アジア・マップ Vol.02 | ブータン
《エッセイ》ブータンと私
ブータンにおける高齢者ケア
1989年2月24日、昭和天皇の崩御に伴い、大喪の礼が営まれた。当時、小学6年生であった私は新聞をテーブルの上に広げ、掲載されていた各国からの来賓の写真を眺めていた。そこで、昔の日本人のようないで立ちをされたこの方はどこの国の人だろうと目に留まったのが、ジグメ・シンゲ・ワンチュク第4代ブータン国王であった。ブータンは私にとって小さい頃からある種の憧れの地であり、その世界に溶け込んでみたかった。その思いを決定づけたのが、大学時代帰省の際に実家で観たテレビ番組だった。番組では大相撲を引退したばかりの舞の海関がブータンのダムジを訪れ、子どもたちと共に土俵を造り相撲を取っていた。私は、緑に囲まれキラキラと輝きを放つ子供たちの笑顔に、心を奪われてしまった。大学に戻ると、二段飛ばしで大学の階段を駆け上がり国際保健学教室の門をくぐった。ブータンに行きたいことを伝えたが、渡航の目的を聞かれても要領を得た答えができずにトボトボと家路につく自分がいた。
ブータンの地を訪問する機会は2009年5月に訪れた。国立民族学博物館の栗田靖之先生のツテを頼りに、恩師である松林公蔵先生、奥宮清人先生と共に、入国した。当時、行程や人数によっても多少変わるが、観光客には基本的に1日1人当たり250米ドル固定のパックツアーが義務付けられており、JICA関連の事業などでなければ、日本人がブータンに長期的に滞在することは非常に難しいと言われていた。この最初の渡航で、当時保健省医療サービス局の局長であったドルジ・ワンチュクさんに提案したのが地域に根ざした高齢者ケアの計画だった。当時、研究員として属していた総合地球環境学研究所のプロジェクトのテーマの一つが高所における健康と老いであり、ブータンに居させてもらうお返しとして、自分ができることは何かと考えたときに、恩師らに教わった高齢者健診のノウハウを活用し、国際的なエビデンスと照らし合わせながら、ブータンの方々自身で持続的に行いうるブータンの生活の場に根ざしたブータンなりの高齢者ケアを模索できないかと考えたのである。その後、交渉に紆余曲折があったが、様々な方の御助力のおかげで、ブータンのGross National Happiness Commission(国民総幸福委員会)の承認を得、ブータン東部タシガン県カリン地区で活動を開始することとなった。その地区に医師は私一人であり不安もあったが、患者さん一人一人に未熟ながらも対応するうちに、行き交う方々が挨拶をしてくれるようになり、まがりなりにも地域の一員になれた気にさせてくれた。
ブータンは限られた専門的人材と設備を自覚し、1978年に「すべての人に健康を」と謳うアルマ・アタ宣言に批准し、基礎的な医療を遍く届けるプライマリーヘルスケアを重視していた。私もこのアルマ・アタ宣言の理念に共感し、管轄地域内に暮らす高齢者全員を診察するということを一つの目標にした。当時、管轄地域内のどこに何人の高齢者が暮らしているか診療所でも把握できていなかった。地区内の村長さんらの御助力を得て高齢者のリスト作りを行った。そして、診療所で健診を行った後、管轄地域内のすべての村を訪問し高齢者を診察した。特に疾病を複数抱える高齢者にとって診療所に行くのは至難の業であり、診療所で待っているだけでは、適切な医療を届けることはおぼつかない。山を越え、谷を越え、美しい村々を回る往診の日々は心地よかった。帰り際に山の向こうの夕陽にしばらく足を止めて見とれることもあった。リストに残った最後の高齢者を診察できたのは、ちょうどブータンのロサルという正月で、その方と一緒に日本から持参した梅酒で乾杯をした。
高齢者健診はその後カリン地区だけでなくタシガン県全体に拡がることとなった。高齢者健診に過度に注力すると他の方々への医療にしわ寄せがいく可能性もあり、性急な展開に懸念もあった。カリンではDisability (日常生活機能障害)、 Diabetes(糖尿病)、Dementia(認知症)、Depression(抑うつ)、Dental problems(歯科の問題)、Isolation(孤立)、Hypertension(高血圧)、Addiction(依存症)、Visual problems(視力障害)、Ear problems(聴力障害)、Fall risk(転倒リスク)、Urinary incontinence(尿失禁)、Nutritional problems(栄養問題)(頭文字を略して“5D, I HAVE FUN”)に焦点を当てることにしており、健診にかなりの時間を要したが、地域を拡げるにあたって、その負担を考え健診を簡潔化する方法を話し合った。タシガン県の保健スタッフが集い、私のことなどそっちのけで熱く議論を交わす光景を目の当たりにして、今まさにここからブータンなりの高齢者ケアが創られていくのではないかと勇気づけられた。
その後、ブータン各地で指導者養成研修が行われ私も巡回した。そして、高齢者健診はブータン全土に拡大した。とはいえ、多くの地域で、カリンで行ったような往診を含めた悉皆型の健診にはまだなっていない。ただそれもブータンなりの高齢者ケアのやり方なのであろう。今や人工知能で自動解析を行うウェアラブルな検査装置があふれており、健診に医者が不要になる時代もすぐそこまで来ている。場所と時代によってもののあり方は変わりゆくものである。ただ、あの時、歩いた道、出会った人々、過ごした日々は、今も私の心の中で光り輝いている。タシデレ(幸あれ)。
書誌情報
坂本龍太《エッセイ》「ブータンと私 ブータンにおける高齢者ケア」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.2, BT.2.01(2024年7月22日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/bhutan/essay01/