アジア・マップ Vol.01 | イエメン

《総説》
イエメン

松本 弘(大東文化大学国際関係学部・教授)

1,概要
 正式国名はイエメン共和国。アラビア半島の南西角に位置し、西に紅海、南にアラビア海(ともにインド洋の付属海)、北にサウジアラビア、東にオマーンと接する。1990年5月22日に、イエメン・アラブ共和国(以下、旧北イエメン)とイエメン人民民主共和国(以下、旧南イエメン)が統合されて成立した。面積は52万7968km2、2021年の人口は国連による推計で3049万0639人。ただし、最後に人口センサスが実施されたのは2004年で、当時は1968万5161人であった。ちなみに、旧北イエメンの面積は19万5000km2、1990年南北統一時の人口は約716万人(推計)、旧南イエメンの面積は33万2968km2、統一時の人口は約259万人(推計)であった。旧北イエメンの人口密度は旧南イエメンのおよそ5倍であり、この格差が統一後のさまざまな問題の背景となった。

 民族構成は大半がアラブ人であり、少数のユダヤ人やインド系およびアフリカ系住民が居住する。宗教は大半がイスラームであり、その宗派は人口の65%がスンナ派(シャーフィイー法学派)、35%がシーア派のザイド派とされる(CIA推計)。そのほかに、ごく少数のシーア派のイスマーイール派、ユダヤ教などの信徒が居住する。

 2011年「アラブの春」のなかで、イエメンも深刻な混乱と政変に見舞われ、さらに2015年には現在まで続く内戦が勃発した。このため現在は通常の状態ではないので、以下の指標については政変前の2010年のものを確認したうえで、可能な限り現状について言及したい。2010年(推定人口2315万人)の人口増加率は2.8%、合計特殊出生率(女性一人の出産回数)は5.0であり、統一後はこの水準をほぼ維持していた。内戦以降の2020年の人口増加率は2.4%、合計特殊出生率は3.8とされている(国連統計)。実質GDP、一人当たり国民所得、実質GDP成長率の変化は、以下のとおり(国連統計)。


2010年 2015年 2019年
実質GDP(米ドル) 477億1300万 266億6000万 206億4700万
一人当たり国民所得(米ドル) 1335 1006 855
実質GDP成長率(%) 3.3 ―30.5 2.1

 当然ながら、イエメンは世界銀行により最も貧しいとされる低所得国に分類されている。産業構成は2010年で農業が12.1%、工業が38.7%、サービス業が49.2%であったが、2019年では農業が19.0%、サービス業が60.5%に変化した(国連統計)。農業従事者は労働人口の50~60%を占めるが、GDPに占める割合は10%台に過ぎない。1988年から旧北イエメンで石油の生産を開始し、当時は大きな財政収入となったが、その後に生産量が落ち込んだ。天然ガス田も発見されているが、その開発は進んでいない。イエメン最大の産業は、経済協力である。外国や国際機関から開発援助を獲得することが政府の最優先課題であり、獲得した援助を国内で不満が生じないように分配することが、政権延命の絶対条件である。

2,アラビア半島の山国
 イエメンの地勢は、アラビア半島において特異な位置を占めている。アラビア半島は約6000万年前にアフリカ大陸(ゴンドワナ大陸)から分離を始め、約2500万年前に生じたアフリカ大陸東部から死海に達する大地溝帯により紅海が深化、拡大した。その後に半島で火山活動が活発化し、約500万年前の地殻変動で紅海はアラビア海とつながった。同時期に半島の南西部で大規模な隆起が生じ、これによって現在のイエメン山地が形成された。

 アラビア半島の80%以上を砂漠が占めるが、イエメンの国土のおよそ半分は山岳高原地帯となっている。イエメンの西部にはティハーマと呼ばれる紅海の海岸平野が南北に走り、海岸平野は旧南イエメンにも続く。ティハーマの内陸には標高500m前後の断崖が屏風のように連なり、ここから広大なイエメン山地がはじまる。標高2000~3000m級の山々が旧北イエメン中央部を縦走し、首都サナア近郊にはアラビア半島最高峰のナビー・シュアイブ山(3666m)がある。山々の間には大きな盆地平野も南北に続いており、標高がより高く峻険な地形の多い旧北イエメン北部の山岳地帯は上イエメン、大規模な盆地平野が多い旧北イエメン南部の高原地帯は下イエメンと呼ばれ、ダマール州がその境界とされる。イエメン山地は東に向かって標高を下げ、やがて半島最大のルブゥ・アルハーリー砂漠に至る。イエメン山地はタイズ州南部で終わるが、旧南イエメンの内陸部には岩石の高地地帯が東西に走る。

 イエメン山地には、インド洋から夏季に南西モンスーン(南西季節風)が、冬季には北東モンスーン(北東季節風)が吹き、年2回の雨季をもたらす。年降水量は上イエメンで300~500㎜、下イエメンで1000~1500㎜に達し、古代から盆地平野や山斜面の段々畑などで農業が営まれてきた。気候も、上イエメン中央部で温帯砂漠気候、下イエメン中央部で温帯ステップ(半乾燥)気候、その周辺で熱帯ステップ(半乾燥)気候となっている。これら以外の地域は、アラビア半島全体と同じ熱帯砂漠気候である。

 また、降雨は西部のティハーマで大小のワーディーを形成し、その流域において多くの井戸が掘られて、ここでも農業が行なわれている。イエメン山地やティハーマの農産物は、モロコシ(ソルガム)、小麦、大麦やブドウ、ナツメヤシなどである。東部では降雨が伏流水となって、イエメン山地と砂漠地帯の境界に泉やオアシスを形成した。それらを経由する交易路が古代から発達し、旧約聖書の記述に比定されるマーリブ州の巨大ダムの遺跡もそのなかにある。旧南イエメンでもラヘジ州、アビヤン州、ハドラマウト州内陸で大規模なワーディーがあり、農業が可能であるものの、一般に緑地や耕地は極めて少ない。

 イエメンにおける農業は、古代において高価で取引された乳香や没薬も生産し、交易相手のエジプト・シリア方面から、イエメンは「幸福のアラビア」と呼ばれた。農業と交易は、サバ王国(BC8世紀~AD3世紀)やヒムヤル王国(BC1世紀~AD575ca)などの南アラビア古代諸王国成立の要因でもあり、アラビア半島随一の古代文明を形成した。また、砂漠のなかに奇跡のように出現するイエメン山地の緑地や耕地は、中世の資料に「緑のイエメン」という呼称を残した。さらに15世紀になると、紅海対岸のエチオピアを原産地とするコーヒー豆の生産が、イエメン山地で始まった。降雨があり霜が降りない高地という生育条件に適したイエメンは、当時のコーヒー豆の一大産地となり、それは紅海の輸出港ムハーの名を取ってモカコーヒーと呼ばれた。

 一方、カートと呼ばれる嗜好品の栽培も盛んに行われている。カートの葉には、軽度の覚醒作用をもたらす成分が含まれ、大量の葉を口中に入れ奥歯で押し嚙むようにして、その葉液のみを摂取する。片頬を膨らませた男性の姿は、イエメンの風物ともなっている。一般に社交の場で用いられ、友人宅のカートパーティーでカートを噛みながらの談笑が続く。しかし、近年では農地がカート耕地に転用され、他の農作物の生産量が落ち込む問題も深刻化している。

 この緑(農業)をもたらしたモンスーンは、東南アジアやインドの物品を地中海方面に運ぶ「香料の道」という海上交易路にも用いられ、アラブ世界に名高い「イエメン商人」を生み出した。アデンやシフルといったイエメン南岸の港湾には、冬季の北東季節風を用いた商船がインド方面から到来し、香辛料などの交易品を陸揚げした(商船は半年後の夏季南西季節風を待ってインド方面に戻る)。交易品は、紅海を北上する海上ルートや砂漠の移動に適したラクダを用いたイエメン山地と砂漠の境界線ルート、馬やロバを用いたイエメン山地縦断ルートに分かれて地中海方面に向かう。これらを担ったのが、イエメン商人であった。

3,部族と政治の関係
 農業と交易は、確かにイエメンに富をもたらした。しかし、それはあくまでアラビア半島のなかで豊かであったという意味で、当然ながらエジプトやメソポタミヤと比較すれば、農業も交易もその規模は限られていた。イエメン商人という外向性がある一方で、同時にイエメンには保守的で排外的な性格も根強い。その内向性の担い手が、イエメンの部族社会である。

 アラビア半島の部族民は遊牧民であった例が多いが、イエメン部族の場合は西部の砂漠地帯における遊牧民をのぞき、その大半が定住農耕民である。それゆえ、イエメンの農村のほとんどは、特定の部族に属する村民によって占められている。もちろん、部族民ではないイエメン国民もいるが、都市部に移って農業以外の職業に就いていても、自らの家系の出自として出身部族が強く意識されている。近代化(都市化)の開始時期が他のアラブ諸国に比して遅かったことから、意識のみならず、出身村を通じた地方部族との人的関係を維持している都市住民も多い。国民に占める部族民(という意識を保持する者)の割合は確認できないものの、他のアラブ諸国に比して高いとの印象は強い。

 1990年5月22日、南北イエメン統合の記念式典で当時のサーレハ大統領はイエメン国民に対し、「サバとヒムヤルの子ら」と呼びかけた。この場合のサバ、ヒムヤルは上述の古代王国ではなく、部族の系譜の頂点に立つ人物を意味する。イエメンで10世紀に著された『王冠の書』にまとめられた部族の伝説的系譜によれば、イエメン諸部族は南アラブの祖カフターンの子孫であるサバとその息子ヒムヤルを共通の祖先とする。サバとヒムヤルの子孫は複数の系統に分かれ、特定の子孫を名祖とする諸部族が形成された。各部族は、その規模に応じた複数の段階のセクション(支族、拡大家族など)にピラミッド状に分節し、末端に位置するセクションが村落を形成している。それゆえ、居住する村落内では小規模なセクション(拡大家族)名が姓(家族名)となるが、一般に村落から離れるにしたがってより大規模なセクション名が姓となり、都市部に移住すると部族名が姓として用いられる。多くの場合、セクション名や部族名は、彼らが居住する村や地域の地名と重なっている。

 村長や部族長は住民による互選ということになっているが、実際は地主層などの有力家系による世襲の例がほとんどで、村や部族社会の調停や統制、部族間抗争における指揮の機能を担う。イエメンの部族社会はよそ者の侵入を嫌い、男性住民は銃器を所持していることが多い。警察官などの配置は地方都市までで、村落には駐在していない。他のアラブ諸国では、一定規模以上の村には警察官が駐在していることを考えると、イエメンの村落はいまだ部族社会の聖域さを保ち続けている。このため、中央政府と地方部族の関係は、イエメン政治に固有の大きな課題であるといえる。

 イエメン各地の部族は、中央政府に対する地方の政治勢力であり、それぞれに政治的影響力を保持してきた。部族長は政府に対するさまざまな陳情を行なう一方で、その部族や地方の連帯や利害を背景とした圧力も政府にかけた。それは、都市で逮捕された部族民の釈放要求から外国の援助の割り当て交渉まで多岐にわたるが、政府は地方部族との関係を損なわずに穏便にことを進めるよう、常に腐心しなければならなかった。

 なかでも、上イエメンの山岳地帯に居住するハーシド部族連合とバキール部族連合は、拠って立つ峻険な地形を天然の要害とし、強力な民兵力を保持して、長くイエメン最大の圧力団体というべき位置を占めた。冒頭で記したザイド派の信徒は、このハーシド部族連合とバキール部族連合の部族民であり、その居住地域は近代まで歴代王朝の支配に入らず、自治を続けてきた。彼らは第一次大戦後の北イエメンに、ザイド派のイマーム(指導者)を国王とする王国を建国したが、1962年の北イエメン革命で打倒された。しかし、その後のイエメン・アラブ共和国においても、両部族連合は中央政府にとって必要不可欠な支持基盤となるとともに、潜在的な対抗勢力であり続けた。

 2015年から続く現在の内戦において、一方の主体を形成するホーシー派(フーシ派)はもともとザイド派の復興運動を起源とするもので、その担い手は両部族連合の若い部族民であった。しかし、だからといって両部族連合そのものが、内戦の主体となっているわけではない。実は、イエメンは1996年にIMF世銀の構造調整を受け入れており、それにより破綻寸前の経済が再建された。当時のサーレハ政権はその過程で、構造調整の莫大な資金に関わるさまざまな利権を駆使して部族長を懐柔し、両部族連合の政治的影響力を減退させた。若い部族民たちは、政権に篭絡された部族長に幻滅し、両部族連合の凋落に憤慨した。彼らの不満の受け皿となったのが、部族に代わるアイデンティティとしてザイド派を提示するホーシー派であった。それゆえ、内戦の背景には、地方の部族社会における深刻な世代対立という新しい変化があるといえよう。イエメン政治の不安定性や混乱には、常に地方部族の政治的影響力や部族社会の変容が関わっている。

首都サナアの旧市街(ユネスコ世界遺産)

首都サナアの旧市街(ユネスコ世界遺産)

首都サナアの旧市街(ユネスコ世界遺産)

首都サナアの旧市街(ユネスコ世界遺産)

イエメン地図

書誌情報
松本弘「《総説》イエメンという国」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, YE.1.01(2023年1月10日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/yemen/country/