アジア・マップ Vol.01 | ミャンマー

《総説》
ミャンマーという国

中西 嘉宏(京都大学東南アジア地域研究研究所・准教授)

 ミャンマーは正式名称をミャンマー共和国連邦という。東南アジアの西に位置し、タイ、ラオス、中国、インド、バングラデシュと国境を接していて、東アジア、東南アジア、南アジアのちょうど間にある。かつては中国文明とインド文明とが陸で交流する場だった。現在は中国とインドという新興大国のはざまの国として地政学的な重要な位置を占める。人口は5141万人(2014年センサス)と東南アジアでは5番目ながら、国土の面積は676,600平方キロでインドネシアに続いて2番目に大きい。日本の約1.8倍である。

 首都は1948年の独立時から2004年までイラワジデルタ地帯の入り口に位置するヤンゴン(長くラングーンと呼ばれていた)であった。その後、2005年に中部の保護林地域に首都ネーピードーに遷都した。この首都には政府機関中心に造られた人工的な都市である。この首都を一部として中央部には乾燥地帯、北にはヒマラヤ山脈の東端、東には高地、南にはデルタ地帯と、実に多様な自然環境、地理環境をもつ地域からなっている。

 自然や地理だけではなく、社会も多様である。この国は多くの民族によって構成される多民族国家である。政府の公式見解では135の民族がいるとされる。民族構成の比率については、筆者が内務省の内部資料をもとに算出したところ、多数派民族であるビルマ人が68.1%、続いて主要民族である7民族は、カイン人が6.4%、シャン人が4.6%、ラカイン人が4.3%、モン人が2.7%、チン人が2.0%、カチン人が1.7%、カヤー人が0.4%である。ただし、政府が定めた公定民族やこうした統計には多くの問題が指摘されていて(たとえば中国系、南アジア系が含まれていないなど)、信用し過ぎてはならない。

 民族と比べると宗教については多様性を欠き、仏教徒が約9割を占めている。民族と宗教との関係は重なることもあれば、同民族内でも宗教が分かれることもある。例えば、ビルマ人、シャン人は仏教徒が大多数を占める一方で、カチン人、チン人、カヤー人にはキリスト教徒が多い。カイン人は仏教徒がやや多いが、キリスト教徒が大半を占める。

モン州の仏像(2008)

モン州の仏像(2008)

ビルマ料理

ビルマ料理

カヤー州ロイコーのパコダ(2018)

カヤー州ロイコーのパコダ(2018)

 1948年1月4日にイギリスの植民地支配から独立したミャンマーは、独立当初から国としての危機に見舞われた。1942年から45年までアジア太平洋戦争下で日本軍の占領下にあり、日本軍と連合軍との戦いの前線にもなった地域である。国土の荒廃はひどく、さらに、独立とともに、革命を目指す共産党勢力や、より広範な自治権を要求する少数民族の武装勢力、さらにイスラーム国家の樹立を目指す勢力など、実に多様な政治勢力が跋扈した。この国家統合の危機に際して武装勢力の鎮圧に従事したのが国軍である。国軍は内戦での戦いを通じて組織として影響力を拡大した。

 そして、国軍は1962年にクーデターで自ら政権の運営に乗り出す。そこから軍事政権は2011年まで49年間続いた。軍事政権の存在は世界で決して珍しいものではないが、ミャンマーのように約50年に渡って軍事政権が続いた国はそうない。この長期にわたる軍事政権は大きくふたつの時期に分かれる。

 まず、1962年から1988年まで続いた社会主義的な軍事政権である。この間、最高指導者として国を率いたのがネーウィン将軍で、当初は国軍最高司令官として、その後、独裁政党であるビルマ社会主義計画党の総裁として強大な権力を握った。計画経済と一党制という社会主義国をモデルとした国家づくりを目指したが、結果的には国軍が政府内で絶大な権限を持つ国になった。このネーウィンによる長年の独裁と政府による統制、さらに経済的な停滞といった問題が1988年に反政府運動に結実した。学生たちによる反政府運動は、アウンサンスーチーの登場で国民的な運動へと変容し、民主化の期待が広がった。ところが、1988年9月18日に再び国軍がクーデターを決行する。

 この1988年のクーデターから2011年まで続いたのが第二期の軍事政権である。指導者はタンシュエ将軍であった。国軍最高司令官と軍事評議会である国家法秩序回復評議会(のちに国家平和発展評議会に改組)のトップを務めた。タンシュエによる軍事政権は、「暫定政権」の名の下での軍による直接支配であった。経済的には社会主義路線を放棄して市場経済化へとかじを切ったが、民主化運動の指導者であるアウンサンスーチーを計15年間にわたって自宅軟禁下におくなど、市民への弾圧が恒常化したため、欧米諸国から激しく非難され、各種の制裁を受けた。この国際的孤立と制裁が足かせとなって経済は停滞したが、その一方で2000年代に本格化した天然ガスの輸出(主にタイ、後に中国)が軍政の懐を温め、政権としては安定していった。

 2011年に長い軍事政権が終わったのは民主化運動の長い戦いの成果ではなかった。高齢となったタンシュエの引退に合わせて、軍主導で起草された憲法のもと、国軍の政治関与が公式に認められた体制への移行であった。ところが、米国政府がミャンマー政策を転換して改革支援に動く。最大の理由は、新体制の大統領であるテインセインとアウンサンスーチーら民主化勢力との和解だった。テインセイン政権下でミャンマーは改革の時代を迎える。特に経済改革は主に東アジア諸国からの直接投資を原動力として、平均で7%を超える高い経済成長率を記録した。

 それまでの政府の統制も緩和されて、表現の自由や結社の自由といった市民的な自由は大幅に拡大した。そして、2015年、約27年ぶりに実施された自由で公正な選挙でアウンサンスーチー率いる国民民主連盟(NLD)が圧勝する。その翌年には約55年ぶりに民主的な選挙で選ばれた政権が成立するのである。

 このまま民主化が進行するかと思われた矢先、2021年2月1日に再び国軍によるクーデターが勃発した。政権発足以来、アウンサンスーチーと国軍の最高司令官であるミンアウンフライン将軍との関係は悪化し続け、最終的には2020年11月の総選挙がきっかけとなって完全に決裂するにいたる。直接的な原因は民主化勢力による選挙不正疑惑であった。同選挙では再びNLDが圧勝していたが、その圧勝が選挙不正によるものであり、不正で選ばれた議員たちを招集したことが国家の非常事態にあたるとして、憲法上の非常事態宣言(317条)をつかって政権幹部を拘束し、政府中枢を掌握した。

モン州のプロパガンダ像(2008)

モン州のプロパガンダ像(2008)

 ところが、国民が強く反発した。国軍の想定を超えて、街頭デモや公務員による職場放棄が全国に広がった。対して国軍は暴力的な弾圧を行う。抵抗する市民に多数の死傷者が出たものの、NLD関係者や若者を中心に武装闘争が続いている。政変後の混乱は、治安はもとより、社会経済的な影響も大きく、国内避難民は100万を超え、経済はかつての軍事政権時代のように停滞を余儀なくされている。外交的にも国軍の行動は多くの国々から理解を得られておらず、欧米諸国は軍関係者や軍系企業などに制裁を科した。対して軍事政権はロシアとの軍事関係を強化するなど、圧力に屈する気配を見せていない。こうした外交関係の行き詰まりが同国の経済状況をさらに厳しいものとし、2010年代の経済成長から一転して停滞の局面に入っている。

 ヤンゴンでのデモ(2021)

ヤンゴンでの政治集会(2015)

ヤンゴンでのデモ(2021)

ヤンゴンでのデモ(2021)

 ミャンマーでは長い軍事政権を経て、自由化・民主化が進んだものの、再び軍事政権の時代に戻りつつある。ただし、かつての軍事政権に比べると、市民の抵抗はより強く、国際社会からの対応はより厳しい。ミャンマーが変化と発展著しいアジアのなかで取り残されていくかが注目されている。

書誌情報
中西嘉宏「《総説》ミャンマーという国」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, MM.1.01(2023年1月10日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/myanmar/country/