アジア・マップ Vol.01 | スリランカ

《総説》
スリランカという国について

中村沙絵(東京大学大学院総合文化研究科・准教授)

スリランカはインド洋、インドの南端に浮かぶ島国である。面積6万5,610㎢と、北海道よりひとまわり小さい島に、2216万人(2021年推計)が暮らす。正式名称は、スリランカ民主社会主義共和国(Democratic Socialist Republic of Sri Lanka)。1948年にイギリス連邦の自治領として独立し、1972年に完全独立するまでは、英領期の通称である「セイロン」が用いられてきた(日本では、紅茶から連想されるこちらの呼称の方が、よく知られているかもしれない)。ちなみに「スリランカ」(ශ්‍රී ලංකාව)というのは「輝けるランカー島」を意味するシンハラ語の呼称で、もう1つの公用語であるタミル語では「イランガイ」(இலங்கை)と呼ぶ。

 一年を通して温暖だが、地域によって気候や自然環境はことなる。ランカー島の中南部には最高峰ピトゥルタラーガラ山(標高2524m)が聳え、山脈は南方のアダムス・ピーク(標高2243m)に向かって50㎞ほど伸びる。この山岳地帯に南西モンスーンがぶつかる5~9月、島の南西部は前半の雨季を迎える。湿潤な南西地域は「ウェット・ゾーン」と呼ばれ、中央高地では霧のかかった茶園の景色が、低地では生態系豊かな熱帯雨林や、青々とした水田が広がる。これに対して、「ドライ・ゾーン」と呼ばれる島の南東部や東部、北部では、北東モンスーン期にしかまとまった降雨が見込めない。北東モンスーンとは、11月から3月にかけて、北東部を中心に島全域に雨を降らせる季節風のことである。これらの地域では、比較的平坦で乾燥した土地に低木林が茂る。突如として巨大な岩山やため池、古跡が姿をあらわしたりする。

 インド洋に吹く季節風は、ランカー島に深い緑と豊かな生態系をもたらした。小さな島国ながら、8か所にのぼる世界遺産の登録がある。その風光明媚な土地柄から、スリランカは「インド洋の真珠」とも呼ばれてきた。しかしその同じ国で、分離独立を目標とした反政府武装勢力タミル・イーラム解放の虎と、マジョリティであるシンハラ人が指示する政府軍との間で、1983年から26年のあいだ内戦が続いてきた。長引く内戦のなかで、人々、とりわけ北東部地域で暮らしてきた多くのタミルやムスリムの人々が失ってきたものは測り知れない。「インド洋の涙」というスリランカのもう一つの呼称は、この国がたどってきた歴史の痛ましさを表している。こうした悲痛な過去を経てなお、その小さな国土のなかで自然や文化が目をみはるほどの多様性をそなえて混在していることが、この国の魅力であるともいえよう。

 スリランカの観光名所の一つに、先述したアダムス・ピーク(山)がある。山道を行く人々が目指すのは、山の頂におかれた巨大な岩である。岩にできたくぼみを、仏教徒は「仏陀」の足跡といい、ヒンドゥー教徒は「シヴァ」のそれ、キリスト教徒は「聖トーマス」、そしてムスリムは(人類始祖である)「アダム」の足跡にみたてて参詣する。まさに、諸宗教をこえて人々を魅了する山岳信仰の姿がここにある。

 スリランカはいわゆる多民族・多宗教国家である。
現在の国勢調査の民族分類に従って整理してみよう。スリランカの人々は、まずシンハラ語話者である「シンハラ」(74.9%)とタミル語話者に分けられる。後者のタミル語話者は、その来歴や宗教によって、別々の「民族」名をもつ。「スリランカ・タミル」(11.2%)は紀元前後からスリランカの北・東部を中心に暮らしてきたとされる人々。「インド・タミル」(4.2%)は19~20世紀初頭にかけて主にプランテーションや港湾の労働者として南インドからやってきた移民の子孫たち。また「スリランカ・ムスリム(スリランカ・ムーア)」(9.2%)はタミル語を母語とするものの、歴史を通じてアラブ世界や南インドから来島したムスリムの人たちとして、別「民族」に分類される。他にも、ヨーロッパ出自の人と現地の人との混血の子孫で英語を母語とする「バーガー」(0.2%)や、ムスリムであるがマレー期限の人々で独自の言語を持つ「マレー」(0.2%)などがある。

 シンハラのほとんどが仏教徒で、全人口の7割を占める。他方、タミルの多くが信仰するのはヒンドゥー教(シヴァ派が多数をしめる)で、これは全人口の12.6%にのぼる。紀元前3世紀頃にインドから伝来した上座仏教の伝統は、盛衰を繰り返しながらも引き継がれてきた。ヒンドゥー教も同様に、インド亜大陸との交流のなかで紀元前後より島に息づいてきた宗教である。これらインド亜大陸由来の宗教に加え、インド洋の東西を結ぶ中継地でもあったランカー島には、古くからムスリムやキリスト教徒の往来も盛んにあった。現在ムスリムは人口の9.7%で、主にスンニ派のシャフィイー派に属している。キリスト教徒は8%を占め、そのうち8割がカトリック、それ以外がプロテスタントである。カトリックが卓越しているのはポルトガル植民地時代の名残りで、シンハラ・タミル問わず沿岸部に多い。

 今では自明視されているが、こうした言語や宗教、来歴など複数の指標を目安とした「民族」カテゴリーが固定化されたのは、英国植民地から独立期にかけてのことであった。ランカー島では、南インドから来島した人々がシンハラ語を身につけて定着する、という流れは、少なくとも13世紀以降断続的にあったという。また西欧列強の植民地支配下に入った16世紀以降は、植民地支配の影響下にある「低地民」とシンハラ王朝の統治下にある「高地民」という区分が、何よりも重要であった。タミル語を話す両親のもとに生まれ、シンハラ語の教育を受けてバイリンガルになった子が、自らの子どもをシンハラとして育てるということも、つい半世紀前までは珍しいことではなかったのだ。

 他の多くの旧植民地と同じように、18世紀から19世紀にかけて、キリスト教や近代教育、啓蒙思想や人種や宗教をめぐる科学的言説にふれた現地の新興エリート層が、自らの文化・伝統を近代の要請に見合うものとして刷新しようと運動をおこしたのが、民族ナショナリズムの発端にあった。宗教復興運動を牽引したアナガーリカ・ダルマパーラは、シンハラ在家仏教徒たちのアイデンティティ形成に大きな影響を与えた。独立直前の権力移譲の過程で言語にもとづく民族カテゴリーが採用されると、この動きは益々強化された。特にシンハラ人エリートは要職に就くシンハラ人が少ないことを提起し、排他主義的な運動や政策を推進した。反ムスリム暴動、インド・タミル人の国籍はく奪問題に続き、独立後は、ポピュリスト政治の広まりのなかで「シンハラ・オンリー政策」(シンハラ語を公用語とし、大学や公務員の試験においてシンハラを優遇する政策)が掲げられた。こうして、民族間の対立は決定的なものとなっていった。

 ところで、スリランカでは長らく、統一国民党(United National Party: UNP)とスリランカ自由党(Sri Lanka Freedom Party: SLFP)という二つの政党が政権交代を続けてきた[(注1) UNPは反共産主義、非コミュナルな政党として、主にコロンボを中心とする富裕層を基盤に成立した。1977年以降の経済自由化や解放市場の方針を打ち出したのはUNPである。SLFPは社会主義・シンハラ民族主義を掲げ、歴史的には支持基盤に農村や地方の有力者層をもつ。1956年の圧勝後、先述した「シンハラ・オンリー政策」を掲げたのは同党である。ちなみに同党は何度も名称を変えながら、現在のスリランカ人民自由同盟(Sri Lanka People's Freedom Alliance: SLPFA)に継承されている。](注1)。UNPとSLFPの二大政党制・ポピュリスト政治の構造は、独立以来、今に至るまで変わっていない。プランテーション経済に支えられ、両党ともに英領期の遺産である「無償の教育・医療サービス」や貧困政策を継承して国家運営にあたったものの、1960年代以降、特に国家経済を支えていたゴムの国際価格が下落すると、経済成長は停滞した。
両党の失策が露呈するなか、困窮した高学歴若年層のあいだでは、二大政党制や既存の社会主義政党への幻滅がまん延した。のちに集合的暴力を起こすにいたったJVP(Janata Vimkti Peramuna、合法化されて以降政党として政治に参加)や、政府軍との間で内戦を繰り広げたLTTE(Liberation Tiger of Tamil Ealam)は、この政治的な空白地帯に生まれた若者主体の政治組織だった。いずれもが大義名分を掲げて大規模かつ無差別な暴力をふるい、対する政府軍も弾圧や武力攻撃を躊躇しなかった。政権与党はたびたび「和解」を試みるもことごとく失敗し、最終的に武力行使に舵を切ったことで、多くの市民が犠牲になった。

 内戦が終わった今でも、自分がどの民族であるか、あるいは何語を話すかということが、一人の人の人生・生活・生命をときに大きく左右してしまう状況は変わらない。通婚や集住は民族を単位になされる傾向が高い。それだけでなく、民族や宗教集団間にはいまだ多くの誤解やわだかまりがある。暴力事件の直後には当然のことながら緊張が高まる。年表にみられるように、内戦終結後のスリランカにおいても、仏教至上主義の組織がムスリム排斥を訴え、在家仏教徒が暴力事件を起こし、これに対して一部の過激派イスラーム組織がテロを起こすなど、暴力の応酬と連鎖は断ち切られていない。

 とはいうものの、好む、好まないにかかわらず、民族や宗教の境界をこえた関わり合いが起こるのが社会生活である。地域ごとにその形や程度は異なろうが、祭りの際に食べ物を贈りあったり、何か活動をするときに(学校の)「同窓生」として集まったりといった関わり合いは維持されている。私が長く住んでいた西南海岸の町では、シンハラ仏教徒とシンハラカトリックとの通婚は、他の条件(経済力や学歴)さえ揃えば選択肢に入るものだった。世代を遡って聞くと一つの家系のなかで(再)改宗が起きている事例も珍しくなかった。この町では、目抜き通りにムスリムの商店がいくつもならび、商店街の裏にはモスクが、また少し歩けばムスリムの集落があったが、ビジネスを営む者たちのあいだでは民族をこえた信頼関係は成功の鍵だと認識されていた。このように、様々な民族や宗教的背景の人々が行き交い、ときに親密な関係を築きながら暮らしてきた生活世界があることもまた、事実なのである。

 2009年5月に内戦が「終結」すると、当時のSLFP党首で大統領だったマヒンダ・ラージャパクサはその功績がたたえられ、国民から絶大な支持を集めた。しかし期待された地方への権限移譲はすすむどころか、中央集権化への動きが加速化した。一族支配の傾向が強まり、中国からの資金流入と結びついた汚職が露呈すると、シンハラ人の間でも強い不信感が募った。人道的制約が課されない代わりに、商業融資に近い条件の融資を受けて着手された事業には、国内に十分な雇用や利潤を生みだす保障のないものが多く、人々に言わせてみれば「ラージャパクサ一族の肥やしが増えるばかり」の代物であった。
財政赤字の拡大、貿易赤字の拡大、経常赤字の持続、外貨準備高の減少が恒常化・深刻化するなか、コロナが追い打ちをかけた。観光産業が打撃を受け、海外出稼ぎ者からの送金も減った。輸出産業は、その原材料や中間財を輸入に依存してきたため、多くが立ちゆかなくなった。外貨準備高の不足はさらに深刻化した。特に燃料は100%輸入に頼るため、殆どの経済活動が停止した。

実はつい最近まで、スリランカは「低中間所得国」に区分されていた。何より、無償の教育・医療サービスや社会指標の高さから、南アジアではインドのケーララ州とならんで福祉が充実した国として知られてきた(他方で、新規の産業を振興し、既存の輸出産業を高付加価値化するなど、輸出市場の拡大や多様化には成功を収めてこなかった。国家運営には海外からの経済援助が欠かせない状態にあったことも確かであり、日本は常に重要な援助国の一つであった)。この独立以来の経済危機と呼ばれる状況は、未だかつてない規模で痛みや負担を強いるものとなっている。

2022年7月に政府が国家破産を宣言する前から、人々は路上に出て大統領や首相に退陣を求めて始めていた。5月には当時首相を務めていたマヒンダ・ラージャパクサが、7月にはマヒンダの弟、ゴータバヤ・ラージャパクサが辞任をし、ラージャパクサ一族の政治支配は一応終結をみたことになる。
知人のなかには、半年間にもわたる経済危機に疲れ果て、スリランカで暮らすことへの失望感を抱いているものも少なくない。ラージャパクサ一族による国政の支配から解放された今、経済政策失敗の負のスパイラルから抜けだし、人々が安心して暮らしていけるような社会が訪れるのか、引き続き注視していきたい。

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バランゴダ・クーラガラの岩洞窟

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書誌情報
中村沙絵《総説》「スリランカという国について」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.1, LK.1.01 (2023年1月10日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/sri_lanka/country/