アジア・マップ Vol.01 | サウディアラビア

《エッセイ》サウディアラビアの都市
変わりゆくマッカ

森伸生(拓殖大学イスラーム研究所・所長)

異教徒禁断の地マッカ
 マッカを最初に訪問したのは、1975年9月であった。マッカにあるウンムルクラー大学留学のためである。まだまだ夏の日差しが強い季節である。マッカ訪問の最初の儀式は小巡礼である。そのために、イフラームをまとうことになる。白色の布二枚だけを使い、一枚を腰に巻き、一枚を左肩からかける。一気に時空を超えて、異次元の世界に入ったような錯覚に陥る。その姿で、ジェッダのタクシー乗り場からマッカへと向かった。

 マッカ、マディーナの二聖都へは、異教徒の入境は許されない。そこには純粋にイスラームだけの世界がある。ジェッダ・マッカを結ぶ旧マッカ街道には「イスラーム教徒以外の者は立入りを禁ず」と、数カ国語で書かれた立看板がある。ジェッダを車で出発して、30分程度走ると、検問所が見えてくる。検問所のそばに警官が立ち、車を止め、車内を覗き込み、イスラーム教徒かどうか確認している。イスラーム教徒であることを証明するものか、マッカ滞在許可証を提示すれば、すぐに通してくれる。しかし、時には信仰の告白や短いクルアーンの章句を言わせられる時もあり、警官によってその検問の度合が違う。後々のことであるが、私は幾度となくこの検問所を通過したが、一度だけマッカ滞在許可証の提示とともに、信仰の告白を問われたことがある。日本人のイスラーム教徒に興味を持ったようだ。

 マッカの周りには城壁があるわけではないので、既成の道路を通らずにマッカへ入ることは理屈の上では可能である。しかし実際には、マッカを取り巻く岩山と砂漠が道路以外からのマッカ侵人を防ぐ自然の城壁となっているので不可能に近い

 検問所を過ぎると、マッカへの一本道を進むだけである。道路の両脇に砂漠が広がり美しい風絞を見せている。所々に名も知れぬ灌木が点在し、それを食む羊やラクダの群を追うベドウィン達の姿を見かける。遠く砂漠の彼方には灼熱の太陽に照らし出された岩山が連らなってうっすらと見える。時折、岩山が行手を阻むかのように道路を両側から挾みこんでいる個所もあり、緩やかな上がり下がりがしばらく続く。マッカに近づくにつれ無人の砂漠は終り、人家が見えてくる。目前に人家が密集したマッカの町を囲む岩山が現われてくる。しばらく道路は立ち並ぶ白壁や商店を両脇にして上り坂になっている。坂を登り切り、いよいよ下り坂を曲りくねりながら下りて行くと、マナーラの先端が見え、そこにこつぜんと巨大な大理石の建造物が現われてくる。それがマッカの中心をなすアル=マスジト=ル=ハラーム(聖モスク)である。はじめて聖モスクを目の当たりにして受けた、背筋が硬直するほどの衝撃と感動は忘れることはない。

 今では、マッカの状況は変わり、聖モスクの周辺には高層ホテルが建ち並び、601メートルも高さがあるホテル棟までができあがっている。それは20㎞先からも見える。聖モスクの位置は遠くからも分かるが、聖モスクのマナーラはそばまで近づかないと分からなくなってしまった。郷愁にかられる者にとっては、少し残念な気もするが、聖モスクへの訪問の感激は変わらない。

聖モスクへ入場
 聖モスクには多くの門がある。最も大きな門が聖モスクの西側にある。そこから初めての入場である。聖モスク内に入ると絨毯が敷き詰めてあり、多くの訪問者がそれぞれにくつろぎ、クルアーンを読む者、礼拝をする者、車座になり勉強する者、さまざまである。一階の天井にて太陽の日差しが遮られて、少し薄暗い雰囲気であるが、聖モスクの内庭に出ると、そこの中心に黒いキスワをまとったカアバ聖殿を目の当たりにする。日差しが強く、カアバ聖殿の周りの大理石と小石から光が反射して、目の前が真っ白になる。カアバ聖殿までの通路には大理石が敷き詰められている。南東の角にある黒石のところまで回って、そこからタワーフ(周礼)を始める。始めるにあたり、そばの小石を手にして、7回の周礼を数えることにした。1回、2回と廻るうちに、昼過ぎのカアバ聖殿の周りは焼け付くほどの熱さであった。祈りの小冊子を片手に回り、7回を終え、マカーム・イブラーヒーム(イブラーヒームの御立ち所)の後ろで礼拝を行った。当時は内庭すべてを大理石で敷き詰めておらず、合間合間には小石混じりの砂が敷いてあり、その上で礼拝することになった。脛に小石の跡がつき、落ち着かない。今では、内庭全面に大理石が敷きつけられおり、心地よく、祈りをささげることができる。

写真1:カアバ聖殿を正面にしたハラーム・モスク内(2012年筆者撮影)

写真1:カアバ聖殿を正面にしたハラーム・モスク内(2012年筆者撮影)

写真2:暁の礼拝後のハラーム・モスクの中から見上げるホテル塔と時計台(同)。

写真2:暁の礼拝後のハラーム・モスクの中から見上げるホテル塔と時計台(同)。

 聖モスクの東側にはサアイ廊があり、カアバ聖殿を背にして右にサファーの丘、左にマルワの丘がある。イブラーヒームの妻ハージャルの故事にのっとり、サファーの丘からサアイの行を始める。両丘の間を三往復半行い、マルワの丘にて、髪の毛を切り、祈りをささげ、ウムラの儀式を終える。

 儀式を終えて、聖モスクの外に出ると、透き通った声「サビール!」「サビール!」を耳にする。この声の主は小脇に素焼の壺を抱え、手の平の中では金属製の小さな椀をカチャカチャと鳴らし、「サビール」の声を繰り返しながら、人々の間を廻り、ザムザムの水をマッカを訪れる人々に配っている。サビール(道)とはアッラーの道に添った行為を意味し、これによって彼はアッラーからの祝福を求めて無料奉仕を続けているのである。灼熱の太陽が照りつける下で彼から受け取る一杯の素焼壺で冷やされたザムザムの水の何ともいえない心地良さ、喉を鳴らして一気に飲み干す。彼は椀を受けとると、こちらの礼を聞く間もなく、次のマッカ訪問者へと移って行く。

 「地上で最良の水はザムザムの水である。」これは預言者ムハンマドの言葉であり、このザムザムの水は聖モスクを訪れる者の喉を潤すばかりではなく、信ずる者の病も治すと言われる。ハージャルの故事では、水を探し求めた結果、息子イスマーイールの足許から湧き出た水がザムザムの泉である。今ではこのサビールの声は聞こえなくなったが、井戸から汲み上げられた水が蛇口から飲むことができ、聖モスクの方々に水容器が設置されている。

 当然、聖モスクも大きな変化を遂げている。敷地面積も拡大し、収容人数も5倍(300万人)に増えた。サアイ廊も同様に、巡礼者を受け入れるために、大改築が行われて、今では、地下1階、地上2階となっており、多くの巡礼者を一度に受け入れることができるようになっている。

聖モスク周辺の変わりよう
 聖モスクの周辺は先ほど述べたように、高層ホテルが建ち並び、そのホテルの中には地上数階までヨーロッパのショッピングモールさながらに高級品といった感じのものが並べられている。やはり、改築前の頃に思いを馳せると、そこには門前町風情が漂っており、小さな土産物売りの店が軒を連ねていた。その一軒、一軒、時間をかけて見て回る楽しみがあった。本屋もほとんどが宗教書ばかりであったが、礼拝後に本屋に立ち寄り、本屋の主人との他愛もない会話も楽しみであった。聖モスクへ通じる東側の主要道路の両脇には土産物売りの店が並んでいたが、店と店の間を奥に入っていくと、そこには昔ながらの市場があり、礼拝に来た人たちが一日の食材を求めて集まってきていた。雑貨店のオヤジは、品物を求めると、座ったままで、愛想も無く、自分で取りな、と言って取り棒を渡すだけであった。そんな頑固そうなオヤジの姿も懐かしく思う。このような古びた風景はもう昔の話となり、今では小綺麗な店舗が並んでいる。

写真3:時計台のあるホテル内部のショッピング・モール(同)

写真3:時計台のあるホテル内部のショッピング・モール(同)

写真4:ハラーム・モスク付近のスークの裏道で(昔ながらの数少ない風景)(同)

写真4:ハラーム・モスク付近のスークの裏道で(昔ながらの数少ない風景)(同)

 私が学んだウンムルクラー大学は聖モスクからバスで30分ほど離れた場所にあった。アズィーズィーヤ通りである。巡礼の最終地アラファの地へ向かう通りの一つである。両側には岩山が連なっている。通りのそばに寮もあり、寮の窓から通りを眺めて、預言者ムハンマドも通ったであろうと一人思いを巡らせていたものである。岩山には白ペンキで区画が描かれていた。何を意味するのかと思えば、それは売れてしまった土地だという。そんな岩山なんかを手にしても、何の意味もないだろうと思っていたが、今では、その岩山にホテルやマンションが建てられているではないか。アズィーズィーヤ通りも同様に、大学のそばに点々と雑貨屋があっただけだが、レストランやショッピングモールが通り沿いに次々と建てられて、今や辺鄙な岩山と殺風景な通りの景色が大変な様変わりを見せている。聖モスクからバス通りとは別に、聖モスク周辺の山々をくりぬいてアズィーズィーヤ方面へとトンネルが造られた。それによって、車で10分ほどの距離となった。これは巡礼時の混雑解消に大いに役立っている。

 聖モスク周辺の山は興味深い。南東側の山はアブークバイス山といって、マッカの伝承では、この世で最初に創造された山だと言われている。その山の中腹を削って、王宮ができてしまっている。そのことにいぶかしげに思う者も出ていた。反対側の山の頂上にはオスマン帝国時代の遺物である城壁が残っていた。それもいつの間にか取り壊されている。やはりオスマン帝国への複雑な思いがあるのかもしれない。東側の岩山には、巡礼でやって来てそのまま住み着いた人たちがいた。その岩山の一部分にファタニー区域があった。ファタニー出身の友人に連れられてファタニー区域へ立ち寄ったことがある。山肌にそってブロックが積み重ねて住まいを造っているので、次から次へと隙間無く、頂上まで、住まいが続いている。友人の住まいに立ち寄ったが、夕食時になると、全員が頂上近くの屋上に集まり、食事をすることになる。一緒にごちそうになった。共同生活である。山肌自体が一つの住まいのようになっていて、面白い体験であった。そのファタニー区域も今は一掃されている。新しい建物にすべて生まれかわりつつある。

歴史を刻む変わらぬ姿 変わらぬ姿はカアバ聖殿である。その姿は変わること無く受け継がれて、全世界のイスラーム教徒の礼拝の方向を定めている。以前は聖モスクにカメラを持ち込むことさえ禁じられ、カメラを手にしているだけで聖モスクの警官から叱責されたものだが、今は、スマホでカアバ聖殿の前で記念撮影をしている。微笑ましい限りである。スマホの監視が難しいこともあるだろうが、写真画像崇拝などありえないとの理念が通ったのであろうか。

 最後に、マッカ周辺の山を紹介する。一つは言わずと知れたヒラー山である。聖モスクから東方郊外にある。預言者が初めて啓示を受けた場所である。1970年代終わりに初めてヒラー山に登って、ヒラー洞窟で祈りをした光景を今でも鮮明に思い出す。ヒラー洞窟への登り道は砂地のようになり、なかなか足場が悪い。たどり着くのに1時間ほどかかる。現在は手摺りや階段が設置され、登りやくすなっている。ヒラー洞窟からマッカ全景が見渡せる。そこには預言者時代から変わらぬ静寂がある。瞑想の場である。

写真5:ヒラー洞窟があるヒラー山(同)

写真5:ヒラー洞窟があるヒラー山(同)

 もう一つがマッカから南方郊外にあるサウル山である。預言者がマディーナへの移住の際に、アブーバクルと身を隠した場所である。ウンムルクラー大学の友人たちと洞窟探検に挑戦した。70年代にはまだその場所には案内看板も立っておらず、その周辺の住人に聞きながら、サウル山の頂上近くにあるサウル洞窟を目指した。岩山を登り、やっとたどり着いたサウル洞窟、それは大岩と大岩の隙間にできた洞窟であった。入るときには身をかがめて入るが、中は六畳ほどの広さがあった。入り口の狭さは、鳩の巣と蜘蛛の巣によって入り口が塞がれ、身を隠した二人が助けられたとの故事を納得させる。我々はその場で一夜を明かすことになった。預言者とアブーバクルへの思いを募らせた一夜であった。

書誌情報
森伸生「《エッセイ》サウディアラビアの都市 変わりゆくマッカ」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, SA.4.01 (2023年1月10日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/saudi/essay02/