ国側は7月5日に受け取り内容を検討したが、要求はそのまま断交を継続した。
9月10日 河野外相がクウェートを訪問し、サバーフ・ハーリド副首相兼外相と会談し、カタル外交危機でのクウェートの仲介に支持を表明した。
10月23日 国民議会の会期がムハンマド・アブドゥッラー情報相兼閣僚会議担当国務相に対する問責質問で開始された。問責質問後、野党議員が不信任決議案を提出し、10月30日に採決が行われる予定であったが、同日、全閣僚が辞表をサバーフ首長に提出して認められ、内閣は総辞職した。11月1日にサバーフ首長はジャービル首相を再び指名し、新内閣は12月10日に発足した。サバーフ首長の息子であるナーセル・サバーフが第一副首相兼国防相として入閣した。
11月26日 控訴裁判所は、2011年11月の議会議場突入・占拠に関与したとして起訴された70名に対し、2013年に刑事裁判所が下した無罪判決を覆し、全員に有罪を言い渡した。被告人には2名の現職野党議員のほか、人民行動会派・人民立憲運動のムサッラム・バッラーク元議員やイスラーム主義の改革発展会派の有力元議員が含まれていた。
12月5日 議長国としてGCC首脳会合を開催した。カタル外交危機が続くなか、元首級の参加はカタルのタミーム首長のみとなり、2日目の日程はキャンセルされた。
2018年
1月4日 ナーセル・サバーフ国防相がサウジアラビアを訪問し、ムハンマド皇太子兼国防相と会談したのち、対イエメンの希望の回復作戦に参加している地上軍を視察した。旧中立地帯をめぐる解決やカタル危機の解決のための仲介含みの域内シャトル外交が展開され、1月6日にはサウジアラビアのアブドゥルアジーズ・ビン・サウード・ビン・ナーイフ内相がクウェートを訪問した。かねてよりUAEに拘束されていたカタルの王族のアブドゥッラー・アリー・サーニーが家族とともに1月17日にクウェートへ渡航し病院に搬送された。その件との関連は不明であるが、1月20日にはカタルのハーリド・アティーヤ国防相がクウェートを訪問し、ナーセル国防相と会談した。ナーセル国防相は1月25日にカタルを訪問し、タミーム首長とともに国防大学の卒業式に来賓として臨席した。2月1日にはナウワーフ皇太子がサウジアラビアで開催されたアブドゥルアジーズ国王ラクダ祭りに出席し、同じく出席したバハレーンのハマド国王やドバイのハムダーン皇太子ら要人と歓談する様子がみられた。3月4日にはサバーフ首長の特使がカタルとUAEに派遣され、5月14日にはサバーフ・ハーリド外相がカタルを訪問し、同28日にはタミーム首長がクウェートを訪問し、サバーフ首長と会談した。
1月23日 ヒンド・スベイフ社会事項相兼労働相に対する問責質問が行われたのち、不信任決議案が提出された。1月30日の採決は賛成少数により否決された。また、5月1日にはバヒート・ラシーディー石油相に対する問責質問が行われたのち、不信任決議案が提出されたが、5月9日の採決は賛成少数により否決された。
2月6日 2011年11月の議会議場突入・占拠事件で拘束された現職2名の議員の釈放を求めて、野党議員らが議会前広場で座り込みを行った。本事件に関しては、7月8日に控訴裁判所が最終的な裁定として42カ月の拘禁を言い渡したため、サアドゥーン元議長など野党議員が改めて恩赦を呼びかけた。
2月12-14日 議長国としてイラク再建会議を開催し、サバーフ首長はそれぞれ10憶米ドルの融資と投資を表明した。カタルとUAEも融資を約束し、民間投資の拡大を表明した。
3月13日 ガーニム国民議会議長が訪日し、安倍首相と会談した。翌14日には天皇陛下と会見した。
5月15日 国連安保理非常任理事国として、米大使館のエルサレム移転に反対するガザでの抗議運動をイスラエルが弾圧したことについて、ガザに関する緊急安保理会合の開催を要請した。5月30日には、弾圧の報復としてイスラエルへミサイルを発射したハマースを非難する米国による国連決議案を阻止したため、ガザ情勢をめぐって米国との対立が表面化した。
7月8日 サバーフ首長が中国を訪問し、習近平国家主席ら要人と会談し、翌9日の中国アラブ諸国協力フォーラムに出席した。
9月3日 サバーフ首長が訪米し、同5日にはトランプ大統領と会談して中東和平交渉やテロ対策やカタル危機の解決に向けて協議した。
9月30日 サウジアラビアのムハンマド皇太子が訪問し、サバーフ首長と会談し、旧中立地帯での操業問題やカタル危機の解決に向けて協議した。
11月9日 記録的な豪雨により家屋やインフラの損壊で1名の死亡が確認された。排水機構が機能せず、道義的責任からホサーム・ルウミー公共事業相が辞任した。
2019年
2月3日 カタルのタミーム首長が訪問し、サバーフ首長らと会談し地域情勢について協議した。タミーム首長は5月9日にもクウェートを訪問した。
2月15日 米国主導の中東和平提案に関連して、サバーフ外相は国民議会外交委員会で、イスラエルとの関係正常化は一切拒否する旨の発言を行った。
2月24-25日 サバーフ首長がエジプトのシャルムシェイフで開催されたアラブ・EUサミットに出席した。
3月25日 米国トランプ大統領が、シリアのゴラン高原がイスラエルの主権下にあると認定したことに対し、ハーリド・ジャールッラー外務次官が遺憾の意を表明した。
3月5日 ロシアのラブロフ外相が訪問し、サバーフ首長、ジャービル首相、サバーフ外相らと会談し、シリア情勢や石油産出量の調整問題等について協議した。
4月21日 1月に虐待痕のあるフィリピン人メイドの遺体が発見された事件に関連して、在クウェート・フィリピン大使館員が雇用主から虐待を受けているメイドの救出作戦を実施したことに対し、主権侵害としてクウェート政府はフィリピンの駐クウェート大使の追放と駐在フィリピン大使の召還を決定した。1月の事件発覚後、ドゥテルテ大統領はクウェートへの労働者派遣の停止を命令していた。クウェート政府は労働者の待遇と人権保護について協議へ開始するとともに、サバーフ首長がドゥテルテ大統領をクウェート訪問に招待していた。5月17日に新たな労働協定の締結により労働者派遣が再開された。同大統領はクウェート訪問の意向を表明していたが、サバーフ首長側のスケジュールに空きがないという理由で訪問を延期した。
5月8日 ロシアによるシリアのイドリブ攻撃の激化を受けて、人道危機への対応を主導すべく、安保理非常任理事国としてベルギー、ドイツとともに国連安保理でのシリアに関する非公式会合開催を要請した。 
5月30日 サバーフ首長はマッカで開催された3つの首脳会合:GCC緊急首脳会合、アラブ連盟緊急会合、イスラーム諸国首脳会合に出席し、UAE沖で発生した船舶への攻撃に対して、海上交通と石油供給を危機にさらしたと非難したほか、イスラーム諸国首脳会合では東エルサレムがパレスチナ国家の首都となることが唯一の解決案であると意見表明を行った。
7月5日 国際オリンピック委員会がクウェート・オリンピック委員会の資格停止を解除したことにより、東京オリンピックへの参加が可能となった。
9月14日 サウジアラビアの石油施設への攻撃に関連して、クウェート上空を飛翔体が通過したとの目撃情報が相次いだ。サバーフ首長はサルマーン国王と電話会談し、攻撃を強く非難するとともにサウジアラビアを支持しテロを拒絶すると述べた。同17日には国連安保理のイエメンに関する討議でマンスール・オタイビー国連大使が攻撃を批判したほか、ナーセル国防相が空軍と国防軍の司令部を視察し、警戒への訓示を行った。
10月22日 今上天皇の即位の礼に際し、ナーセル・ムハンマド元首相がサバーフ首長の名代として参列。
11月14日 ジャービル首相がサバーフ首長に辞表を提出し内閣が総辞職した。11月12日にブーシャフリー公共事業相が問責質問を受け辞任を表明していたことに加え、ハーリド・ジャッラーフ内相に対する問責質問も行われ、不信任決議案が提出されていた。16日にはナーセル第一副首相兼国防相が国防省のツイッター・アカウントで、内閣総辞職の原因が、軍の年金基金での汚職問題に対応しなかったことにあったとして、前任者であったハーリド・ジャッラーフ内相を批判したことで両者の対立が表面化した。サバーフ首長は両者の解任を命じ、18日にはジャービル前首相を再び指名したが、首相の任に堪えないとして固辞されたため、翌19日にサバーフ・ハーリド前外相を首相に指名した。新内閣は12月17日発足し、半数が初入閣となった。ナーセル・サバーフは閣外に去り、財相や副首相兼閣僚評議会担当相を歴任していたアナス・サーレフが非王族としては初めて内相に任命された。またナーセル・ムハンマド元首相の息子アフマド・ナーセルが外相に任命された。
12月10日 リヤドにて開催された第40回GCC首脳会合にサバーフ首長が出席した。開催にあたって、サウジアラビア側からカタルへ和解を働きかけたが、タミーム首長は欠席した。前日の9日の外相会合で次期GCC事務局長に指名されていたナーイフ・ハジュラフ前財相の就任を承認した。
12月24日 サウジアラビアとの中立地帯をめぐる対立に関して、石油生産再開について了解覚書に署名するとともに、中立地帯分割合意にも署名し、解決へ向けて前進した。年明け1月9日には国民議会が合意を承認し、2月16日から生産が再開された。
2020年
1月12日 サバーフ首長がカーブース前国王の弔問のためオマーンを訪問し、ハイサム新国王らと会談した
1月29日 米国の新中東和平案に対して外務省が声明を発表し、1967年国境と東エルサレムを首都とする独立主権国家の樹立こそが解決であると強調した。また、3月4日にはアフマド外相がパレスチナ人の権利を支持することを再確認した。
2月21日 新型コロナの感染拡大で、入国者の検疫が強化された。同24日にイランからの帰国者から初の陽性を確認したことを受け、航空便の発着停止措置を開始した。3月1日から国外への渡航自粛とともに入国者の検疫・隔離措置が義務化された。学校と大学の休校措置がとられ、政府機関の窓口も閉鎖され、オンライン化・在宅勤務に移行。内閣はコロナ対策・経済打撃緩和の追加予算措置とともに、コロナ対策に係る保健と予防、防疫に関する法改正を決定した。3月11日からクウェート国際空港のすべての商用旅客便便の停止とともに、外国人の入国制限を開始。集会の制限とともにレストラン・カフェなどの営業が停止に。翌12日からは国内の公共交通機関(バス・タクシー)の営業が停止に。3月22日から部分的な夜間外出禁止令が開始された。外出禁止令は段階的に強化され、断食明けのイード・アル=フィトル休暇が明ける5月30日まで継続された。
6月6日 保健省は新型コロナの治療薬として日本からアビガンを調達し大規模治験を実施することを発表。
8月16日 UAE・バハレーンによるイスラエル承認と国交正常化合意の発表(8月13日)について政府が表立った反応を示さないなか、地元紙が外務省関係者による、クウェートはイスラエルと国交正常化する最後の国になるとのコメントを報道。18日にはガーニム議長を含む国民議会議員41名が連名でイスラエルとの国交正常化に反対する意見表明を行った。
9月29日 サバーフ首長が91歳で亡くなったことにより、ナウワーフ皇太子が第16代当主・独立後6代目の首長に即位し、翌30日に国民議会で宣誓を行った。ナウワーフ新首長は10月8日にミシュアル・アフマド国家警備隊副長官を新皇太子に指名し、国民議会の承認(忠誠の誓い)を経て任命した。
12月5日 2003年以来の任期満了にともなう第16回国民議会議員選挙(無効化された選挙を含めれば18回目)の投開票が行われた。サバーフ首長の死去による服喪期間により、当初予定より1カ月遅れての実施となった。女性33名を含む326名が立候補した。結果は政府に批判的な議員が過半数を占め、19名が再選し元職からの復帰が7名であった。女性の当選者は出なかった。選挙後、内閣は総辞職し、ナウワーフ首長は12月8日にサバーフ首相を再指名した。12月14日に新内閣が発足した。
12月20日 サバーフ前首長の息子であるナーセル・サバーフ元第一副首相兼国防相が72歳で亡くなった。
12月24日 新型コロナウイルスに対するワクチン接種が開始された。
2021年
1月4日 2017年6月以来のカタル外交危機について、アフマド・ナーセル外相がカタル制裁・国境封鎖の解除を発表した。翌5日、サウジアラビアのウラーで開催された第41回GCC首脳会合にナウワーフ首長が出席し、同会合でカタル外交危機を終わらせる正式な合意文書(ウラー宣言)の署名式が行われた。
1月13日 サバーフ首相は、議会で同首相に対し不信任決議案提出の前段階となる問責質問が提出され(1月5日)、38名の議員が不信任決議案の提出に支持を表明したことを受け、ナウワーフ首長へ辞表を提出した。18日に辞職を認められ内閣が総辞職した。1月24日にナウワーフ首長はサバーフ首相を再指名したが、議員の批判により組閣が難航したため、憲法に基づき2月18日から1カ月間の議会休会を命じた。新内閣は3月2日に発足した。
3月7日 新型コロナウイルス感染拡大第2波の到来で、夜間外出禁止令が再導入され、ラマダーンが終了する5月12日に解除された。
4月13日 軍の年金基金を巡る汚職事件で、閣僚裁判所はジャービル・ムバーラク前首相の逮捕を命じた。同前首相は拘留後、保釈金を支払い釈放された。
6月21日 政府および政府寄りの強引な議会運営を行うガーニム議長への反発から、予算案の最終審議に際して議員が閣僚席を占拠し、定足数不足による審議の流会を狙ったが、ガーニム議長は閣僚が着席しないままの状況で点呼を採り、予算案の採決を強行し成立させた。予算案の承認後、同議長は会期の終了を宣言した。
7月9日 東京オリンピックに出場する代表選手団の第1陣がホスト・タウンの二本松市に到着。
8月15日 新型コロナウイルス感染拡大で制限されていた政府機関の業務が正常化。
10月19日 2011年11月の国民議会議場突入・占拠事件やサバーフ前首長に対する批判で有罪判決を受け、トルコに逃れていた元有力野党議員ら政治犯への恩赦について、ナウワーフ首長はミシュアル皇太子、サバーフ首相、ガーニム国民議会議長と協議のうえ、議会政治の正常化を図って恩赦を認めることを発表し、11月8日に恩赦の首長令を発した。元議員らは11月15日から順次帰国した。
10月24日 新型コロナウイルス感染拡大の影響で旅客便の運航が制限されていたクウェート国際空港が完全に再開した。
11月8日 サバーフ首相は政治犯に対する恩赦の首長令の発布後、ナウワーフ首長へ辞表を提出し、14日に認められて内閣が総辞職した。11月15日にナウワーフ首長は首相任命や首長令の発布・法律案の裁可・公布など憲法上の権限をミシュアル皇太子に移譲する首長令を発したため、ミシュアル皇太子がサバーフ首相を再指名し、12月28日に新内閣が発足した。
12月21日 イラク中央銀行が1990年の湾岸危機についてのクウェートに対する賠償金の完済を発表した。
2022年
2月16日 在外公館における汚職と公的資金の不正使用の疑いについて、アフマド外相に対する問責質問が行われたのち、不信任決議案が提出されたが否決された。同じく問責質問が提出されていたハマド・ジャービル第一副首相兼国防相とアフマド・マンスール副首相兼内相は、議員による問責質問権行使の濫用を批判して、翌17日に辞任した。後任の大臣は3月9日に任命され、ナウワーフ首長の息子で国家警備隊副長官のアフマド・ナウワーフが第一副首相兼内相として入閣した。サバーフ首相は3月22日に内閣改造を行ったものの、3月29日に行われた同首相への問責質問の後、不信任決議案が提出されたことを受け、採決予定日の前日となる4月5日にミシュアル皇太子へ辞表を提出した。同首相の辞職は5月10日に認められ、内閣は総辞職した。
2月25日 米国とアルバニアが作成したロシアによるウクライナ侵攻を非難する安保理決議案に、クウェートは80各国の共同提案国にアラブ諸国から唯一名を連ね、ウクライナへの連帯を示した。同決議案はロシアの拒否権行使により否決された。
3月7日 クウェート憲法制定および議会政治の発展初期に重要な役割を果たしてきた左派・クウェート民主フォーラムのアフマド・ハティーブが死去した。同21日に同じくアブドゥッラー・ナイバーリーが死去した。
5月13日 UAEのハリーファ大統領の死去を受け、サバーフ首相がナウワーフ首長の代理として弔問のためアブダビを訪問した。
7月25日 ミシュアル皇太子は新首相にアフマド・ナウワーフ第一副首相兼内相を指名し、8月2日に新内閣が発足した。
9月19日 英国エリザベス女王の国葬にミシュアル皇太子がナウワーフ首長の代理で参列した。
9月29日 ミシュアル皇太子が国民統合の危機を理由として8月2日に国民議会を解散したことを受けて、第17回国民議会議員選挙の投開票が行われた。男性349名・女性27名、計376名が立候補した。議会運営で批判の強かったガーニム前議長は立候補しなかった。結果は半数の議員が入れ替わったものの、政府に批判的な議員が過半数を占めた。女性議員は2名が当選した。新議会は10月18日に召集され、新議長にはアフマド・サアドゥーンが満場一致で選出され、2012年2月以来の議長復帰となった。
10月5日 国民議会選挙の結果を受けた内閣総辞職の後、ミシュアル皇太子はサバーフ・アフマド首相を再指名した。同日、アフマド首相はミシュアル皇太子による閣僚名簿の承認(任命)を経て新内閣を発足させたが、組閣手続の拙速さと議会で批判を受けた閣僚の再任で議員からの猛反発を受け、翌6日に総辞職し、議員と協議を行ったうえで組閣をやり直すこととなった。10月16日に改めて新内閣が発足した。

書誌情報
石黒大岳「クウェート21世紀年表」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, KW.3.03(2023年7月3日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/kuwait/timeline/