アジア・マップ Vol.01 | オマーン

《エッセイ》オマーンと私
想像もしていなかったオマーンというフィールド

大川真由子(神奈川大学国際日本学部・教授)

 私はこれまでオマーンをフィールドにして文化人類学的研究をしてきた。オマーンを選んだのはまったくの偶然である。学部時代には英文学を専攻していたため、修士課程入学時には中東・イスラーム地域に関する専門知識はほとんどもちあわせていなかった。そのような私に当時の指導教官である故大塚和夫先生がオマーンの民族誌を3冊貸してくださった。湾岸をフィールドとしている人類学者がほとんどいなかったこと、そして先生が懇意にされていた米人類学者アイケルマンのかつての調査地ということもあって先生はオマーンを奨められたと思うのだが、特段のこだわりをもっていなかった私は素直にそれを受け入れた。修士1年夏のことである。

 そこから私の「隙間産業的」研究が始まる。なにせ日本はおろか世界的にもオマーンの人類学的研究はほとんどない状態だったので、研究助成や競争的資金の申請も比較的通りやすかったように思う。オマーンは小国だが、歴史的にインド洋交易ネットワークの一翼を担っていたので、のちに研究対象をオマーン国外にも広げられたという意味において、このときの判断は正しかったと思っている。

 初めてオマーンの地を踏んだのは1997年7月、修士2年生のときだった。当時(おそらく現在も)オマーンには調査ビザが存在せず、唯一存在していた国立大学にも外国人留学生を受け入れる制度が整っていなかった。そこで私はオマーンに行って、直接受け入れを打診することにしたのだ。コネがものをいう社会なので、すでにオマーンに滞在していた日本人を頼り、そこから芋づる式に紹介していただいたオマーン人に協力を呼びかけた。滞在中は連日のように大学に脚を運び、交渉を重ねること2ヶ月。大学からの許可がおり、2年間有効の滞在ビザのスポンサーになってもらうことが決定したのは、それから2年後のことだった。

 2000年2月から2年間、本格的なフィールドワークを実施する際、私を住まわせてくれたのがSさん一家である。Sさん夫妻と4人の子どもからなるオマーン人家族なのだが、外国人調査者を住まわせるなど、保守的なオマーン社会ではきわめて稀なケースだったと思う。そうした意味で私はラッキーだった。末っ子の5歳児との会話からオマーン方言のアラビア語を学んだり、住み込みの外国人メイドに台所仕事を教えてもらったり。親族づきあいの密なオマーン社会では、家族に連れられて冠婚葬祭に参加する機会にも恵まれた。オマーンには公共交通機関がほとんどなく、乗り合いタクシーに女性一人で乗るのも社会的に難しかったため、私は自動車を購入し自分で運転することにした。1年半の都市調査ではスカーフを着用する機会は限定的だったが、半年間の村落調査時は民族衣装で過ごした。外国人とはいえ、女性の場合はとりわけ人前での飲酒や喫煙は御法度だ。ホストファミリーの名誉に関わることなので、私も服装や行動には配慮した(最初の頃は失敗も多かったが)。

 オマーンのジェンダー研究から出発したものの、2年間の調査中にテーマを変えることになる。滞在先の一家の主がたまたまアフリカ出身で、1970年代にオマーンに帰還した移民だったことから、彼らが紡ぎ出す独特の世界に魅了され、オマーンと東アフリカの歴史的関係や彼らのアイデンティティに関心をもつようになったのだ。意外と知られていないことだが、オマーンはかつて東アフリカやインド亜大陸に領土をもつ海洋帝国だった。そのため現在のオマーンはインド系、アフリカ系、ペルシア系など多様な民族のエッセンスが混じり合い、アラブ系が多数を占める中東のなかでも独特の雰囲気をもっている。私がこの20年ほど研究してきたのも、19世紀来、本国の領土拡大を契機に東アフリカに赴き、1970年以降オマーンに帰還した人びとやその子孫である。その多くがアフリカ人との混血でスワヒリ語の会話能力をもつなど、アフリカとのつながりをもっていることから偏見の対象になることもあるのだが、彼らの存在は実際に現地に行くまで知らなかった。文献にほとんど記述されていなかったからである。

 こうして恩師による薦めでオマーンをフィールドに選び、滞在先の家族との出会いからオマーンだけでなく東アフリカにも関心を広げることになったわけだが、調査がつねに順調に進んだわけではない。研究テーマによってはオマーン政府の検閲が入ることがあり、結果、オマーンに入国禁止になった研究者もいる。詳細は書けないが、私も調査中、メールの検閲や電話の盗聴、秘密警察による追跡を経験した。好奇心に突き動かされて、あるいは成果を急ぐあまり、相手(個人だけでなくコミュニティや政府)の知られたくない領域にまで踏み込んでしまう危険性はある。文化人類学者として、調査する側とされる側の権力関係には意識的でなければならない。だがそれを超えて、フィールドでの彼らとのつきあいは私のものの見方やその後の人生に大きな影響を与えた。今後ともフィールドとともに歳を重ねていくのを楽しみにしている。

国民行事でもあるラクダレース。調査中、NHKのドキュメンタリー番組制作にも携わった(2000年筆者撮影)

写真1: 国民行事でもあるラクダレース。調査中、NHKのドキュメンタリー番組制作にも携わった(2000年筆者撮影)

調査村にて。庭先で子どもたちの世話をしながらイード(宗教祭)の食事の準備(2001年筆者撮影)

写真2:調査村にて。庭先で子どもたちの世話をしながらイード(宗教祭)の食事の準備(2001年筆者撮影)

ナツメヤシの実(デーツ)の収穫。4月~6月にかけて家族総出で収穫し、生の果実を味わったあとは保存用に乾燥させる(2001年筆者撮影)

写真3:ナツメヤシの実(デーツ)の収穫。4月~6月にかけて家族総出で収穫し、生の果実を味わったあとは保存用に乾燥させる(2001年筆者撮影)

書誌情報
大川真由子「《エッセイ》オマーンと私 想像もしていなかったオマーンというフィールド」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, OM.2.01(2023年1月10日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/oman/essay01/