アジア・マップ Vol.01 | トルコ

《エッセイ》トルコと私
トルコ・イスラーム思想の35年

東長 靖(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科・教授)

 1987年8月25日、マドリッド考古学博物館で私は、イスラーム文化史年表に見入っていた。留学中のカイロからひと時離れ、2か月足らずの西ヨーロッパ旅行の最終日である。
 じっと年表を見つめているうちに、11世紀からのルーム・セルジューク朝につづいてオスマン朝が、トルコを中心に長い命脈を辿ったのに、イスラーム思想研究者としての自分の頭のなかではトルコのことをろくに考えてもみなかったことに、ふと気づいた。その当時、イスラーム思想研究といえばまずアラビア語、次いでペルシア語であり、ヨーロッパ諸語を別にすれば、その他の言語が必要だと言われたことは一度もなかったのである。もちろん、同じ文学部の東洋史研究室ではトルコ語を勉強している人たちがいたが、それは歴史学に必要な言語だと思っていた。
 ヒルミ・ズィヤ・ユルケン(Hilmi Ziya Ülken, 1974年没。イスタンブル大学・アンカラ大学教授を歴任)がすでに1950年代に、トルコにおけるイブン・アラビー学派についての文章を残していることは知っていたが、ほぼ人名の羅列のみであり、思想研究としてはさして興味を引くものではなかった。ラーイクリッキ(世俗主義)が国是とされたトルコ共和国で、オスマン朝時代の思想を辿ることはまだはばかられてもいただろう。

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カイロ大学留学時代、ガラベーヤを着て(エジプト・カイロ)

 私が初めてトルコを訪れたのは、翌1988年5月のことである。エジプトからヨルダン・シリアを経て、11日にアンカラに入った。その折たまたま、アンカラ大学神学部のメフメト・バイラクダル(Mehmet Bayrakdar)助教授(まだ准教授という呼称はなく、彼は36歳の若さだった)にお会いして話をする機会に恵まれたのだが、トルコのカイセリ(一説にカラマン)生まれのダーウード・カイサリーで博士論文を書いた彼も、トルコのスーフィズム思想の伝統を重要視してはいなかった。カイサリー研究にはアラビア語が用いられていたし、当時は彼がトルコ出身であることに気を配っている人も少なかった。
 5月19日からイスタンブルに入り、シリアのダマスクス大学で知己を得たバクリー・アラーウッディーン(Bakrī ‘Alā’ al-Dīn) 助教授から紹介を受けたマルマラ大学のムスタファ・タフラル(Mustafa Tahralı)助教授を訪ねた。彼はその後94年に、オスマン朝におけるイブン・アラビー学派についての概説的な論文を書き、さらにオスマン朝期スーフィズム研究を担う若き俊秀たちをマルマラ大学で育てた人である。ちなみに、バイラクダル、アラーウッディーン、タフラルのお三方とも、ソルボンヌ大学で博士号をとっている。

 この年のイスタンブル滞在でとくに思い出に残っていることが二つある。一つは、マルマラ大学神学部の教員室での研究者たちとの会話で、彼らの多くが、イスラームを強調するのでなく、より人類に普遍的な価値としてスーフィズムを研究すべきだと語っていたことである。シャリーアがイスラーム理解にとって重要であることはもちろんだが、それのみを強調する、もしくはスーフィズム理解においてもシャリーアとのバランスを常に意識するアラブ式のイスラームとは異なる、トルコ流のイスラームを志向していたように思う。
 今一つは、アンカラ通りのセルへンド書店(Serhend Kitabevi、この書店は小さいながら現在も健在である)で、伝統的スンナ派を主張してワッハーブ派を批判する少なからぬ本に出会ったことである。書店の名はアフマド・スィルヒンディーから来ているのであるが、それまで存在一性論に対して目撃一性論を唱えたスーフィーとして捉えていたこの人物が、スンナ派の代表的思想家と認識されていることは、新たな発見であった。(ちなみに、上に述べたイブン・アラビーの創唱した思想が「存在一性論」で、この世界のすべては、まったき一から発して、そこに帰って行くのだという思想である。このような、存在論的な一性論に対して、体験として一者を目撃する、あるいは一者と合一すると主張するのはよいが、それはあくまで認識論レベルの事柄であり、存在論として一を唱えるべきではない、という批判、もしくは改良型があり、こちらは「目撃一性論」と呼ばれるようになっていく。)
 その頃の日本のイスラーム思想研究では、イブン・タイミーヤなど、シャリーア重視で、ワッハーブ派や近代のサラフィー主義に連なっていく流れが重視されていた。内面的真理を探究するスーフィズムは、どちらかといえば日の当たらない場所に置かれていたように思う。こういったなかで、より人類に普遍的なスーフィズム理解や、スーフィズムを含むイスラーム諸学の内面的伝統に基づくスンナ派理解に触れたことは、当時、イスラーム思想研究で疎外感を味わっていた私をずいぶん勇気づけたものである。

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聖者崇拝を戒める貼り紙。「お墓に向かって礼拝しないで。キブラはこっち」と書いてある(トルコ・スィワス)

 私自身がトルコにおけるスーフィズム思想に本格的に取り組み始めたのは、その後10年以上を経て、京都大学に移り、40歳を過ぎてからであった。2001年には、在籍する大学院アジア・アフリカ地域研究研究科のために、イスタンブルでのトルコ語書籍購入に携わった。この時には、東洋大学の三沢伸生さんにトルコの書店事情をくわしく教えて頂き、大いに助けられた。それまでアラブ研究者であった私が、一朝一夕にトルコ研究者になれるわけがない。(もっとも、私自身の自己認識はあくまでイスラーム思想研究者であり、アラブやトルコだけを対象にしているつもりはない。)ふつうなら20歳代の頃に留学して常識として体得しているようなことを、中年になってから初めて体験するのはなかなか大変なことで、三沢さんがこの後何年にもわたって、トルコの書店を引き回して下さったのは、ありがたかった。
 2002年には、サバティカル制度を利用して、5か月弱イスタンブルに滞在する機会を得て、ようやくトルコ語も人並みにしゃべれるようになった。この頃は、イスラーム研究センター(İslam Araştırmalar Merkezi, İSAM)やスレイマニエ図書館に朝から晩まで入り浸って、学問の楽しさを満喫したものである。
 当時のスレイマニエ図書館はまだ写本の現物を見せてくれた。現在、イスラーム世界の多くの国で、コンピュータ画像しか見られなくなったのは、非常に残念なことだ。現物を手に取り、その姿かたちだけでなく、古書独特の匂いに触れえたことは、私にとって貴重な財産である。

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2002年から研究を続けているアブドゥッラー・ボスネヴィーの写本(トルコ・イスタンブル大学所蔵)

 京都大学では、トルコ・スーフィズム思想を研究する次世代の研究者たちを育てることができた。また、2012年には、スーフィズムのみならず、オスマン朝の思想文化諸分野の概説と主要著作のアンソロジー・翻訳を収めた『オスマン朝思想文化研究―思想家と著作』(京都大学イスラーム地域研究センター)をも刊行しえた。
 2016年には、アジア・アフリカ地域研究研究科附属ケナン・リファーイー・スーフィズム研究センターがトルコのケリム財団の寄付により設立された。本センターは、広くスーフィズム研究を推進しているが、トルコのスーフィズム思想を研究する拠点ができたことは、意義深いことだと思う。
 2021年からは、同じくケリム財団が設立に協力したウスキュダル大学スーフィズム研究所と連携して、国際共同研究加速基金(国際共同研究強化(B))「スーフィズムの総合的研究―思想・文学・音楽・儀礼を通して」を始めている。また、2022年からは、科学研究費基盤研究(A)(一般)「非アラブにおける穏健イスラームの研究―インドネシア・パキスタン・トルコの事例から」で、トルコ独自のイスラーム理解を追究している。
 1987年夏の小さな発見に始まったトルコ・イスラーム思想への関心が、こんにちここまでの広がりを持ち、学界の共有財産となったことは、私のささやかな喜びである。牛歩のようではあるが、トルコと私の関係は、これからも続いていくことだろう。

書誌情報
東長靖「《エッセイ》トルコと私」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, TR.2.04(2023年8月21日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/turkey/essay01/