アジア・マップ Vol.02 | アフガニスタン
アフガニスタンの都市
バーミヤン
バーミヤンへの道
筆者がその地を訪れたのは、もう15年ほど前になる。樹木が少なく茶色く乾いた街である首都カブールから、飛行機ならプロペラ機でもわずか20〜30分ほどでバーミヤンへ到着する。
現在は日本の無償資金協力が実施され空港も整備されているが、当時の空港ターミナルは小屋のような建屋だけであり、乗客は屋外で搭乗を待ち、滑走路も砂利が敷き詰められただけであった。それは空港というより飛行場、いや、まさにairstrip(仮設飛行場)と呼んだ方が相応しいものであった(写真1)。それでも当時は陸路なら少なくとも1泊2日以上はかかる道のりを、そして決して治安が良いとは言えない道中(ただし、その道すがらの壮大な光景は一見に値すると現地の人は語っていた)を行くよりは、外国人にとっても地元の人にとっても便利であることは間違いない。
写真1 かつてのバーミヤン空港
空の上から見るその街は、片方に切り立った崖がそびえ、その底にあたる部分が畑の緑に覆われている。「街」と書いたものの、実際には「村」と読んだ方が実態に即しているような小さな集落であるバーミヤンは、しかし歴史に彩られた土地でもある(写真2)。
写真2 バーミヤン全景
アフガニスタンに馴染みのない日本の人々にとっても、その地名は、かつて崖をくり抜いて造られた二体の巨大な大仏の存在とともに耳に、あるいは映像で目にしたことがあるかもしれない。玄奘が記した『大唐西域記』の中にある、「王城の東北の山のくまに立仏の石像がある。高さ百四(高さ約55メートルの西大仏)、五十尺(高さ約38メートルの東大仏)ある。金色にきらきらとかがやき、宝飾がまばゆい」とされる箇所は、バーミャン(梵衍那国と表記)と大仏を語る際には必ずと言って良いほど登場する一節である(写真3と4)。
写真3 大仏跡
写真4 石窟
それらの巨大な大仏はバーミヤンのみならずアフガニスタンの象徴でもあるが、長い間その存在は忘れられ、19世紀はじめに欧米人によって再発見されるまでは地元の人たちにしか知られない存在であったという。その後、世界遺産としても登録されていた大仏は、2000年2月、タリバーンによって破壊された。そのニュースは世界を駆け巡り、タリバーンへの批判とともにバーミヤンが世界に注目されるきっかけとなった出来事である。
穏やかな風景の影で
標高は2,500メートルほどでカブールよりもさらに高い。それゆえに冬の訪れは早く、真夕の寒さは厳しく氷点下30度くらいまで下がる。前述の玄奘も「雪山の中にある」と書き残しているように雪に閉ざされてしまう。
そのような厳しい自然条件ではあるが、日本の農村風景にも似た穏やかな光景と、人によっては、あなたの日本にいる親戚や友人ともあまりにも似ていて見間違うようなモンゴロイド系の顔をしたハザーラと呼ばれる人々が多く住む。(写真5)それゆえバーミヤンのあるアフガニスタンの中央高地はハザーラジャートと呼ばれる。そのハザーラ人はかつてチンギスハーンがこの地を征服した時の名残とも言われている。現在ではその説は否定的に捉えられているが、彼ら彼女らの顔を見れば、そのようなことがあってもおかしくないと思うだろう。
写真5 ハザーラの少女たち
そのバーミヤンにいると、そこが長年にわたって紛争の渦中にあったアフガニスタンであることを現実として感じられなくなる。しかし、そこにもまたアフガニスタンの決して平坦ではなかった歴史が刻まれている。
二体の大仏が存在したのは、ここではかつて仏教が栄えた証拠でもある。大仏の周りに無数にある石窟に残された仏教絵画もそれを物語っている(写真6)。その仏教の影響力は9世紀には衰え始め、13世紀のモンゴル帝国の侵入により大規模な破壊がおこなわれ、代わってイスラームが現在に至るまでこの地に根を張るようになった。今は見ることはできないが、破壊前の大仏の顔が削ぎ落とされていたのは偶像崇拝を否定するイスラームの影響である。
写真6 石窟内の仏教絵画の痕跡
バーミヤンにはハザーラの人たちが経験してきた苦難も刻まれている。タリバーンと呼ばれる人々がそうであるように、アフガニスタンの国民のほとんどがムスリムでスンニー派である。その中にあって、ハザーラの人々はムスリム全体でも少数派であるシーアが多くを占め、そのことがハザーラの人々への迫害へとつながった。
19世紀末、アフガニスタン全土をはじめて統一したとされているアブドゥル・ラーマン国王は、武力によってハザーラジャートを制圧し、土地の没収など過酷な政策をとり、ハザーラの人々はアフガニスタンの社会階層の底辺に置かれることになった。時代は降って、1990年代にはシーアを敵視するタリバーンは、全国にその勢力を広げる中でハザーラジャートの制圧を目指し、ハザーラのグループと激しい戦いを繰り広げ、双方に多くの犠牲者を出した。
バーミヤンの希望と・・・
1960年代から70年代にかけて、平和であったアフガニスタンは東西の文明の十字路としてたくさんの観光客、そして自国の文明や既存の制度に違和感をもった欧米の若い旅行者(ヒッピー、バックパッカー)を受け入れてきた。大仏を擁するバーミアンもその中で人気の観光地でもあった。しかし、その後の混乱の歴史を知るものにとって、「観光」ということばをアフガニスタンと結びつけることは簡単ではない。
2001年11月にタリンバーン政権が崩壊した後、バーミヤンは再び観光資源としての価値が見直された。筆者がアフガニスタンに赴任していた頃には、バーミヤン付近の山の頂上までヘリコプターで一気に登り滑り降りるスキーツアーまで開催されていた。
そのようなバーミヤンには日本人が経営する日本食も供されるホテルがある(写真7)。筆者が昨年(2023年)アメリカの研究機関でアフガニスタン専門家と話をした際、「私は新婚旅行でバーミヤンへ行ったが、日本人がやっているホテルに泊まったがとても良い思い出だ」と語っていた。その日本人(安井浩美さん)が主宰するNGOでは、地元の女性たちを支援するためにハンディ・クラフトの制作が行われている。そのクマのぬいぐるみやトート・バックは日本だけでなく欧米でも人気だという(写真8)。
しかし、タリバーンの復権後、アフガニスタンもバーミヤンもまた「遠い地」になってしまった。かつてタリバーンが大仏破壊に及んだのは、当時国土の90%を掌握・統治していたのにもかかわらず、ほとんどの国が正式承認せず、国連の代表権も与えられなかったことへの不満が一因ともされる。現在(2024年6月)もタリバーンを正式な政権として承認している国、機関はない。その主たる理由である、女性の権利や教育機会の制限に対して外部から強い批判を受けても、タリバーンがその姿勢を変える兆しはない。
かつて仏教文化が栄え、その後、イスラームの国になった後も穏やかに人々が共存していたバーミヤンが昔の姿に戻り、多くの観光客を迎える日が来るまでには、まだまだ時間が必要なのだろうか。
写真7 バーミヤンの日本人経営のホテル
写真8 バーミヤンの女性たちによるハンディクラフト作品
参考資料
・玄奘『大唐西域記1』(1999) 水谷真成訳註、平凡社
・前田耕作(1986)『巨像の風景 インド古道に立つ大仏たち』中公新書
・山内和也(2021)「バーミヤン 光り輝く土地」前田耕作・山内和也編著『アフガニスタンを知るための70章』第40章、明石書店
・JICA ODA見える化サイト
https://www.jica.go.jp/oda/project/1161430/index.html
写真はすべて嶋田撮影
書誌情報
嶋田晴行「アフガニスタンの都市(バーミヤン)」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.2, KG.4.01(2024年10月1日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/afghanistan/essay02/