アジア・マップ Vol.01 | ミャンマー

《エッセイ》
ミャンマーと私

松田正彦(立命館大学国際関係学部・教授)

 ミャンマーをはじめて訪れたのは約20年前の2002年だった。当時はまだヤンゴン国際空港の周りには水田が広がっていて、夜になれば明かりひとつなく、自分の乗った飛行機が暗闇の世界へ着陸していくみたいでわくわくした。

 ネオン輝くバンコクから乗り継いできたからか、はじめて降り立ったヤンゴンの空港も市街もずいぶん暗く感じた。住みはじめるとすぐに電力の絶対量が足りていないことを知った。とくに乾季になると電気が使える時間は一日に数時間だけになり、ディーゼル燃料で動かす発電機の音があちこちから聞こえた。建設途中で長く放置された建物はミャンマー経済の低迷を象徴しているようにみえた。社会主義時代から続く制度や軍政の経済政策はちぐはぐで有効に機能しておらず、外貨やガソリン、禁輸品などはヤミで活発に取引されていて国民生活を成り立たせていた。

 私が最初にヤンゴンに住んだ2000年代前半は軍事政権の時代だったが、総じて治安は悪くはなく、ときどき爆破事件などは起こるものの身の危険を感じる場面にはほとんど遭遇しなかった。ただ、自宅軟禁下にあったアウンサンスーチーの名前を表で口に出すことは憚られたし、治安当局による盗聴や盗撮の噂は常にあり、地方への移動は何度も検問をクリアする必要があった。軍政下の(外国人の)暮らしには真綿で締められるような束縛と目に見えにくい圧力はあったが、慣れると気にならない程度のものだった。しかし、たまにバンコクへ出かけたときに自然と湧き上がってくる開放感と高揚感は、ミャンマーでの緊張と、欠けている自由や豊かさをあらためて自覚させた。

 軍事政権とはいえ行政組織は必ずしも軍と一体ではなかった。当時付き合いのあったミャンマーの行政官たちは、外国人に指摘されるまでもなく、自国の課題を認識している人が少なくなかった。私は彼らから多くを学んだし、彼らの理解と協力があって地方での調査活動も実現できた。

新年を祝う水祭りで賑わうヤンゴン。(2002年4月撮影)

新年を祝う水祭りで賑わうヤンゴン。(2002年4月撮影)

 政治イベントのたびに「今度こそ変わるかも」という期待と「やっぱりだめか」という諦めを繰り返していたミャンマーだったが、急速な変化を体感するようになったのは2012年頃だった。国内の制度改革が一気にすすめられ、好転した国際関係は援助や投資を呼び込んだ。ヤンゴンは建設ラッシュに沸き、外資系ホテルや大型ショッピングモールが次々に開業した。閉鎖されていた大学も開かれ、民間のメディア活動も活発化した。土地接収問題に関する市民デモが話題を集めることもあった。バイクやスマホは地方農村まで瞬く間に広まった。絵に描いたような経済発展がすすみ、街にはアウンサンスーチーの顔写真があふれた。冗談で「ミャンマーが普通の国になってしまうと面白くない」と言って笑えたのは、誰もが明るい将来を信じていたからだ。

 ところが、2021年2月のクーデターは、皆が思い描いていたミャンマーの未来像を一変させた。

民政移管の後、街にはアウンサンスーチーの写真があふれた。(ヤンゴン、2012年1月撮影)

民政移管の後、街にはアウンサンスーチーの写真があふれた。(ヤンゴン、2012年1月撮影)

 2022年12月にようやくミャンマーを訪れることができた。コロナ禍もあって約3年振りの渡航となった。クーデター勃発から2年を経たヤンゴンには、かつての軍政期の景色がゾンビのようによみがえっていた。空港到着ロビーは閑散としていて、市内を行けば中断された都市開発プロジェクトが目にとまる。長時間の計画停電が再開されて、発電機の出番が増えた。外貨両替はインフォーマルな商店が担う。皮肉にも過去の経験が活かされている。

 以前との大きな違いは治安の悪化である。少し前の状況と比べるとヤンゴン市内はずいぶん落ち着いたようで、大勢の客で混雑したショッピングセンターなど、一見、平和な光景が見られるが、店舗の閉店時刻は早く、日が暮れる頃には家路につく者が多い。爆発や強盗、殺人から、スリや窃盗まで不穏な話は身近にいくらでもある。治安当局から余計な疑いをかけられるのを避けるために、街中での写真撮影はおろかスマホを触ることにすら気を遣う。日常の生活の中に有事の気配が漂っている。

 とくに教育と医療の分野で長期的な悪影響が心配されている。軍政に反対する「市民不服従運動」に加わった多くの教師や医療従事者が現場から離れることを余儀なくされたからだ。初等教育は以前に近い状態にだいぶ戻ってきているようだが、大学などの高等教育機関は元通りにはほど遠い状況だ。

 公的機関を去った教員や医療従事者には、民間の教育機関で教鞭をとる者やインフォーマルな医療機関で働く者も多数いて、そういった機関が集積している街もあるらしい。一方で、不服従運動からは距離をとって職場に残った公務員たちは、一時は一般市民からの激しい非難の対象になっていたが、彼らが混乱する行政サービスを現場で支えている側面もあるようだ。政治が招いたこの国の危機は、市井の人の力でかろうじて保たれている。

 インターネットでは、いろんな視線が気になって、住民の発言はかなり抑制されている。現地に来る前には市民の間の断絶を一番心配していたのだが、互いの事情を理解する様子を垣間見ることもあって、少しだけほっとした。軍政を認めるとか抵抗を諦めるとかとは異なる次元で、そこに住む人びとの日々の暮らしは続いている。

022年12月のシュエダゴンパゴダ。境内に外国人観光客はほとんどいなかった。(ヤンゴン)

2022年12月のシュエダゴンパゴダ。境内に外国人観光客はほとんどいない。(ヤンゴン)

書誌情報
松田正彦「《エッセイ》ミャンマーと私」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, MM.2.03(2023年3月30日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/myanmar/essay01/