アジア・マップ Vol.01 | モンゴル

《エッセイ》モンゴルの都市
ウランバートル

活仏の移動式宮殿からチンギス・ハーンの都へ
―モンゴルの首都ウランバートルの象徴の変遷

島村一平(国立民族学博物館・教授)

 モンゴル国の首都ウランバートル。言わずと知れたモンゴル国の政治・経済・文化の中心地である。その人口は、161万人(2022年)を数える。急速に都市化が進んだ結果、この都市の人口もここ30年で約三倍に増えた。今や、モンゴル国の全人口の約半分がウランバートルに居住するに至っている。ウランバートルは、政府宮殿のあるスフバータル広場を中心に政府、党、公共機関、銀行とソ連式のアパート群が中心部に位置する。街は東西に走るメインストリート「エンフタイワン(平和)大通り」を囲んで東西に広がっている。中心部を歩くと、ソヴィエト・ロシア式の建築にキリル文字や英語の看板が多いので、アジアの都市というよりロシアの地方都市のように見える。

 そのウランバートルにおける最も目立つランドマークといえば、この都市の中心に位置する政府宮殿であろう。モンゴルの政府宮殿は、大統領府、内閣、国会議事堂が入る複合施設だ。三連のゲル型宮殿を模した屋根が象徴的な白亜の建築物の前面には、巨大なチンギス・ハーン像が鎮座している。その様相は、まるでチンギス・ハーンの神殿のようだ。

 しかし意外なことに、この政府宮殿にチンギス像が築かれたのは比較的最近のことである。2006年、モンゴル建国800周年(チンギス・ハーンの即位800周年)に際して従来の政府宮殿を増築しチンギス像を置いたのである。それ以前の政府宮殿は、社会主義時代に建設された「灰色の宮殿」という俗称の無機質なモダニズム建築だった。

 実は社会主義時代(1924~1992)、チンギス・ハーンをナショナルな象徴として掲げることは、否定されていた。1954年に完成した「灰色の宮殿」の前面には、モスクワの赤の広場前のレーニン廟よろしく、社会主義革命の英雄スフバートルの霊廟が置かれた。社会主義の指導者たちは、この霊廟の上に立って市民たちの前に姿を見せた。スフバートル廟はレーニン廟同様に社会主義の神殿であったといってよい。「ウランバートル」という町の名も「赤い英雄」を意味するとおり、社会主義由来の名称である。

 では、1921年の社会主義政権成立以前、この都市はどのような姿をしていたのだろうか。遊牧文化で知られるモンゴルにおいて都市はどのようにして成立したのだろうか。

 興味深いことにこの都市の起源は、移動式のチベット仏教寺院であった。1578年、モンゴルの王侯アルタン・ハーンがチベットの高僧ソナム・ギャッツォに帰依し「ダライラマ」の称号を与える。それ以降、急速にモンゴル高原にチベット仏教が広まっていく。こうした中、1639年、モンゴル最大の活仏(化身ラマ)ジェブツンダンバ・ホトクトの移動式寺院「ウルグー(Örgüge)」が築かれる。「ウルグー」とは宮殿を意味するモンゴル語だが、遊牧民にとっての宮殿とは大型のゲル(天幕)のことだ。つまり移動するゲル型の寺院群がこの都市の原型だったわけである。寺院は家畜群を所有していたのでウルグーは、まさに「移動する遊牧都市」であった。

 ウルグーが最初に建てられたのは、現在のウヴルハンガイ県ブルド郡のあたりだといわれている。今のウランバートルから西南西に280kmほど離れた場所である。その15年後の1654年には、逆にウランバートルの東方にあるヘンティ山南麗に移った。ところが1688年(康熙27)ジューンガル帝国のガルダン・ハーンがハルハ・モンゴルに侵入すると、活仏ジェブツンダンバはハルハ王侯らと内モンゴルへ難を逃れた。その後、ウルグーは、牧草地や水質の悪化、薪用に伐採する樹木の減少などを理由に、オサン・セール(1720年)、タミル川(1722年)、ホジルト(1729年)、ウリヤスタイ(1735年)などの場所に28回、移動を繰り返した。

 こうして現在のウランバートル市があるセルべ川河畔に定着したのは1778年(乾隆43年)のことだった。その後寺院が固定化され、門前町や漢人の商売人たちの町、買売城が形成されていった。こうして出来た町が「イヒ・フレーIkh khüree」である。「フレー」とはモンゴル語で「囲い」を意味したが、次第に寺院や寺院を中心に築かれた宗教都市を意味するようになっていった。

 その後、外モンゴル地域を支配した清朝は、イヒ・フレーを「庫倫(クーロン)」と呼び、この地に庫倫辦事大臣を置き、外モンゴルを統治した。18~19世紀を通して、イヒ・フレーは外モンゴルにおける政治・経済・宗教・交通の中心であった。1911年に辛亥革命がおこると、外モンゴルのハルハ王侯たちは、ジェプツンダンバ8世をハーンに推戴して独立を宣言し(ボグド・ハーン政権)、首都がイヒ・フレーに置かれ、ニースレル・フレー(首都フレー、Niislel khüree)と呼ばれるようになった。

 首都イヒ・フレーの中心には、活仏にして皇帝だったボグド・ハーンの「黄の宮殿」がそびえ建っていた。「黄の宮殿」は、黄色の塀で囲まれた黄色いゲル型の宮殿群である。注目すべきは、この敷地内にあった、日本の天守閣にも似た黄金の高殿(デチンガラブ堂)である。デチンガラブ堂は、活仏が時輪タントラの潅頂を行う寺堂なのだが、一階部分が天幕、二階部分以上が中国風の高殿といった遊牧と定住、双方の建築様式を兼ね備えていた。

 また、黄の宮殿前の広場では、ナーダム(弓射やモンゴル相撲などの祭典)や弥勒祭、ツァム(仏教の仮面舞踊儀礼)が催されていた。さらに黄の宮殿を取り囲むかのように30のアイマグと呼ばれる寺院群が配置されていた。アイマグはそれぞれ塀で囲われており、中にゲル型の寺院や僧坊などで構成されていた。アイマグは、地方に領民と家畜を所有しており、そこから収入を得ていた。黄の宮殿は、確かにモンゴルにおける政治と宗教の中心だったといえよう。

 いずれにせよ、黄の宮殿の主人たる活仏ジェブツンダンバ・ホトクト8世は1912年~1921年の10年間、君主として君臨したが、1924年5月、8世は遷化(逝去)した。その半年後に人民政府は新憲法を採択し、社会主義国家「モンゴル人民共和国」が成立する。新憲法では政教分離を定め、活仏やラマたちを政治指導者に選ぶことが禁じられた。さらに1928年、新たに活仏を探索し認定することも禁じられた。こうして300年間続いたジェブツンダンバ活仏転生の伝統はひとたび、途絶えたのである。

 その結果、活仏の宮殿は、社会主義時代の英雄の霊廟へと姿を変え、そして今はチンギス・ハーンの神殿へとさらなる変貌を遂げた。

 こうした中、2023年春、ダライラマ14世は、インド・ダラムサラにてジェブツンダンバ・ホトクト10世のお披露目を行った。9世は2012年に遷化(逝去)していたのだが、数年前、密かにその転生者の探索が進められ、密かに認定がなされたのである。10世はアメリカ生まれのモンゴル人の少年だ。つまりこの都市のかつて「主人」が戻ってきたわけである。ウランバートルが活仏の都としての姿を取り戻すのか、あるいは「チンギス・ハーン」の都として進むのか。今後、目が離せない。

参考文献
島村一平(編)『邂逅する写真たち―モンゴルの100年前と今』、国立民族学博物館、2022年。

イヒフレーの面影を偲ばせるゲル型寺院。社会主義時代はサーカスとして使われていたが、民主化以降、ダシチョイリン寺院として再出発した。2018年 島村一平撮影

イヒフレーの面影を偲ばせるゲル型寺院。社会主義時代はサーカスとして使われていたが、民主化以降、ダシチョイリン寺院として再出発した。2018年 島村一平撮影

ウランバートル遠景。タワーマンションが林立する。2022年 島村一平撮影。

ウランバートル遠景。タワーマンションが林立する。2022年 島村一平撮影。

政府宮殿にスフバートル将軍の影が差す_2018年_B.インジナーシ撮影©Injinaash,Bor

政府宮殿にスフバートル将軍の影が差す_2018年_B.インジナーシ撮影©Injinaash,Bor

書誌情報
島村一平「モンゴルの都市(ウランバートル)」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, MN.4.03 (2023年9月5日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/mongol/essay02/