アジア・マップ Vol.01 | パキスタン

《エッセイ》
パキスタンと私

山根聡(大阪大学大学院人文学研究科・教授)

 1982年、大阪外国語大学(現大阪大学)のインド・パキスタン語学科に入学した私は、ウルドゥー語を専攻した。ウルドゥー語という言語名は、高校時代の世界史の授業が丸一年、インドとイスラームの歴史に明け暮れるという変わったものだったことで印象に残っていた。インドといえばヒンドゥーの神々やバナラスでの沐浴の情景が浮かぶが、同時に、カレー、タージマハル、ミニアチュールがみなムスリムの文化と深くつながっている点が気になり、インド・イスラーム文化の象徴となるウルドゥー語に関心を持ったのであった。大学に入学すると、外国人教員はパキスタンの古都ラーホールからおいでになられたタバッスム博士であった。温厚かつ洒落っ気たっぷりのお人柄に惹かれ、先生の故郷パキスタンに行ってみたいという気持ちが募り、2年生の冬にパキスタンを訪れた。これは、当時関西圏で刊行されていた映画や演劇の情報誌『プレイガイド・ジャーナル』が募集したパキスタン旅行による催行で、参加した大学生は医学生と私のみ。あとは自称歌手や写真家、イラストレーター、テレビ局のディレクターなど、個性豊かな方々であった。写真家やイラストレーターは後に有名な週刊誌を飾る人々となった。ジャーナリズム関係の人が多かったのは、雑誌の性格もあったろうが、隣国アフガニスタンで対ソ連戦争が繰り広げられていたためかもしれない。

パキスタン ラーホールのバードシャーヒー・モスク。ムガル朝6代皇帝アウラングゼーブが建造、1673年に完成した。赤砂岩と大理石で作られた10万人が礼拝できる。

友人とパキスタン ラーホールのバードシャーヒー・モスク。ムガル朝6代皇帝アウラングゼーブが建造、1673年に完成した。赤砂岩と大理石で作られた10万人が礼拝できる。

 ツアーとはいえ、途中の主要都市間の飛行機での移動以外はほとんど自由行動で、私はまだ覚束ないウルドゥー語で街中を歩き回った。カラーチーのホテルで深夜見たのは、アントニオ猪木がパキスタンで行ったレスリングの試合の模様で、街中を歩くと「イノキ」と声をかけられた。アフガニスタン難民支援を積極的に行っていた猪木さんはパキスタン人にとって最初に現れた日本人のヒーローであったろう。30年後、東京のホテルで開催された日パ友好60周年のパーティーに緑のマフラーをかけて登場した猪木さんに、在日パキスタン人が熱狂していた。猪木さん死去直後、パキスタンの首相はツイッターで、ラーホールの競技場で猪木さんと一緒に撮った写真を掲載してその死を悼んでいた。

 最初の旅行でパキスタンの人々が誇る客員歓待に味を占めた私は、その後毎年パキスタンを訪れた。タバッスム先生の計らいで、1989年にラーホールのパンジャーブ大学の大学院に留学し、ウルドゥー文学を学んだ。大学院の授業では膨大な詩を暗記するのに手こずったが、なんとか修士を終えた。ありがたいことに、修士論文はその後パキスタンの出版社のご厚意で刊行できた。留学当初は同級生との雑談に明け暮れる毎日だったが、書籍を買っているうちに書店主たちとの交流を持った。書店にはパキスタンの名だたる作家が集まっており、彼らは留学生の私を温かく迎えてくれた。

パキスタン パンジャーブ大学オリエンタル・カレッジ。筆者の母校で、1870年に創立された。市内のにぎやかな場所にありながら、門をくぐると静けさが漂う。

パキスタン パンジャーブ大学オリエンタル・カレッジ。筆者の母校で、1870年に創立された。市内のにぎやかな場所にありながら、門をくぐると静けさが漂う。

 留学時代、私はラーホールの地図を購入し、歩いた道を蛍光ペンで塗りつぶし、市内のほぼ全ての道を歩いた。酷暑の昼、有名なアイスクリームで20個食べたり、シシカバブを20本近く平らげるなど、あまり健康にはよくない毎日を送っていたが、友人や作家たちとの交流は、今もかけがえのない宝物となっている。

 ある日のこと、友人と屋台で大きな白い付け髭を買った。友人たちに言われてこれをつけ、大学入口にショールを羽織って小一時間ほど座っていたら、人々が施しを恵んでくれた。最初大喜びしたが、友人が「このお金は自分のために使うとハラームだ。聖者廟で貧しい人に寄付しよう」という話になり、皆でダーター様(11世紀の聖者、アリー・フジュウィーリー)の廟に行き、ランガルと呼ばれる寄付(貧者のため食堂で食費を払う)を行った。友人たちの顔が晴れやかだった。

 留学を終えて帰国し、2年ほど非常勤講師の生活を送ったが、そこでイスラーマーバードの日本大使館の専門調査員として1994年2月に再度パキスタンに向かった。大使館では広報・文化班で文化行事などを担当するという話であったが、着任後、突如アフガニスタン担当にされた。初日、地雷撤去の会合に出た時は、旅費を返して、このまま日本に帰国しようかと思い悩んだが、ソ連軍撤退後に続いていたアフガニスタンでの内戦の状況を調べ、アフガニスタンの内戦当事者との面会や、パキスタンのアフガニスタン担当者との面談を繰り返すうちに、それまで文学者と会っていた私にとって、パキスタンの別の側面を見ることとなり、地域を知るうえでとても役立った。

パキスタン 2008年2月の総選挙の時に街中を走っていたムスリム連盟支持者の車 識字率が6割のパキスタンでは、投票用紙や選挙ポスターに名前に加えて政党のマークが描

パキスタン 2008年2月の総選挙の時に街中を走っていたムスリム連盟支持者の車 識字率が6割のパキスタンでは、投票用紙や選挙ポスターに名前に加えて政党のマークが描

パキスタン アフガニスタンとの国境、連邦直轄部族地域内での婚礼の模様。男女はテント内を二分して互いの顔を見えないようにしている。2008年3月

パキスタン アフガニスタンとの国境、連邦直轄部族地域内での婚礼の模様。男女はテント内を二分して互いの顔を見えないようにしている。2008年3月

 2年余りの専門調査員の任期を終えて、大阪外国語大学に就職した私は、パキスタン北部のイスマーイーリー派の研究をしていた友人で当時京都大学の研究員だった子島進さん(現・東洋大学)の紹介で、京都の喫茶店で小杉泰先生と初めてお会いした。気負っていた私は、アフガニスタン諸派の思想や主張、対立の要因についてひとしきり話をしたが、小杉先生が「対立の要因って、思想的なものに加えて、個人的な対立とかありませんか?」と仰った。その通り、実は兄弟や親友が襲撃されたことで袂を分かった指導者も少なからずいたのである。それは思想など大きな流れとは別の個人的な問題、と軽んじていた私に、現地に対する複合的な理解の重要性を再考する機会となった。以来、ウルドゥー文学の研究とともに、パキスタンにおけるイスラームの諸相についての研究も行うようになった。

 大学に入学してちょうど40年の今年、パキスタンと私の関係を振り返ると、書きつくせない。いったい何度声を立てて笑い、腹を立て、泣いたろうか。対話を重ねたこれらの時間は、すべて、パキスタンとのいい思い出となっている。

書誌情報
山根聡「《エッセイ》パキスタンと私」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, PK.2.01(2023年1月10日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/pakistan/essay01/