アジア・マップ Vol.01 | シンガポール

《総説》
シンガポールという国

田村慶子(北九州市立大学法学部・教授)

成長する経済と国土
 シンガポールはマラッカ海峡を臨むマレー半島の南端に位置する小さな都市国家で、大陸部東南アジアと島嶼部東南アジアを結び、インド洋と太平洋をつなぐ海上交通の要衝に位置する。 資源のない小国ながら、シンガポールの1人当国内総生産(GDP)は2020年で6万USドルに達した。これは独立時(1965年)の約100倍である。成長を牽引したのは観光業ではなく、製造業、運輸・通信、サービス業である。1960年代後半から外資を積極的に誘致して産業を活性化させ、雇用を創出してきた。1970年代は電気・電子製品の組み立てという低技術で労働者を多数必要とする産業を、1980年代には石油精製、造船・船舶修理という大規模な設備や高い技術を有する産業を誘致し、伝統的な中継・加工貿易国家から工業国家への転換を果たした。

 さらに1980年代になると銀行・金融、運輸・通信、コンピューター産業、国際的サービス関連の外資も誘致して、東南アジアの総合ビジネスセンターを目指した。2000年代には教育や化学、娯楽産業にも力を入れている。

 もっとも、成長しているのは経済だけではなく、その国土も埋め立てによって年々大きくなっている。独立時の面積はシンガポール本島と周辺の島々を入れて、東京都23区より少し小さい586平方キロメートルだったが、2020年には712平方キロメートルと、この約50年間に20%も国土を増加させた。埋め立てはイギリス植民地時代から行われていたものの、独立後に急ピッチで進められた。多くの外国人がシンガポールでの第一歩を踏み出すチャンギ空港、空港から都心に向かう高速道路の多くも、また今やシンガポールの観光アイコンになっているマリーナ・ベイ・サンズも一昔前は海だった。

埋め立て地に建設されたマリーナ・ベイ・サンズとマリーナ貯水池

埋め立て地に建設されたマリーナ・ベイ・サンズとマリーナ貯水池

 すさまじい埋め立て工事によって、独立時の海岸線が残る場所はほとんどない。アジアで最も有名なホテルの1つであるラッフルズ・ホテル前の「ビーチ・ロード」という通りの名称は、昔ここが海岸沿いだったことを示しているが、もはや海は全く見えない。

「人民行動党が政府であり、政府は人民行動党である」
 与党人民行動党(PAP)は独立以来、国会のほとんどの議席を占めている。なぜかくも長きにわたってPAPが与党に君臨しえたのか。それは、PAPの安定した一党支配こそが国家の生存と繁栄であるという信念の下、選挙制度は与党に有利なかたちに設定され、情報は統制されて野党の主張は人々に届かず、与党支持への見返りや野党支持への制裁として公共事業を選択的に配分するなどして、与党が負けないシステムが作り上げられてきたからである。

 また、全国に108 あるコミュニティ・センター(あるいはコミュニティ・クラブ)のような草の根機関が与党に奉仕する機関として機能し、巨大な体制安全装置になっていることもPAP一党支配を支えている。コミュニティ・センターの主な活動は社会・文化・娯楽活動の提供で、センターの運営委員会は政府機関が派遣する指導者と地域住民で組織されるが、委員はセンターが位置する選挙区のPAP国会議員の推薦を受け、かつ政府機関による人物調査を経て任命される。したがって,反政府・反PAP的な人物は排除されるし,運営委員会を通して地域住民の実情も把握できる。一方、野党議員は自分の選挙区のセンターの運営に参画できない。野党議員を選出した選挙区では、PAP党員が「草の根アドバイザー」として運営に関わることになっているからである。

 シンガポール人の80%が住む公共住宅もまた体制安全装置である。シンガポールで暮らすためには公共住宅か、高価な民間マンションあるいは土地付一戸建に住むしかない。公共住宅は分譲が原則で、一定所得以下の人しか賃貸に住むことはできないため、ほとんどの住民は公共住宅を購入する以外の選択肢はない。ただ、ペット飼育やベランダの鉢植え,空いている部屋に外国人を住まわせることまで公共住宅には細かく厳しい規則があり、規則に従わないと退去を迫られ、住む家を失ってしまう。政府は公共住宅を通して,「政府の規制を遵守する人々」を創ることが可能になるのである。

 シンガポールを急激に経済発展させたカリスマ政治家のリー・クアンユー初代首相(1990年まで首相、その後は上級相、顧問相として内閣に留まって2011年に引退、2015年死去)は「PAPが政府であり、政府はPAPである。私はこのことに何の弁解もしない」と語り、シンガポールの安定と繁栄を作ってきたのはPAPの一党支配ゆえであることを誇った。

国立博物館で開催されたリー・クアンユー初代首相の回顧展

国立博物館で開催されたリー・クアンユー初代首相の回顧展

多様な人々の言語と宗教
 シンガポールの人口は2020年で569万人、内訳は国籍を有するシンガポール市民352万人と永住者52万人に加えて、長期滞在の外国人が155万人も住んでいる。 市民と永住権保持者をシンガポール人と呼び、その74%が華人、13%がマレー系、9%がインド系、その他がアラブ系やユーラシア系である。シンガポール政府はこのような主に4つの民族集団を、華人(C)、マレー系(M)、インド系(I)、その他(O)の4つの民族グループに分け、人口比に関わらず、それぞれの文化、生活様式、仏教や言語は尊重されて平等に扱われる。「我々シンガポール国民は、人種や言語、宗教の違いにかかわらず、1つの団結した国民として民主的な社会を築くことを誓う」という「国民の誓い」は1966年に定められ、学校行事や公的式典などで唱和を義務付けている。象徴的な立場の大統領も、初代はマレー系、第2代はユーラシア系、第3代はインド系、第4代と5代は華人、第6代はインド系、第7代は華人、2017年からの第8代はマレー系と、主要な民族がそれぞれ就任している。

 ただ、すべてのシンガポール人が修得すべき言語は英語である。学校教育では、英語は第一言語、それぞれの民族語(母語)は華人が標準中国語、マレー系はマレー語、インド系はタミル語(近年はウルドゥ語やヒンドゥー語も選択可)と定められ、英語と第二言語を習得するバイリンガル教育が目指されている。もっとも、英語と第二言語には大きな差がある。英語は「国際語、経済発展のための言語」として高い位置づけがなされる一方、第二言語は「各民族の伝統や文化を継承するために学ぶこと」がその目的である。英語と母語の2つの言語を話せるシンガポール人は56%ほどいるが、家庭内で英語を話す国民は 1980 年には 11.6%、1990 年には 20.3%、2010 年には 32.3%にまで上昇し、若い世代の英語識字率は90%にのぼる。このような英語の普及は、多様な移民社会特有の「言語による社会の分断」に終止符を打ち、多様な民族のコミュニケーションを容易にしているものの、政府が言語を管理することでシンガポールを英語国家に向かわせていると言ってもよい。

 なお、英語と標準中国語、タミル語は公用語、マレー語は国語である。国語がマレー語であるのは1963年から65年までシンガポールがマレーシア連邦の1州だった時代の「名残」で、隣国マレーシアとの関係悪化を避けるために国語をマレー語のままにしたためである。ただ、マレー語を話すのはほぼマレー系だけなので、この国は世界で最も国語を話す人口が少ない国かもしれない。

 言語同様に、多様な宗教も尊重されると同時に管理されている。主要な宗教の祝日である華人の旧正月、イスラム教徒の断食明け祭り(ハリラヤ・プアサ)、ヒンドゥー教徒の正月である光の祭典(ディーパバリ)、キリスト教徒のクリスマスは休みとなる。その他に、新暦の正月、仏教徒の祝日(べサック・ディ)、イスラム教徒の犠牲祭(ハリラヤ・ハジ)も休みで、この国の祝祭日で宗教に関係ないのは5月1日の労働祭と8月9日の独立記念日だけである。

1881年に創設されたヒンドゥー教のスリヴィラマカリアマン寺院

1881年に創設されたヒンドゥー教のスリヴィラマカリアマン寺院

 1990年に宗教調和法という法が制定され、聖職者が異なる宗教間の緊張を高めるような行動や、宗教団体の名において社会、政治的事柄にコミットすることを禁止した。これは1980年代になって宗教団体、特にキリスト教団体が学校や病院などで熱心な布教活動や政治的社会的な活動を行うようになり、それに対して他の宗教団体が反発して異なる宗教団体間のトラブルに発展する危険性があったためである。この法によって、宗教団体の公的もしくは社会的活動には終止符が打たれることになった。他にも、異なる宗教への憎しみを煽ることを禁止する扇動法という法律もあり、政府は、それぞれの民族が自らの宗教や文化を声高に主張して社会が分裂することを回避しようとしている。

変化の兆し
 これまで政府与党の強権的な支配を受け入れ、豊かさと繁栄を享受してきたシンガポール人であったが、脆弱な国家福祉、グローバル化に伴う外国人移民の流入、住宅価格の高騰などに伴い、国家による福祉の拡大を求める声が高まっている。それに伴い、慈善活動をするNGOだけでなく、外国人未熟練労働者支援、自然保護、ジェンダー平等、性的マイノリティの人権擁護と権利拡大を求めてアドボカシー活動をするNGO活動が盛んになっている。このような人々の活動は、シンガポールが多様な価値観が認められる民主的な社会に移行する大きな1歩を作り出していると言えよう。

書誌情報
田村慶子「《総説》シンガポールという国」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, SG.1.01(2023年1月10日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/singapore/country/