アジア・マップ Vol.01 | オマーン

《総説》
オマーンという国

松尾昌樹(宇都宮大学国際学部・教授)

 地理的位置および国名
オマーンは、アラビア半島の南東部に位置する。北にアラブ首長国連邦、西にサウジアラビアおよびイエメンと国境を接し、東と南は海に面している。石油タンカーの主要交通路であるペルシャ湾の入り口を擁するため、戦略的重要性を持つ。

 オマーンの正式名称は「オマーン・スルタン国」、アラビア語では、「サルタナ・ウマーン」である。アラビア語のサルタナは、「スルターンの統治する国」を指す。オマーンの政治指導者が称号として「スルターン」を使用するようになるのは比較的新しく、19世紀半ば以降のことである。それ以前には、オマーンの歴史史料には、マリク(王)やサイイド(広くアラブ・イスラーム圏では、預言者ムハンマドの子孫に対して用いられるが、オマーンでは現在のオマーンの王家であるアール・ブー・サイード家のメンバーに限定して用いられる尊称)、イマーム(イバード派の指導者、後述)等が用いられていた。

 「ウマーン」の名称は、古代ギリシャ時代には存在していたと考えられている。例えば、紀元1世紀にギリシャ語で書かれた『エリュトゥラー海案内紀』には、ペルシャ湾の入り口に「オマナ湾」があり、その近隣に「オムマナ」と呼ばれる通称拠点があることが記載されている。今日では、これが現在のオマーンに該当すると考えられている。

 「オマーン・スルターン国」が用いられる前には、「マスカト・オマーン・スルタン国」が用いられていたが、1970年に現在のオマーン国王の先代にあたるカーブースがクーデタによって父親のサイードから実権を奪取した際に、現在の国名に改称した。マスカトは現在のオマーンの首都の名称であると同時に、おおよそ20世紀の初頭まではマスカトを首都とするブー・サイード家の統治範囲を指す国名としても使用されていた(マスカト・スルタン国)。当時のオマーンには、後述するように、内陸部にイバード派のイマームを元首とする「オマーン・イマーム国」が存在しており、「マスカト・スルタン国」はこれと対峙していた。20世紀半ばにイギリスの支援を得て内陸部のイマーム国を征服したマスカト・スルタン国は、それに伴って国名を「マスカト・オマーン・スルタン国」に改称し、これがカーブースの治世になって現在のオマーン・スルターン国となった。

 社会・歴史
 住民の大半はアラブ人であり、海岸部にはインド系住民も居住している。また、1980年代以降は石油ブームにより多数の移民を抱えており、今日でもオマーンの多様性を構成する重要な要素となっている。

 内陸部は3000メートル級の頂を持つ山脈を擁する。主にゴツゴツとした岩山で構成されており、谷間にはオアシスが点在する。内陸部の山脈地帯には、近代以前には、険しい山や谷で隔てられた空間内部の複数のオアシス集落からなる「国家」が点在していた。これらの国家は有力部族の長によって統治されていた。部族間関係は系譜や血縁によって複雑に入り組んでおり、合従連衡を通じて時代と共に関係を変化させてきた。ある二つの部族間の対立はそれぞれの部族と協力する部族を巻き込み、時としてオマーンの諸部族を二分する戦乱となることもあった。このような諸部族・小国家群を束ねる際に重要な役割を果たしたのが、イスラームである。

 オマーンは早くからイスラームを受容しており、記録によれば、オマーンがイスラーム化したのは預言者ムハンマドの存命中であったとされる。今日のオマーンに居住するイスラーム教徒の大半が信仰するのは、イバード派である。イバード派はハワーリジュ派の流れを汲む。ハワーリジュ派はその過激な思想・行動によって8世紀までに迫害されて各地に離散し、それと共に諸派に分かれ、オマーンには穏健化したイバード派が定着した。

 イバード派は共同体の指導者としてイマームを選出することになっており、これは有力部族長や宗教者(ウラマー)の参加する会合で決定された。イマームの下に諸国家が統合されることで軍事力は強大となり、この軍事力はしばしば域外からの侵入者に抵抗するための力として機能した。例えば16世紀半ばから17世紀初頭にかけて、オマーンの沿岸地帯に進出してきたポルトガルを駆逐したのは、イマーム軍であった。また、19世紀半ばからペルシャ湾沿岸地域を統治するようになったイギリスに対し、19世紀末から20世紀初頭にかけて内陸部から抵抗運動を組織したのも、イマーム軍であった。さらに、20世紀半ばに石油利権を求めて内陸部に進出してきたイギリス系石油会社と対峙したのもイマーム軍であった。

 名目的には、イマームの権威は部族長よりも優越すると考えられるが、実際にはその地位が政争の具となることもしばしばであった。その理由として、制度的にイマームが常備軍を持たないため、軍事力を部族に依存する必要があったこと、このために国家運営に有力部族の影響力が強かったことが挙げられる。特定部族の政治力が強くなることを警戒する諸部族が反対派を募ってイマーム軍に敵対することで、内乱が発生し、イマーム国家が崩壊するというパターンが繰り返された。

 政治・経済・社会
 今日のオマーンは、アール・ブー・サイード家から輩出される君主を元首とする君主制国家である。1981年には諮問評議会が設置されていたが、議員は国王の勅撰であり、また議会に立法権限はなかった。その後、1990年代から議会制度改革が続けられ、今日では21歳以上のオマーン人男女に普通選挙権が認められている。また、立候補者の事前審査はあるものの、30歳以上の男女に被選挙権が認められている。今日では、国王の任命による国家議会と、選挙による諮問議会の2院制となっており、諮問議会には閣僚評議会に法案を提出する権限が認められている。ただし、法案の成立には閣僚評議会の承認、閣僚評議会と議会で合意が成立しない場合には国王の判断によって法案の成否が決定されるので、議会が単独で法案を成立させることはできない。

 オマーン経済・財政の基盤は石油輸出にある。しかし、オマーンの石油埋蔵量は小さく、確認可採埋蔵量を採掘量で割ることで将来的に採掘可能な期間を示すR/P値は、14.5年である。R/P値はあまり正確ではなく、またしばしば変動することが知られているが、それでも将来的に安泰といえる数値ではない。このため、近年のオマーンは特に観光業に力を入れており、これを脱石油の柱の一つに位置付けようとしている。オマーンは自然環境や文化遺産が豊富であり、また文化的にも多様性が維持されているため、外国人が食事や服装に悩まされることが少ない、訪問しやすい国である。

 オマーンの人口は若者が多く、およそ3割が19歳以下である。若年人口の多い国は、「人口ボーナス」を期待できるので、経済成長に有利な条件を備えているといえる。しかし、オマーンは周辺の湾岸産油国と同様に、石油ブーム時期に多くの移民労働者を受け入れた経路が今日まで継続され、国民と移民という2集団から形成される分割労働市場が機能している。このため、国民の若年層は低賃金に耐える傾向にある移民と競合してしまい、人口ボーナスを活用しにくい状況にある。

 現在のオマーン人口に占める外国人人口割合は2015年の数値で41.1%であり、その大半が生産年齢人口である。移民労働者を急激に削減することは人件費の高騰と物価上昇を招くだけでなく、経験のある有能な労働力を失うことにもつながるため、慎重な対応が求められる。

書誌情報
松尾昌樹「《総説》オマーンという国」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, OM.1.02(2023年1月10日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/oman/country/