アジア・マップ Vol.01 | モンゴル

《エッセイ》
モンゴルと私

島村一平(国立民族学博物館・教授)

 私の専門は文化人類学で、とりわけモンゴルのシャーマニズムの研究をしてきた。主著『増殖するシャーマン―モンゴル・ブリヤートのシャーマニズムとエスニシティ』(春風社、2011年)では、「シャーマンが人口の1%に至るほど増え続けている」という「増殖現象」を通じて、モンゴル国の少数民族集団ブリヤート(モンゴル・ブリヤート)のエスニックな帰属意識がいかに再構築されているのかを明らかにした。しかし近年では、モンゴルのヒップホップを扱った『ヒップホップ・モンゴリア―韻がつむぐ人類学』(青土社、2021年)や、モンゴルの宗教とナショナリズムの問題を扱った『憑依と抵抗―現代モンゴルにおける宗教とナショナリズム』(晶文社、2022年)といった作品も発表している。

 シャーマニズムを研究してきた私がなぜヒップホップに興味を持ったか。実は、私は大学卒業後、東京でテレビの制作会社に勤めていた。そんな私がモンゴルに興味を持ったきっかけは、1994年8月のことである。ドキュメンタリー番組の取材で初めてモンゴルの地を踏んだのがはじまりだ。番組は、ジャズミュージシャンの坂田明氏がモンゴル・中央アジアを旅しながら現地の民族音楽の奏者とセッションをするという内容のものだった。そのスタッフの一人に私は選ばれたのだった。

 そのモンゴルでのロケ中のことだ。テレビの撮影は激務だ。ロケ終了後、草原で私はひとり、夜中の2時過ぎまで機材の片付けをしていた。聞こえてくるのは、微かな風の音と時折遠くから聞こえる馬のぐらい。ふと空を見上げると、そこは満点の星。その時、閃いてしまった。「ひょっとして、自分は前世、ここモンゴルで生まれたんじゃないだろうか」と。今考えると、睡眠不足の中の激務で浮かんだ妄想だったのだろうが、もう、そう感じてしまったらどうしようもない。帰国してからも、モンゴルに「帰り」たくて仕方なくなっていた。番組のオンエア後、会社に辞表を出した。

 そして1995年夏、モンゴルに留学をした。最初は首都ウランバートルで語学を学びながら、ドキュメンタリーを撮ろうと思っていた。そんな中、シャーマニズムの情報を小耳にはさんだ。モンゴル北部のロシア国境に近い辺境に住むダルハド族(人)の間では、森の中で古代から連綿とつづくシャーマンの儀礼を行っているのだという。“神秘的な古代の呪術師”のイメージは、私を虜にするのに十分だった。1年が過ぎ、興味に誘われるがまま、大学院を受験しモンゴル国立大学の大学院に進学した。専攻は民族学である。そこで多くの友人が出来たし、恋もした。

ウランバートルという街
 90年代半ばのウランバートルは、人口60万人ほどの静かな町だった。その後人口は、25年ほどの間に2倍以上に膨れ上がったが、当時はこぢんまりとしていた。そして街路樹の少ない荒涼とした町だった。町の中心部を占める官庁や大学、劇場や銀行といった大きな建物はロシア風建築(ソ連風)である。それを囲むかのように日本の昭和30-40年代に造られた公団住宅に似た無機質な団地群が広がっている。

 正直、アジア的な風情があまり感じられない。商店の看板もすべてロシアのキリル文字。しかも少し前まで社会主義だったので、どこへ行ってもスーパーやドラッグストアの看板には「食料品店」、「薬局」としか書かれていない。おまけに看板のレタリングまで同じである。まるで初期のファミコンの解像度の低いドラクエの街の中を歩く気分になる。これは、少し前まで店という店はすべて国営商店だったからだ。こうした商店は、私の留学した95年当時はすでに民営化してはいた。ただ店に「AEON」「マツモトキヨシ」といった固有名をつけるという発想がまだなかったのである。

ウランバートルのスーパーマーケット_2022年_筆者撮影

ウランバートルのスーパーマーケット 2022年 筆者撮影

草原をフィールドワーク
 一方、ひとたびウランバートルを出ると緑の大草原が広がっている。そこは悠久の昔から変わらぬであろう(実際は違うのだが)、草原に白い天幕(ゲル)が浮かぶ遊牧民たちの世界だった。民族衣装に身を包んだ遊牧民たちが馬に乗って羊を放牧していた。夏に当時、ウランバートルで暮らす日本人たちの間では「ウランバートルはモンゴルではない。本物のモンゴルは草原にある」という語りがよくなされていた。

 そんなアドバイスを待たずとも、草原の遊牧世界というエキゾチズムの誘惑に抗えなかった。そこで私は調査対象として、ウランバートルの団地に居心地よさを感じながらも、結果的に草原や森での「冒険」を選んだ。まずは北の辺境、フブスグル県でダルハドのシャーマニズムに関するフィールドワークを始めることにしたのである。そしてモンゴルの大学院で民族学の修士号をとって、帰国したのは1998年の12月。3年半のモンゴル暮らしだった。

 そして1999年、大阪の国立民族学博物館に併設された総合研究大学院大学の博士課程に入学する。テーマは、迷わずシャーマニズム研究を選んだ。2000年4月、助成金を得てモンゴルに渡ると本格的なフィールドワークを開始した。1年間、ウランバートルを基地にして600km離れたシャーマニズム文化が色濃いドルノド県の調査地で1-2ヶ月滞在して調査をしてはウランバートルに戻る。ウランバートルでは、1ヶ月かけて草原で得た調査データを整理し、調査計画を練り直し、またドルノド県へと調査へと向かう。これを数回、繰り返していく。結果的に私のモンゴル滞在は、留学の3年半と合わせると6年に及んだ。その後の調査を加えると、延べ7年ほどはモンゴルに滞在したかと思う。ともあれ、モンゴルの街と草原の往還を繰り返していく中で、奇妙なことに気がついた。

どこまでも続く大草原_モンゴル国ドルノド県_2000年_筆者撮影

どこまでも続く大草原_モンゴル国ドルノド県 2000年 筆者撮影

草原でフィールドワーク中の筆者_2000年_モンゴル国ドルノド県

草原でフィールドワーク中の筆者 2000年 モンゴル国ドルノド県

ヒップホップの勃興
 2000年当時、ウランバートルではヒップホップが爆発的に流行っていた。ラジオをつければ、英語のヒップホップに混ざってモンゴル語のヒップホップがいつも流れていた。中には、アメリカのヒップホップを彷彿とさせるようなビートもあったが、小気味よくモンゴル語で頭韻を踏んでいくスタイルは確かにモンゴル・オリジナルだった。

ヒップホップグループICETOPのライブ‗2016年‗筆者撮影

ヒップホップグループICETOPのライブ 2016年 筆者撮影

 ところが、ひとたびドルノド県に戻ると、草原でシャーマンたちがシャーマンドラム(革張りの手太鼓)を打ち鳴らしながら民謡調の祈祷歌を歌っている。やはり悔しいくらい韻を踏みまくっている。草原でシャーマニズムの祈祷歌、街に帰るとヒップホップ。つまり草原にいても都市にいても、モンゴルの韻踏み合うサウンドスケープの中に私は全身を浸していたのだった。こうした環境は、私にとってシャーマニズムとヒップホップという全くジャンルの異なる文化実践の中に文化的連続性を想起させるに十分であった。ちなみにシャーマニズムとヒップホップの関連については、拙著『ヒップホップ・モンゴリア』の4章で「韻の憑依性」と題して論じている。

モンゴルのシャーマン_ウランバートル市_2015年_筆者撮影

モンゴルのシャーマン_ウランバートル市 2015年 筆者撮影

 一見するとモンゴルの草原と都市は、まるで別世界である。そしてモンゴルといえば、メディアなどで紹介されるのは、草原の遊牧民の世界が圧倒的に多い。大草原の遊牧民にモンゴル相撲に馬頭琴。それに加えてチンギス・ハーンといった具合だ。近年、学術的には都市社会への注目は高まってきたものの、メディアでウランバートルという都市を生きるモンゴル人が描き出されることは非常に少なかった。ところがいまやモンゴルの人口の半分がウランバートルに居住し、現代的な都市生活をおくっている。それに対して、われわれ日本人は、モンゴルの都市生活についていったい何を知っているのだろう。

ウランバートルの高層マンション_2019年_筆者撮影

ウランバートルの高層マンション 2019年 筆者撮影

 日本で「モンゴルに留学していた」と話すと、「あの草原のパオみたいなところに住んでいたのですか」とびっくりされることが多い。多くの人が表現も含めて同じリアクションだったりする。ちなみに遊牧民の天幕は「ゲル」であって「パオ」ではない。てか、パオは「(丸い蒸餃子)」に似ているといって中国人が名づけた蔑称だし。それにウランバートルは神戸や京都なみの人口規模の大都市だって誰も知らないのか。あれだけモンゴル人の相撲取りが日本に来ていて、しかもほとんどがウランバートル出身者なのに、彼らの故郷には何も関心を示さない。そして横綱の「品格」がどうのこうのといった日本社会への同化度ばかりが話題になる。あまりに切ないではないか。

 近年、ウランバートルの人々はグローバル経済に巻き込まれ、貧富の格差や環境汚染といった問題に悩まされてきた。モンゴル・ヒップホップは、こうしたグローバルな経済格差によって、世界の片隅で咲いたあだ花かもしれない。いずれにせよ、ウランバートルでは、ブルックリンやコンプトン、川崎や西成同様にヒップホップが社会をざわつかせている。ヒップホップ・モンゴリアを知るということは、我々の世界の「リアル」を知るということでもある。モンゴルのラッパーたちが歌い生み出す世界は、我々が今ここで生きている世界とも確実につながっているからだ。

書誌情報
島村一平「《エッセイ》モンゴルと私」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, MN.2.02 (2023年9月5日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/mongol/essay01/